| シゲ。本名は忘れた。けれども俺は、彼をそう呼んでいた。 第7話 忘れてはいけないこと 2 「なんや、覚えとーやん」 満足そうな微笑みに、背中で鳴る機械音が耳に響く。金属の冷たい感覚が皮膚を通り過ぎて体の動きが緩慢になる。 「お前、なんで髪そめてんねん」 「ん? 似合うやろ」 「なんで、東京におんねん」 「も、こっち来とったんか」 「俺のことは、ええ」 俺はそういって顔を下へと向けると、「ほーか」とシゲはポケットから財布を取り出した。小銭を取り出すと、使用禁止なんておかまいなく、俺越しに自販機のコインの投入口へとカララン、と軽い音を立てて三枚ほど入れた。 適当に押されたボタン二つに背中で物が落ちる音がする。「邪魔や。どきぃ」俺はほんの少し、座る場所をずらした。 コーヒー二つをシゲは片手で器用に持ち、一つを地面へと置く。「おごりや」 コーヒーはあまり好きではなかったけれど、俺は文句なんていわずにプルトップを人差し指の爪でかつんと弾いて開けた。 ついでに口も開けて、シゲへと言葉を投げかける事も出来なくて、何の意味もなく「お前は、」といいかけた所でやめた。シゲは、俺の一つ上だった気がしたからだ。 「敬語の方がええか」 「なんでや」 「中三やろ」 「中二やで」 俺が意識的に眉間に力を入れた事に気づいたのか、シゲは喉の奥でクククと押し殺したように笑うと、「俺、だぶっとんねん」と何のことなけに、中指と親指以外の指を立てながら、コーヒーを垂直に持つ。 ぐるぐるする。 「何年ぶりや」 「……6年、7年」 「そないに経つんか、が大きーなっとる訳やな」 撫でられるように出された指先を、俺は顔を横へとずらす事でかわした。破裂しそうな、心臓の鼓動がうるさい。 「ほんま久しぶりやなぁ」というシゲの言葉に、うん、と声をなく頷いた。 「俺、も、戻らなあかん」 「なんや、もうちょいゆっくりできんのか」 「きょ、教室に戻らなあかんねん」 座り込んだままの姿勢で、上手く立つ事が出来ない。微かに震える両足と両腕が砂利が肉にくいこんで、じくじくと痛い。 ずりずりと自販機を背もたれにして、じれるくらいに、ゆっくりと体を上げた。 しゃあないなぁ、と声が聞こえる。壁代わりの機械へと付けていた両手は、力強く、引っ張られた。 ひっぱられた。 「うあ、」 浮き上がった体の視線に、ノイズがはしる。ざざざざざ、と俺の目の前へと流れる砂嵐が、ほんの少しずつ消えていく。子どもが二人いた。小さな教室の中に、黒髪の、大きな子どもと、小さな子ども。 (ああ、ちくしょう) 「シゲ、なんや今日、夕日めっちゃ綺麗やな」 小さな子どもの言葉に、俺は始めて紅の中にいたと気づいた。窓の外へと沈む黄色い光の中に、ほんの少しの赤が混ざり合って、オレンジの色を作る。大きな子どもはほんまやな、明日は晴れや。と嬉しそうにカラカラ笑った。 「後でまた、サッカーしよな」 「今日はもうあかんで。日が落ちるやろ」 「ナオキなら、ええっていう」 「アイツはアホやねん」 小さな子どもはくるくると大きな子どもの周りを回って、手に持つ白と黒のボールを胸に抱いていた。小さな体とそのボールを比べてみると何故だか大きく見える。大きさは違わないと分かっているのに。 足を滑らせたのか、後ろへと小さな子どもはバランスを崩し、大きな音を立てて、尻から突っ込む。アホやなぁ、と大きな子どもは、彼へと手を伸ばした。 その手のひらを、握ったまま、小さな子どもは、じっと見詰めている。「なんや、どうしたん」「なぁお前って、」 (その先は、いっちゃ、だめだ) いつの間にか、小さな子どもの視界は、俺と重なり合っていた。 シゲは、なんや賢いヤツや。俺より一つ上なだけやのに、大人とポイポイ言葉を交わしよってなんやようわからんけど難しい言葉をべらべら使いよる。 サッカーやってめっちゃ上手いし、話す事もあきへんし、俺も俺の妹も、こいつの後ろを歩いときゃあ問題あらへんってのわかっとった。 シゲは誰にも負けへん。俺だってかなわへん。けど、ほんま一つやけどシゲにはないもんもっとる。 俺はなんでやろうなぁ、他の人間に触ったら、時々妙なもんが見えるんや。 ぽかんと俺一人だけ、変なとこに投げ出されてもーて、目の前で映像が流れよる。 そいつにも知らんことを俺は知っとるし、そいつしか知らん事も、俺は知っとる。 なんやこれ。とおもっとったら、妹に、「お兄ちゃんは魔法使いみたいや」と目ぇキラキラさせてそういわれたんや。 そうや俺は魔法使いや。かっこええやろ。兄ちゃんかっこええやろ。 これだけは誰にも負けへんし、凄いやろて誰かに自慢できるんや。おかんはそんなもんいうたらあかんってよういうけど、凄いもんは凄いやないか。何があかんねん。 ぎゅううってシゲの手のひらを握ったら、やっぱなんか頭の中で、映画が始まった。ようわからへん言葉がぐだぐだ流れよってシゲのおとんとおかんがギャアギャアいいあらそっとる。難しい言葉ばっかやったけど、その中で一つだけ覚えた。だって短いやん。三文字やった。 「大丈夫かいな、頭でも打ったんか」とべっぴんさんが台無しな顔してこっち見よる。 シゲ俺めっちゃ凄いねんで。だあれも知らん事しっとんねんで。(だめだ) 俺はにかにかしてもーて「なぁお前って、」(だめだいったら) 「めかけの子なんやろ」 俺は妾なんて言葉の意味知らなかった。ただ「なんでそんな事知ってんねん」と目をぐるりと大きくさせたシゲを見たかっただけだった。 けれどもシゲは口を横一文字に結んで、俺が予想していたニュアンスと少し違う風に、「なにいってんねん」と低い声を出した。 何故だかシゲの声にびくりと背筋を震わせてしまったけれど、「そうなんやろ、そうなんやろ」とぐるぐるおもしろおかしく回れば、シゲもいつも通り大きな声を上げて笑ってくれると思ってた。 真っ直ぐ俺の左頬を狙って、シゲの拳がぶっとんだ。殴られたことよりも、吹っ飛んだ体の背中が、いくつもの机を潰したのかの方が気になった。 「………え」 口元から、ぽたりと赤い血が流れる。歯茎から鉄の味がして気持ち悪い。暫くして、ボタボタと鼻の奥からも、何かが溢れた。ぺたぺたと頬を触ってみると、まるでそこの部分だけ引っ張られたみたいな感覚が、気持ち悪い。ぐりぐりと何かを押しつけられているようだ。痛い。なんやこれ、痛いで。なんで殴んねん。なんで殴んねんシゲ。なんや、どないしたん。なぁどないしたん。 口元を引き締めたままのシゲは、ぶるぶると拳を震わせていて、何か言葉をはき出そうとするたびに、唇に引っかかったように、ガチガチと歯がかみ合わさる音しか出ない。 俺は、シゲが怒っているんだと思った。けれども泣きそうな顔をしていたような気がした。 「うあ、あ」 よくわからへんかった。あかん、なんやこれ。口元からやっぱり妙な味がしよるし、俺のお気に入りの服も、真っ赤になってしもた。俺、何したん。 俺は、逃げた。 よくわからない。何なのかよく分からなかった。鼻血をだらしなく垂らしながら買って貰ったばっかりだったサッカーボールもその場に投げ出して、俺は学校から逃げた。シゲから逃げた。元々誰もいない校舎を駆け抜けて、道路の隅を、力一杯走った。地面に丸い後が付く。誰かにぶつかって、「なにやっとんねんこのガキ!」と叫ばれた。 なんや、見える。ようわからへんもんが見える。ようけ人がおって、誰かに俺がぶつかる度に、なんか見える。変や。よう見たら、見える映画みたいな主人公の人らは、ごっつ泣きそうな顔してはる。シゲみたいや。なんやのこれ、ただの映画やろ。なんでそんなに泣きそうな顔しとんの。 俺は全然泣けへんで。意味わからんもん。でもなんや、あんたらには分かっとんの。それ何やって。そういえば、俺が凄いやろていいたくて、大人の人らに自慢するたびに、あの人らは気持ち悪いもん見たような顔しとった。うわめっちゃおもしろって思っとったけど、なんや、もしかしてこれ 見たらあかんもんなんか。 そうだこれは見ちゃいけないものなのだ。俺が見てはいけない。何をする事もできへん。気味が悪いといわれるだけだ。でもこれかっこええんやろ。ちゃうん? 俺は知ってる。母の葬式で、親戚が俺の事を気味が悪いと呟いていたのを。あかん俺もうシゲに会われへん。俺気持ちわるいんや。おかん。おかん。母が死んだ後、誰も俺を引き取らなかった。妹は、どこかの親戚へと預けられた。 あかん。俺はあかん。人に関わったらあかん。めんどい。めんどい思わな。俺は誰も見ぃひん。せやから、誰も俺見んといて。お願いや見んといて。すんません。ホンマごめんなさい。 誰や。俺が、人の役に立てるかもしれへんって思ったん。そんな訳あらへんやん。俺はそんなん一生無理やねん。武蔵森の奨学金もろたんはラッキーやった。これで高校まで問題あらへん。後は大学や。このまま推薦もろて、付属に入って、誰の世話にもなったらあかん。成績落としたらあかん。 つきあいなんてしたらあかん。誰とも関わったらあかん。端っこの方で、じっとしとかなあかん。 人間みんなに、頭下げて生きな、あかんねん。 「、起きとんのか、お前」 両腕を掴まれた格好のまま、俺は金髪の男を見た。シゲだ。こいつはシゲだ。どうすればいいのか分からなくて、俺はその腕を力づくではずした。「なんや、起きとるやん」と笑ったシゲに、俺もなんとか口元を動かそうと頑張った。けれども、無理だった。 「戻らなあかんのやろ」、と声を掛けられて、そうだった、とグランドに付けられた時計を見る。あまり進んでいない時間に、ほんの少しほっとしたけれど、藤代を一人で放置させてしまっている。どうしようか、と考えて、もういいか、とも考えた。 けれどもずるずると足を引きずって、立ち入り禁止と書かれた紙が貼られたビニールテープの上を、またいだ。 「ー!」 背後で、シゲの声が聞こえた。「俺、桜上水やから、暇な時にきいやー」 背中越しに俺は左手をぴらぴらと振ってそのまま、歩く。 女の子の間から、死にかけのような表情で抜けだした藤代を見つけて、もみくちゃにされたひよこのエプロンが、何故だか妙な気分にさせた。 「マジひっでぇの。俺置いて行ってさぁ」 「すまんすまん。女の子に囲まれとって、幸せそうやったから」 「まぁそうだけどさぁ、ものには限度ってもんがあるんだよね。あれ、看板は?」 藤代は、俺の右腕を掴んで、何もない事を不思議そうな顔をする。画用紙の落書きの看板を、どこかへ投げ捨ててしまった俺は流石に正直に言えなくて微かに苦笑いをすることしかできなかった。「藤代くん」「なに?」 俺は、俺の右手を掴んだままの、彼の手のひらを見詰めながら、いった。 「悪いけど、触らんといて」 ← ■ → 2008.07.24 |