大家と店子と克服中





     女性恐怖症を治す

治して、一歩彼女に近づく。それで俺たちが付き合うことになるかどうか、それはわからない。けれども、これをなんとかしないと話は始まらない。
だから、絶対。なんとか、死ぬ気で。

こうして俺は愛と言う名の俗っぽい、目の前に釣られたニンジン代わりの欲望により、俺は見事女性恐怖症を克服できたのでした     なんて、あるはずもなく。



(まあ、もしそうだってんなら、そもそもこの年まで悩んでねぇよなあ)

気の持ちようでなんとかなる話であったのなら、あんなにも“あの人”たちを悲しませる必要もなかったはずだ。「管理人さん、その、動かないでくれよ、こっちに来ないでくれよ」「はいはい。お料理中ですからガイさんのとこには行きませんよ。いつでもどーぞ」 
とんとこトントン、とまな板の上で包丁を滑らせる管理人さんの背中を見ながら、一定の距離を保って彼女の周りをぐるぐる回る。ついこないだも、同じようなことをしたような気がするなあ、と思いながら、進歩のないことを繰り返す。

管理人さんの方はといえば、始めのうちは顔を赤くして俺の挙動一つにびくんと肩に力を入れていたというのに、今となっては「はいはい」なんて適当な返事をしながら無防備にこちらへと背中を見せている始末である。始末というか、おんなじことの繰り返しで、緊張をするのも馬鹿らしくなったというか、そんな雰囲気がむむっと漂う。申し訳ない。

どうにかならねぇもんか。
そんなひとりごとを呟いて、それこそ何度も考えた思考だった。無理なのかもしれない、と一瞬気持ちが沈んだ。いつもいつも、心の奥底でそう考えていた。けれども“あの人”たちに申し訳がなくて、決して口にはできなかったし、自分の心でだって認めたくなかった。でも。
(無理かもしれない)
「ガイさん?」 ちら、と管理人さんがこっちを振り向いた。心なしか、いつもより頬が赤くて、どうしようかな、というふうに視線を逡巡させた。

「管理人さん、じゃ、ないです……」 別に、ガイさんが言いづらいなら、なんでもいいですけど。
自分で言った後に、しまったと後悔するようにまた耳を赤くする彼女を見て、「うん」と俺は頷いた。「」と、声をかけると、はぎゅっと唇をかんだように鼻から息を吸い込んで、ぷい、とまた背中を向けた。エプロンの紐が、ぴろぴろと動いている。それがまるで尻尾のようで、可愛かった。


俺たちは少しずつ時間を過ごしたし、お互い何かが変わった。一緒にいる距離は相変わらず変わらなかったけれど、小さな言葉の節々だとか、空気だとか、色んなものが変わっていた。
おそらく、それに気づいていたらしいどこぞの察しのよろしい中学生は、我関せずという顔だったし、不健康な顔をしたメガネの店子は、多分始めっからなんにも気づいていない。ある意味一番マイペースな男だった。

ときどき、“彼ら”から電話がかかってきた。それには元気にしているか、という問いかけが必ず入っていて、俺は常に頷いた。
ガイラルディア、いつでも戻ってきていいのですよ。いつでも、いつでも。
彼女の言葉に、俺は少しの間を置いて、うんと頷いた。今は戻ることはできなかった。今のままでは。



「ガイさんは、ガイラルディアさんなんですか?」
「うん?」

勉強を教えて欲しい、という彼女の言に頷いて、妙に空間を開けながら椅子に座っていた俺は、ぎく、と手の中から教科書を落とした。開いて落ちた三次関数のページを慌てて戻しながら、ゲホ、と咳をついた。そうした後に、別にそれほどまでに慌てる必要もないことだ、とすぐに気づいた。「ただのあだ名さ。小さなころに姉が面白がってつけたんだ。なんでいきなり?」「この間、お姉さんから電話がかかってきたときに、そう言ってらしたから」

うっかり、という感じでしたけれども。と付け足されたセリフになるほどと頷いた。「何か意味でもあるんですか?」「さあね。黄色くて赤い花の名前だということは知っているけども。小学校に入る前だったかな。なんともなしに、姉が俺のことをそう呼び出したんだ」

名前の響きが少しだけ似ているからかもな、と苦笑した後、ちくりと胸の奥で奇妙な感覚があった。ガイラルディア。彼女がそう呼ぶ度に、どこか苦しくなる。そういえば、女性に触れることができなくなったのは、あの頃だったかもしれない。

「お姉さんって、どんな人なんですか?」
「なんだ、勉強に飽きてきたかな?」

は少しだけ頬を赤くして、ぷくりと膨れた。机に向かい直して、かりかりとペンを動かす。俺はクス、と笑った。「しっかりしている人だよ。優しい人でもあるけれど、厳しくもある。俺とは年が九つ離れているから、もう家を出ているけれど、すぐ近くだから、あまりそういう感じはしないな」「九つも?」 きょとん、とがペンをとめてこっちを見た。俺と目が合うと、すぐさまノートに目を移して、さも真剣にしている、というような顔をする。

「本音をいうと、姉に会うことは少し気がひける」

ぴらぴら、とページをめくった。誰にも、ペールにも口を開いたことがない話だ。はまたパチパチ、と瞬きをして俺を見た。「嫌いな訳じゃない。寧ろその反対だし、彼女が親代わりのようなものだったから、感謝することばかりなんだ。でも……ほら、俺はこういう体質だから」
ほんの子どものころは、大丈夫だったはずなのだ。けれどもあるときから駄目になった。女性ばかりが怖くなって、母親も、手伝いをしてくれる女性も、みんなが駄目だった。特に姉に対しては近づくことすらできなくなった。

できる限りのことをしたつもりだった。けれどもいつまで経っても改善することのない震えに、胸が辛くなった。大丈夫、気にしてなどいない。そう笑う姉に、申し訳なくてたまらなかった。「だから、俺は家を出たんだ」 とっくによそに嫁入りをしている姉から、母から。全部から逃げ出した。距離を置こうと思った。もしかすると、女性とは離れた場所にいることで、また何か光明が見えてくるかもしれないと、大学の三年にあがり暫くして、唐突に思いついた。

それはひどくいい案のように思えた。
けれどもよくよく考えれば、あの頃の自分はひどく視野が狭くなっていたのかもしれない。ろくに下見もせずに転がり込んだこの家で彼女に出会って、びっくり仰天した。
ぼんやりと言う顔でこっちに首をかしげるを見て、思わず笑った。はきょろきょろと辺りを見回した後に、また首を傾げた。「……あの?」「いや、あの頃の自分に感謝した」
よくぞ決断してくれたものだ。と褒めてやりたい。

残念ながら、頭を悩ませるこの体質の何が変わった訳でもない。けれども、今はそれほどまでに罪悪感に悩まされることもなくなった。もちろん、治ればいいとは思っている。昔はガチガチと硬くて大変だった何がか、柔らかくぽとんと変わって、心の中に落っこちている。きっとそんな感じだ。

あんまりにも俺がくすくす笑っていたからか、はまた気まずげな表情で耳を赤くしてノートをめくった。俺はまた教科書をめくって、ついでにもう一人の教え子を思い出した。この間、彼はすっぱりと髪を切った。驚き半分、すっきりと髪を軽くした彼はどこか涼しげで似合っていた。

「あ、そういえば、ルークの髪の毛」

彼女も同じ事を考えていたらしい。「ビックリしたよな」「ええ。でもあっちの方がいいですよね。アッシュと間違えられるのはもう勘弁、だなんて、申し訳ないけど、ちょっと笑っちゃう」「ん?」 いや、と思った。

「ルークが髪を切った理由は、そうじゃないだろう?」
「え?」

きょとんと瞬く彼女の瞳を見ていると、何かを思い出しそうになった。けれどもまたぐちゃぐちゃとして、記憶の中に沈んでいく。何かを言おうとした。何かを考えた。でも駄目だった。俺は顔にぺたりと手のひらをおいた。瞳を瞑った。カチッ。音がした。

きょとりと俺は顔を上げて、部屋の中を見回した。「……ガイさん、どうかしましたか?」「いや、今」 言葉に詰まった。「時計が動いたような、そんな音が」 カチリと静かな秒針の音が聞こえた。
はまた不思議気に瞳を瞬かせた。そして幾度か考えるように首をかしげてから、本当になんてこともないように、彼女はぽつりと言った。

「もともと、動いてますよ」

カチッ
また音が聞こえる。

そうか、と思った。「ルークは、髪を切ったのか」 だから、そう言ってるじゃないか、と自分自身の声が聞こえた。
ひどく、泣きたいような気持ちになった。かたん、と椅子から立ち上がった。教科書を椅子の上に置いて、一歩足を進めた。ぶる、と体の奥が震えた。「ガイさん?」とは困惑したように瞳をきょとつかせた。俺はバカみたいに突っ立ったまま、彼女を見下ろした。はわずかに肩を小さくさせて、人形のように固まってこっちを見上げていた。

「……その、手を」
「手?」

ぽとん、と彼女の手からシャープペンが落っこちる。こっちに、という言葉の前に、彼女はおずおずと俺に手を差し出した。俺も手のひらを伸ばした。ぶるぶると小刻みに指先が震えていた。けれども、勢い良く彼女の手を掴んだ。「わ」とが小さな悲鳴を上げた。「これくらいみたいだ」 もう一度、ぎゅっと彼女の手を握りしめて笑った。がくがくと力の限りに体は震えていて、情けない限りだった。

は一瞬、きゅっと顔をくしゃつかせた。そうした後に、ひどく嬉しげに笑った。泣き出しそうな顔だった。それを見ているとたまらなくなって、勝手に体がしゃがんでいた。彼女に小さくキスをした後、「もうちょっと出来たみたいだ」 そう格好をつけて笑った後、がくりと全身の力がぬけて、ぺたりと床の上に座り込んでいた。

は呆然として、椅子に座ったまま俺を見下ろしていたし、俺も多分同じような顔をしていた。お互いパチリと目を合わせると、自然と声をあげて笑っていた。涙がでるくらいにが笑って、ぱっと俺に飛びついた。お互い正面から抱きしめあって、けらけらと笑った。相変わらず体の震えは止まらなかった。けれども必死になって彼女を抱きしめて、彼女の首筋に頬を当てた。ひどく柔らかい体だった。


こうして、俺とはまた一歩近づいた。

     それからしばらくして、俺はこの家から出る決意をした。



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2012/09/29
1000のお題【985 遺伝子に刻まれた記憶】