「大丈夫です、大丈夫ですからね」

そう彼女は笑っていた。








「ガキはどこだ、どこに消えやがった!」
野太い声ばかりが辺りに響く。ガキだ、ガキを探せ。幾重にも重なる声に、彼はびくりと体を震わせた。(……な、なんで) 危ないから一人で外に出てはいけない。そう父親と、母親代わりの人間に口を酸っぱくされていたのだ。それなのに、少しだけ気になった。部屋の窓の外はどうなっているのだろうとか、道を歩く人達は、なんであんなに忙しそうにしているんだろうとか、遠くに見える噴水の中に、一人で足をつっこみたいだとか。

外になら何度も出たことがある。けれどもやっぱり一人は違う。おでこの指紋がつくくらいに、ぺたりと窓に頭をくっつけて彼はぱちぱちと瞬いた。駄目かもしれない。そんなことは少しくらいしか考えなかった。ぱちぱち、と真っ黒な瞳で瞬きを繰り返して、小さな指をちょんと窓にのせていた。いこう。

冒険だった。隠れるみたいに靴をはいて、背伸びをしてドアノブに手を回して、ゆっくりと開く世界にパッと頬が明るくなった。四角くて、長細い光がドアを開ける度に広がっていく。わあ、と感嘆の声をあげた。力の限り飛び出した。


(やあ、きみ)

どこに行くのかな、おじさんたちと一緒にどうだい。一人じゃ危ないよ。
そう笑う男たちを見上げて、これはよくないことだ、と少年は気づいた。だいじょうぶです、と子どもらしからぬ素振りで舌を動かし、逃げた。捕まった。悲鳴をあげた。がぶりと力強く腕に噛み付いて、彼らが怒声を上げる間に、小さな体を転がらせ逃げた。「お、おねえさん……」「大丈夫、もう少し隠れていれば、みんなどこかに行っちゃいます」

ちょんちょん、と細い人差し指を口元に伸ばす女性に助けられた。暗い室内では分かりづらいが、銀色の髪が柔らかに揺れている。金でもなく、自分みたいな黒でもなく、初めて見た。「すぐに助けは来ます」 本当だろうか。だいたい、女の人に助けてもらったままというのはあまりよくない気がする。あっちに行け、だれか助けて、そう叫んだとき、気づいたら彼女が彼の手のひらを握り締めて路地裏を走り抜けていた。ぼとぼとと彼女の足元に転がる果物を尻目に駆け抜けた。逃げられないと気づいたとき、塀を乗り越え、窓枠を外し、彼女とともに小さな空き家の中に逃げ込んだ。

かちかちと指先ばかりが震えていた自身に気づいた。慌てて、両手をあわせてごまかそうとした。けれども駄目だった。
「そうですね、ちょっとお話ししましょう」
小さな声で、彼女は彼にささやいた。指先にのせられた手のひらは、幾分か冷たい。「あなたと、追っている人たちは知り合いですか?」 首を振った。「追われている理由が?」 言いたくないならいいんです、と囁かれながら、家具の下に潜り込む。ほこりっぽい中でくしゅん、と飛び出そうになったくしゃみをむずむずと抑え込んだ。「それもわからないです」

「なるほど……」
単純に、お家がお金持ちさんなんですかね、と彼女はきゅるりとまたたいて、また頭を小さくさせた。ガシャン、と遠くで何かが破壊される音がする。どたどたと足音が響いた。思わず息を飲み込んだ。「ここか!」 床についた埃の中で、ぽてぽてと足あとがくっついてしまっていた。彼女は即座にテーブルを蹴りあげた。重量のあるテーブルが、その重さを感じさせないほどに、くるりと静かに回転する。あ、と息をついたのは一瞬だ。鈍い音を立てながら地面に落ち着く机の重さに、やっとこさ現実を思い出した。

三人。三人の男がいる。怯んだ隙に、彼女は拳をつきだした。「ギャッ!」 短い悲鳴とともに彼女は即座に肘を打った。崩れ落ちようとする男を一人ひっつかみ、投げ飛ばす。どしん、と男が一人、壁にたたきつけられた。「お姉さん!」 後ろから、左から。つきつけられた剣を彼女はすり抜けるように交わし、少年の手を掴んだ。「二階へ!」 足音が増えている。もつれそうになる足を引きずり、ホコリだらけの階段を上った。「あなたは」 だというのに、少女はやんわりと笑っていた。少年の手を握りしめて、扉を叩きつけるように開ける。

「勇気がある男の子ですか?」


はたはたと、明るい陽光の中で、いくどもカーテンが翻している。


     !」
知らない男の声だ。誰を呼んでいるのだろうか。ぴくりと彼女は瞳を開けた。「飛び降りろ!」 窓の外だ。即座に、彼女、は頷いた。「はい!」


あなたも、と伸ばされた手のひらを、気づいたら勝手に掴んでいた。(勇気のある男の子ですか?) くるくると視界が回っていく。ごくん、と悲鳴を飲み込んだ。「……テッドさん、これくらいだったら受け止めてくれなくても大丈夫だったんですよ?」「……うるせえ」 彼女の下で、彼と彼女、二人分の体重にぺちゃんこになった茶色い髪をした少年が、面倒臭げに口元をひん曲げた。「お前は気づいたらいなくなるし、探してりゃ変な奴が慌ててるし、そいつと一緒に妙なやつらに絡まれるし、ドタバタうるさい家があると思ってみりゃ案の定だし」

ぼろぼろの格好で、ぶつくさ文句を言う男と、ぱちりと目があった。茶色い瞳だ。何かを言おうとする前に、「坊ちゃん!」 聞き覚えのある声に顔を上げた。「グレミオ!」「きゃあ!」 悲鳴を上げたのは女の人だ。

「おい! いやお前、グレミオだったか、血ぃとめろ、血ぃ!」
「へ、あ、す、すみません、それより坊ちゃん! お怪我は! いやまだ無頼漢が近くに!?」
「ひえ、あう、ひえ」
「グレミオ、顔に傷が! 傷がついてる!」
「こんなことくらい、グレミオにはなんてこともありません! 坊ちゃんはグレミオがお守りします!」
「ひええああ」
「だからお前、血! 血!」





  ***



縄をまかれて捕まえられた男たちの周りでは、重い鎧を着た憲兵達が、慌ただしく動き回っている。
なにかお礼をさせてほしい、という言葉に、「別になんもしてないだろ」と茶髪の男はめんどくさげに頭をひっかいて、その隣では、あの銀髪の少女がふくふくと口元に手を当てて笑いをこらえている。
顔に十字の傷をつけられた使用人は、派手な包帯で顔を覆っていて、今更ながらに痛みを思い出したらしく、お礼の言葉と痛みの言葉を交互に主張していた。
もしかしたら、その傷は残ってしまうかもしれない。ごめんなさいの言葉は吐き尽くした。坊ちゃんに怪我がなくて、本当によかった。謝るたびに、そう返されることが苦しかった。


「まあ、それじゃこれで、俺達は」
「せめてうちに来てください。このままお返ししたとなっては、私がテオ様に叱られます! あいたた……」
「本当に気にしないでください。馬車の時間もそろそろですし」

今日街をたつ予定だったんです、と微笑む彼女に、「そうだったんですか……あうたた」 グレミオと一緒に、なぜだかしょげた。それじゃあ、と消えゆく二人組を見ていると、ひどく胸がそわついた。
「ありがとう、ございました!」 お礼の言葉は聞こえただろうか。小さなてのひらを握りながら、少年はパッと頬を真っ赤にして叫んだ。彼女はやんわりと嬉しげ振り返った。それからすぐに背中を向けた。少年はやっぱりこっちを見ないままだ。坊ちゃん、とグレミオの声が聞こえる。「またね!」 今度は、もっと力いっぱい叫んでいた。

長い影が、ゆるりと揺れた。
男は汚れた頬をぬぐいながら、ちらりとこちらを振り帰った。それからひらひらと片手を振った。
ばいばい、と返事の手を振る。青い服の男の背を、少年は見送った。