隣の家の住人、と付き合うことになった。
とは言っても、俺はさんと、ここ数ヶ月顔を合わせていない。けれども毎日話してはいた。別にケータイとか、メールのことを言っているのではなく、俺はきちんと彼女の声を聞いて、それに返事をしていた。ただ顔を合わせていなかったというだけだ。
アパートの壁越しに続けられた会話は、案外楽しかった。けれどもどうにも物足りなかった。自分のせいだとわかっているくせに、心の中で、勝手に文句を言っていた。お隣さんに戻りませんか、彼女は俺にそう言った。顔も合わさなくって、最初と同じようなただのお隣さんに。そうしたら、静雄さんはこの部屋から離れないでいられるし、私も大丈夫、怪我をしません。
嘘だ、と分かっていた。
こんな薄い壁一枚で、一体何になるって言うんだ。俺は簡単にこんなものをぶっ壊して、また彼女を傷つける。そう分かっていた。だというのに、俺はその提案を飲み込んだ。そして最初と同じ、ただのお隣さんに戻ると言っておいて、結局そんなことはなく、ただ無関心だった関係に戻れそうにもなかった。
俺と彼女の壁越しの会話は続いた。彼女の料理の腕は、少しだけ上達した。
隣の女が好きだった。
なんでこんな風に、ずるずると居座り続けてしまうのか。陳腐な言葉で説明すれば、好きだった、ただそれだけだ。いつかまた、俺は後悔する。こんどこそ、彼女は俺から離れて行く。そう心の底では思っていた。
けれどもある日、俺に転機がやってきた。
「さん、俺ら、付き合いませんか」
いつもと同じく、壁越しに言葉を交わした。彼女からの返事はなかった。いないのか? と思えば、しばらくしてから、「へっ!?」とすっとんきょうな言葉が聞こえて、ずでんと地面に尻を打ちつけたような音が聞こえる。「今まで言い忘れてたんすけど、俺さん好きですし」「あ、そうですか、私も……じゃなくっ! 軽いっ!!」
なんだか流れが軽いです静雄さん!! とどどんと壁に何かぶつかる音がする。位置的に腕だろうか。「俺、手加減できるようになりました。まだ、ちょっと自信はないんですけど」「えっ」「自分でも、結構驚いてます」 つーか、すげえ喜んでます。
え、え、え、と慌てたような声が聞こえる。「ほんとですか、静雄さん」「嘘じゃねえよ」 ゴツン、とさきよりも大きな音が聞こえた。頭でもぶつけたんだろうか。
「だから、さん、俺ら付き合いましょうか」
人並みに緊張はしているつもりだった。けれども、気づけば眉間に皺がよっていた。ぐりぐりと人差し指で押さえ込んで、なるべく表情を和らげようとした。けれども、そんな顔なんて誰が見ている訳でもないとやっぱりやめた。パタリと手のひらを膝の上に置いて座り込んだ。同じく、彼女も腰を下ろした音が聞こえた。「は、はい……」 勝手に口元が緩んだ。
それから二人で待ち合わせをして、外で会うことになった。このまますぐに玄関から顔を出して、というのは、どうにも締まらない気がしたのだ。明日の平日、夕方に。さん、時間の方は、と聞いたら、大丈夫です、と答えた。静雄さんの方は、と聞かれたので、仕事帰りですが、と答えた。
俺はわずかにそわそわと、駅の前で、彼女を待った。変わらず自身がバーテン服なことに、さすがにまずいか、と気づいたのはしばらく経ってからだ。常にこの格好なものだから、服の認識なんてすっ飛んでいた。遅いな、と携帯を確認した。彼女に電話の一本でもかけてみるか、と思ったのだけれど、番号を知らないことに今更ながらに気づいた。いつも隣の部屋にいたものだから、必要がなかったのだ。
しょうがねえな、と柱に腰をもたれかける。それから数分経ったのち、「静雄さん」と息切れした女に声を掛けられた。さん、そう思って振り向いた。しかしながら、俺はただ眉をひそめた。「ごめんなさい、ちょっと、用事ができてしまって、遅くなって、番号も知らないから、そのままの格好で来ちゃって」 はー、とさんが胸元に手のひらを置いて、頭を下げる。いや、つーか、「さん?」「はい?」「高校生だったんですか?」「えっ!?」
どっからどう見ても、今では名前と格好も変わってしまった高校の制服で、俺は激しく顔を歪めた。
そういや、何をしている人なのか全然聞いていなかった。年下だろうとは思っていたが、まさかここまで下だろうとも思わなかった。相手のことを全く知らずに好きとか、俺は何を言ってんだ、と多少恥ずかしくなりながら顔を背けると、さんはさんで、「言ってませんでしたけ……そういえば、前々から訊こうと思っていたんですが、静雄さんのお仕事って、お酒屋さんですか?」「お、お酒屋……?」
もしかしてこれのことか、と自分の服をつまんで確認した。酒屋はちょっとちがくねぇか。「いや、全然。つか、俺の名前知ってますよね」「はい?」 さんは、当たり前だろうと言いたげな変な表情を作った。「あ、いや、別に。変なこと訊いてすんません」 バーテン服のグラサン、平和島静雄。池袋に住んでいて、俺のことを知らないんですか、と言おうとして、まるで自意識過剰なセリフのようで、やめておいた。まあそいうこともあるだろう。
「酒屋じゃないです。まあ、ボディーガートみたいなもんしてるっつーか」 借金取りの、と頭につくが。「あー、力持ちさんですしねー」と納得しているさんに、それ以上説明するのはやめておいた。
それから暫くの間、お互いピタリと会話をやめた。ゆっくりと視線を交じらせて、少しだけ彼女は気まず気に笑った。俺も同じく、下手くそに笑った。久しぶりの再会 と、言っていいのかわからないが、案外適当に終わってしまった。さんも、同じことを考えたのか、下手くそな俺の顔を見て、くすっと吹き出した。笑うなよ、と俺は彼女の頭を僅かに押さえた。ぎくり、と彼女は震えた。思わず自身の片手をかばうように腕を掴んだ。俺も体を固まらせた。
けれども、ゆっくりと手のひらを動かした。彼女は、長く息を吸って、吐き出した。ぽんぽん、ともう一度頭を小さく叩いて、俺は手のひらを離した。またお互い目が合った。そのまま、彼女の手を握った。さんは、ゆっくりと俺の手のひらを握り返した。
どこに行きましょうか、と俺が訊くと、どうしましょうか、と彼女は嬉しそうに声を出した。どこへでも、なんならお家に帰っても。それじゃあ来た意味がないっすね。やっぱりそうですかね。でも、俺も実は全然考えてませんでした。私は考えてました、でも、静雄さんを見たら、どこでもいい気がしてきて。じゃあ俺も、そう思ったってことで。
からませた小さな指に、わずかに顔が熱くなった。けれどもそれが悔しくて、片手をポケットにつっこんで、俺はただ前を見て、彼女よりも、ほんの少し前をゆっくりと歩いた。「静雄さん」「はい」「耳が、赤い感じですよ」「…………」
黙ってください、と口元で小さく呟けば、さんが嬉しげに笑って、俺の手をまた握った。
2012/03/25
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Eさんにお誕生日フライングで送りつけた……フライングまじ……