| 私はバイトまでの道のりを、たったった、と駆け抜けた。 第7話 ごめんなさい終了です 手提げ鞄を肩にかけて、一歩踏み出すたびに、大きく鞄がゆれる。ゆさっゆさっ。中に入っているものは、お財布と、小さなポーチとそれだけだけれど、もしかしたら遅刻するかもしれないと焦る気持ちの中では、ぽーい! と道ばたにそれを捨ててしまいたくてたまらない! ふっ、と口元から抜けた空気を、ぐっといっぱい吸い込んで、道を蹴る。しゃっ、と靴の底がこすれるような音が聞こえた。びゅーん、と私のほっぺたを叩く風に、ほんの少し目を細める。 目の前の信号が、ほんの少し点滅した。(あ、速く、行かないと)(あの道は、待ち時間が長いって有名なのに!) さっきよりも勢いよく、足を伸ばして、縮める。しゃっしゃ! こすれる音に、ピッピと変わる信号。青い点滅に、ぐ、と唾を飲み込んで、今まで以上の瞬発力を見せている自分に期待して ぐらりと体のバランスが崩れるのは案外簡単で、そのまま体の右側からずざずざずざっとコンクリートにこすりつけるように、体が前進する。ずざざざざー!(あれ) ぺったりと地面にくっついたままの格好で、いつもよりも幾分か低い視線の中、自分が今、どんな状況にいるのか、理解するのに、ほんの少しの時間がかかった。 ぱっ、と短く点滅していた信号が、赤に変わる(あ、遅れる)さっ、とそのまま立ち上がって、そのまま真っ直ぐ走っていこうとしたときに、誰かにぐいっと掴まれた。 ぱっと目の前を通る車と、廃棄ガスの匂いに、ごほっ、と軽く咳き込んでしまって、遅刻する、と頭の端っこで冷静に考えてしまう。「危ないだろ!」 じっと目の前を見詰めていたものだから、声が誰のものなのか、また私は分からなかった。あぶない。その4文字を頭の中でぐるぐると変換して、そうか信号が赤になってしまったんだから、飛び出しちゃダメだったんだ、と当たり前のように、考える(どうもこの頃、頭の動きが鈍いと思う)(きっと、彼の所為だ) 後ろの手を、掴まれたまま、またぼっとしていたらしい。「聞いてるのか」 ほんの少し、詰問するような声の響きにはっとして、振り返った。腕は掴まれたままだった。 ほんの少しずつ傾きかける夕日の中で、彼の銀髪は、ほんの少し、茜色に染まっていて、ぎゅ、と私の腕を掴んでいる証拠に、服ごしに、彼の体温が伝わる。ぐ、と眉毛を逆さの八の字にして、皺を寄せた彼は、いつも見る彼と同じだ。どこか怒っているような、最後にレジごしで話した彼と、まったく同じだった。 危ないことをするんじゃない。きっと彼はこういいたいんだと思う。ぐ、と一文字に結ばれた唇を見て、ぱっと分かった。 ありがとうございます。そう私の口が作る前に、止まっていた思考が、やっとこさ回り始めたらしい。なんで彼がこんな所にいるのか、なんで私の腕を掴んでいるのか、いったい彼はなんなのか。 ドクドクドク。性懲りもなく騒ぎ始めた心臓が、いたい。雛森さんと、彼の事を考えたとき痛かった、何倍もいたい。体中の血が、ぐるぐると回って、回って、これ以上ないくらいに回って(なんで、こんなところにいるんだろう) 私が、あのコンビニでの店員だと、彼は知っているのだろうか。それとも知らずに、引っ張ったのだろうか。もしかしたら彼は、私をいつも利用するコンビニの店員だと知って、危ないと呼びとどめたんじゃないかと、変な勘ぐりが、頭の中を過ぎった(ううん、あんなに毎日来るぐらいだもの。きっと家が近くて、偶然にきまってる) 当たり前だ。偶然だ。分かってる。分かってる。分かってる。なのに、 ぐ、とまた彼が眉間の皺を濃くした。同時に握られた腕の力も強くなって、今度は私が眉をひそめてしまうと、はっとしたのか、彼は手の力をほんの少し緩めた(なのに) (偶然じゃ、なかったらいいと、ほんの少し考えてしまう) 例えば、彼が、私を、いつも利用するコンビニの店員だと知って。例えば、彼は、私の事を気に掛けていてくれて。例えば、私と同じように、話しかけたいと、思っていてくれたら、と、 どくりと胸の中が、またきしんだ。 『そんなのテレビの芸能人にときめいてるみたいなもんでしょ』 乱菊姉さんへと、つんとすまして言い返した言葉が、頭の中で回る。 だからきっとコレは、ソレとは違うのよ。誰かがいった。いいや私がいった。ソレとは、一体、何なのか。ソレとは、一体、どんなものなのか。(嬉しくて、辛いのよ) 姉さんの言葉が、頭の中で木霊する。 (もう、わかってた) 今更だと、思ってた。彼を見れば、思わず頬が紅潮しそうだったし、彼がいつ来るのかと、心待ちにしてた事もあった。自分から、こんな事じゃダメだとシフトを変えたっていうのに、もしかしたらと、それでも心の底で、妙な期待を持っている事も、分かってた(だって、自分の事だもの) 本当に、心の底から情けない気持ちになるなんて、初めてだ。 こんな相手に申し訳ないと頭を下げてしまいたくなる気持ちになるのも。 ぎゅ、と彼が私の腕を掴む力が、強まった。 どんどんと頭を下げてしまっていたらしい私は、ぱちっ、と彼の緑とも青とも言い得ない瞳と視線が絡まった。ぱくり、と彼が口を動かそうとする。「なぁ、」 あなたの事が、すきです。 そういってくれたら、どんなにいいだろう、そういえたら、どんなにいいだろうとあり得ない空想が、頭の中が占める事が、本当に申し訳なくて、彼は、きっとこんな事、私が思っているなんて、つゆほども知らなくて、それよりも、きっとこれが初対面なのだと思っているに違いなくて、 ぐっ、と喉の奥で、何かが詰まった。泣きたいんじゃない。それでも、何かが、詰まった。ほんの少し、開いた私の唇から、洩れるように、微かに、「ごめんな、さい」 本当に、本当に、本当に、ごめんなさい。 彼の顔なんて見えない。灰色で、でこぼことした地面しか、目に入らなかった。夕日が落とす影は、長くて、まるで私をバカにするかのようにせせら笑う。バカだね。バカよ。バカだ。バカです。(こんなことじゃ、いけないでしょう) いやなヤツだ。まともに話した事もない相手に、勝手にときめいて、勝手に失望して、勝手に、また期待して。そして、また、期待しそうになる(こんな、一方的に) カサカサと乾いた唇が、妙に、寂しい。ぐいっ、と彼に掴まれていない方の手で、唇を覆った。上手く息が出来ない。鼻から吸おうとしても、なかなか肺の中いっぱいに空気がたまらなくて、口からふっ、と息を吸い込んでも、今度は声が上手く出ない。「本当に、ごめんなさい」 ぱ、と、彼が手の力を、ゆるめる。 「いやな女で、ごめんなさい」 走った。気づけば、長いはずの信号が、きっちりと青を示していて、初めの目的地だった場所へと走った。呼吸がやっぱりままならない。唇がかさつく。気持ち悪い。また、ぐいっ、とぬぐった。 そのとき、初めて私の手のひらに、水分がぽとりと落ちている事に気づいた。まるい滴が、そのまま地面へと、またぽとり。 (そうか、だから、呼吸が、しづらかったんだ) あんなに、急いで走っていたっていうのに、動くこともしない自分の足を、また見詰めていると、ぽとりと地面に滴が落ちた。ぽとり。ぽとり、ぽとり。 やっぱり、長く続く影は、私をバカだね、と笑っているように、見えた。「うん、そうだね」 やっとこさ、上がらなかった顔を、上へとあげる。茜色だ。す、と目を閉じて、唇を噛みしめた。 そして私は、コンビニのバイトをやめた。 1000のお題 【803 それはもっともなことだ】 TOP 2008.05.10 |