そいつはずっとビビっていた。こっちを見て目が合えば、びくりと震えて、おろおろ足踏みを繰り返す。壁にかけられた薄暗いランプの明かりの中で、困ったように眉をひそめて、「あの」と、かすれるような声を出した。俺は無視した。「あの!」 やっぱり、蚊がなくような声だった。

「お、お食事を、お持ちしました!」

今すぐに泣き出しそうなその女は、城のメイドの服を着ていた。ぶるぶると震えて、囚人役のこっちに近づくまいと両腕をつきだして、盆の中のスープまで揺らしていた。はあ、と俺はため息をついた。ぽつり、ぽつり、と小さな雫が壁を伝う。両腕は鎖で繋がれていて、自由に動くこともできない。
赤月帝国首都、グレッグミンスター城の地下牢。それが現在の俺が現在位置する場所である。










心の底では、無理だろうと考えていた。けれども、逃げなければいけなければいけなかった。俺は死んでもいい。長く生き過ぎた。けれども駄目だ、まだ死ねない。あいつがいる。緑と紫のバンダナの友人に、全部を託して、自分だけはぽっくり楽に死んでしまうだなんて、許されるわけがない。

本当のことを言うと、ひどく気持ちは楽だった。俺はもう逃げなくてもいい。あの呪いは消えている。ただの人間だ。勝手に魂を食らうことも、薄っぺらい命を引き伸ばすこともない。嬉しかった。でもそう思う自身に気づいて、自由にならない両腕で膝をぶっ叩いた。真っ暗だ。ぽつぽつ、小さな小さな明かりがともるばかりで、今が朝か、夜か、昼かすらもわからない。食事は一日二回。やってくる足音も二回。そいつが時間を教えてくれる。こっちにびびって、小さくなって、震えながらメイドが来る。


「どこか体調はすぐれないところはありますか?」

私は紋章を持っていますから、よければ教えてください、と声をかけるそいつを見ながら、一体こいつはなんなんだろうと思った。顔はよく見えない。身動ぎすると、ガチャリ、と鎖がこすれる音が聞こえる。義務だ。こいつは俺をここに閉じ込めた女魔法使いに、俺を死なせることがないようにと命令を言いつかっている。そんなことは考えなくってもわかった。恐る恐るこっちに話しかける様子に、別に腹を立てる気持ちはなかった。俺は冷たい床に寝っ転がりながら無視をした。

女はちょっとだけ困ったように、牢屋の、食事入れの扉を開いた。キィ、とかすれるように、油もさしていない小さな扉が開いて、食事を交換する。毎日同じような台詞を口にして、パタリと扉を閉める。繰り返しだった。

一体、俺は何日ここにいるんだろう。最初ばかりは食事の回数を数えていた。けれどもそのうち馬鹿馬鹿しくなった。死んでやろうか、と何度か考えたことがある。(そうだ、死んだらいい) 死ぬことは怖くはない。
同じ体勢を続けていたものだから、すっかり硬くなってしまった体を起こして壁に背をつけた。は、と口からため息みたいな息を吐き出して、足を前に放り投げた。あいつは今、何をしているんだろう。


女は変わらず俺の様子を見に来た。びびっている足音を聞くたびに、ぴくりと顔を上げた。「食べ終わったら、ここに置いておいてくださいね」 そのときの俺は、何を考えていたのかわからない。おそらく、暇だったんだろう。「そんな何度も言わなくたってわかる」 いつも女はいつも同じ台詞しか喋らないし、体は硬いし、痛いし、食事はまずいし、誰かと話したかったのかもしれない。久しぶりに出した声はひどくかすれていて、あまり発音ができなかった。

女はぎょっとして、持っていた盆の中身を揺らした。そこまでびびるか、と考えると、少しだけ笑いが出た。かちゃかちゃと鎖を揺らして笑おうとしたのに、それもうまくできなかった。「大丈夫ですか!」 見当違いに、女はこっちを見ていた。「どこか痛いところでもあるんですか、病気だったら、お医者様をお呼びします!」 ちげえよ、と答えた声は、やっぱりひどくかすれていた。




「あなたは一体何をしてこんなところに入っちゃったんですか?」

メイドはなんにも知らなかった。ウィンディに命じられて、毎日俺を世話している。ただそれだけの女だった。「さあな」 そいつから一番遠くの壁にもたれて、ときどきポロリと会話をこぼした。「なんでそんなこと聞くんだよ」「悪い人のようには思えません」 馬鹿だな、と笑ってやった。「残念だったな、俺は世紀の大悪党だ」「ほんとうですか!」「うそだ」「どっちですか!」


メイドはいつも素っ頓狂な声を出した。あまり賢い女のようには思えなかった。きっとそいつは利用される側で、さっさとどこかに逃げた方がいい。そう何度も思った。誰かを思い出す気がして、ときどき、右腕を抱えた。でもそこにはもう何もなかった。

お互いの顔もわからなかった。何にも知らなかった。そいつは毎日俺に食事を運んで、最初はびびっていたくせに、ちょっとずつ近くなった。それでも俺はときどきそいつを無視しようとした。でも女がしょげたような声を出すから、結局短い返事を繰り返していて、ため息をついた。「お名前は、なんていうんですか?」 ぽつり、と尋ねられた。「テッド」 少しだけ、考えた。「お前は?」 、とそいつは言った。


世界が隔離されていた。外のことなんてわからない。ときおり、ふと意識が遠くなるような気がした。なぜかよくわからなくて、眠くなる時間が増えた。は心配気な声を落として、気にするな、と俺は返事を繰り返した。右手をかばう必要はもうないのだ。

牢の寒さに、季節を感じた。かたまった体を這いずるように俺は動かした。「ごめんなさい」 は謝った。「私、ここの扉の鍵を持っていないんです、ごめんなさい」 ばかみたいに女は泣いていた。俺たちの扉は、小さな、小さな食事扉しかない。なんでお前が泣くんだよ、と苦笑した。すっかり体力のなくなった体を引きずって、俺はに近づいた。は牢の格子を握っていた。彼女の小さな、白い手が見えた。きゅっ、と口元をしめて、ぽたぽた子どもみたいに涙を流す女を見た。きっととそう変わらない年だ。整った顔の、綺麗な女だった。ぐらつきながら立ち上がって、ゆっくりと息をはくと、は目を丸くした。

「テッドさんって、お若い方だったんですか?」 
「お前よりは、年上だよ」

えっ、と驚いたように声をあげると、こつりと額が合わさった。息を吐き出して、牢屋越しにキスをすると、は幾度か瞬いた。「逃げろ」 お前だけは逃げろ。




それからあまり、記憶が無い。




礼の言葉は、ひどく自分勝手なものになるのだろうか。
暗い空間の中に、俺とそいつはぽつりと立って向かい合っていた。「ごめんな」 俺はお前に全部を押し付けた。これからお前は、ずっとずっと、遠い先まで、呪いを背負って生きることになる。は眉をよせて泣いていた。俺の右手を握りしめて、ばかみたいに泣いていた。俺はお前に、自分勝手なことを言ってもいいんだろうか。「お前が、受け取ってくれて」 お前が、それを持っていたから。「あいつを、食わずにすんだ」 好きになることができた。

聞こえているだろうか。は俺の声が聞こえているのだろうか。ありがとう、とちっぽけなお礼の言葉を繰り返した。でも、ごめんな。本当にごめんな。お前を残して、きっとこれからひとりきりになることになって、「ごめんな……」

でもきっと、幸せだった。「やっと、眠れる……」 お前がいてくれて、本当に





   ***



城は崩れていた。はじめこそはおろおろと頭を抱えるばかりだったけれども、やるべきことは多かった。さあこれだ、あれだ、とみんなが毎日の仕事を見つけ出して、進んでいった。戦いが始まってたくさんのメイドが死んだ。解放軍は無闇矢鱈と民を殺すことはしなかったけれども、多くの混乱があった。

逃げろ、と少年はいった。あれからすぐに私は少年の担当を外された。なぜかはわからなかった。いくども自身の中で問答を繰り返して、私は城から逃げ出した。戦火が飛び散る前にグレッグミンスターを飛び出して、臆病者のように隠れて生きた。けれどもまた、気づくと城に戻っていた。戦いは終了した。王は姿を消した。その噂は、またたく間に赤月帝国を駆け抜けた。

「あ、あの、グレンシール様」

剣を持って、戦場をかけた青年は、今は難しい顔をしてペンを握り締めている。彼はぴくりと眉を上げて、端正な頬を和らげた。「きみは……たしか、城のメイドだったかな」「は、はい。一度は逃げ延びた不忠者ではありますが、どうしても、また気になってしまって」「いや、いい。人出はたりないからね。ありがたい」

やるべきことは山ほどある、と頷く青年に、パッと笑った。「それで、何のようかな」 ホウキを握りしめて、私はきゅっと口元を引き伸ばした。「し、失礼ながら、お尋ねしたいことが」「ああ」 なんだい、と彼は黒色の瞳をこちらにむけた。「城の、地下に、囚人が、いたと思うのですが……」

奇妙な少年だった。口元を押さえるような自身の動きに気づいて、わずかに赤面した。グレンシール様は、眉をひそめた。「地下に囚人が?」「はい。私と同い年くらいの少年で、私は彼を世話するように、ウィンディ様に命じられていました」 どこを探しても、彼はどこにもいない。

「……いや、そんなことは聞いては……。ちょっとまってくれ」
片手を出して、取り出した資料をぴらぴらとめくって、難しい顔をした。「そんな記録はないな」「えっ」 おかしい、とずっと考えてはいた。彼の存在を、誰にも口外するな。そういくども強く命じられていた。何か悪いことをしでかしてしまったような人には思えなかった。深い事情があって、秘密裏にとらわれていた少年だったのかもしれない。

ホウキを握りしめながら、私は自分の足先を見つめた。「うん……もしかすると、戦時のごたごたで逃げ出してしまったのかもしれないな。……そうなってくると、お前の証言が必要になるが……」「き、気のせいです! 申し訳ありません、気のせいでした!」 ぶんぶんと必死に首を振りながら叫ぶと、グレンシール様はくすくすと笑った。「そうか。気のせいかい」 うんうん、と頷いた。

逃げるみたいに、グレンシール様のお部屋を飛び出した。それから廊下を駆けて、いけないいけないとスカートを閃かせた。(そうか) 彼は逃げたのだ。あの狭い地下牢から飛び出して、どこかへ消えた。そっと口元を押さえて、やんわりと嬉しくなった。(よかった)

(きっと、彼は今も元気で)






2013/04/14
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