「おーい、酒だあ!」
「はい、おまちー!」

急いでますから待ってくださいね、もうちょっと待ってくださいね、暴れないでくださいねー! と必死に叫びながら、私はくるくると盆を持ってスカートをひらめかせた。あちこちからどんちゃん騒ぎが聞こえる。酒が欲しい、と言っていたはずなのに、腹が減ったと叫びだすし、ビールの泡が溢れるなんていつものことだ。
ハルモニア神聖国領カレリア。
よくもわるくも、活気に溢れ、ならず者共が、わんさかあふれている始末である。




どちらかと言えば、ハルモニアは静かな基質だ。紋章の価値も高く、武芸よりも、文学が好まれることも多い。ひいては、国を率いるヒクサク様が、文に精通していることにもよるだろう。というのが自分の一方的な考えであって、実際のところはわからない。なぜならこのカレリアは、ハルモニアであってハルモニアではない。グラスランドと近すぎる国境のこの街は行商が入り乱れ、人が増えれば争いも増える。そうすると、軍事に力を入れざるをえなくなるし、男の密度も上がってくる。

あっついあっつい、と思ったところで仕方がない。物心ついたときには、ビールの泡を綺麗にたたせることはすっかり得意になってしまった。自慢にもならない。ざわつく店内は、お客さんをはいてもはいても終わらない。がらんとしているよりも、よっぽどこちらの方がいいのだろうけれども、めまぐるしい。

ちゃん、こっちこっちー!」

いつもの面々だ。「ああ、12小隊さん」 名前を聞いたことはある。けれどもおふざけみたいな名前だった。トランプをしたくなる。「ジャックさん、お疲れ様です」 こそりと声をかけると、彼は細い目をこちらに向けて、こくりと頷いた。はたはた、と軽く手のひらを振ってみる。べつにたったそれだけだ。水色の上着の背中を見て、胸元にもったお盆を抱きしめながらため息をついた。ぱしん、とエースさんが私の肩を叩いた。「今日も無事に帰ってきたぜ、愛をこめて祝ってくれや!」

そうですねえ、と頷くと、からからと彼は笑った。その後ろでは隻眼の男性が店内を見回して静かに席についている。女性と、どこの異国かはわからないがこのあたりでは見かけない格好をした男の人が膝を打って、「おいジャック、酒だ酒!」
でも、あんまり彼は飲めないのだ。

彼らはときおり、この酒場にやってくる。あらくれどもが集まる酒場へ。
不憫だ。と心の中で思った。けれども少し、言葉が違うかもしれない。気の毒な。
楽しげに笑う声が聞こえる。合わせて私も一緒に笑った。客商売で、八の字眉はご法度だ。
     まったく、お気の毒さまで。

ときおりやってくる、言葉数も少ない男の人を好きになったところで、一体私になにがあるっていうんだろう。



   ***




「ジャックさんって、ほんとのお名前なんですか?」
ジャックにエース、クイーンにジョーカー。ゲドという隊長さんのお名前はわからないが、似た名前を集めたとしたら、奇妙な話だ。「別に」 ふい、と彼はそっぽを向いてくぴくぴとりんごジュースをあおっていた。「ですよね」 聞いてはいけないお話なんだろう。「お勘定は、いつも通り、エースさんにお願いしますね」

ごろん、とテーブルに頭をつっぷす明るい男をちらりと見た。なんだかんだと言いながら、彼が財布の紐を握っているところは一応お得意さんなのだから把握している。こくこく、とジャックさんは頷いた。明るい店内は、夜がふけるにつれて騒がしさが増していく。よいしょ、と隣に座った。ぐーずかジョーカーさんの寝息が響いて、クイーンさんとゲドさんはとっくの昔に退散している。

「戻らなくてもいいのか?」
「もうそろそろあがりなんです」

今日は昼間から立ってましたから、とつぶやくと、そうかと彼は頷いた。整った顔をしていると思う。落ち着いた声色をきいているはずなのに、気持ちは落ち着かない。とんとことんとこ、お腹の中で太鼓が鳴ってるみたいだ。「今度はいつ頃出られるんですか?」「……さあ、明後日かな」 自分が決めるわけじゃないから、と呟く言葉が、ジャックさんらしい。

「そしたら、ジャックさんはいつ戻ってくるんですか?」
「……さあ」

俺が決めるわけじゃないから、と呟く言葉が、やっぱりジャックさんらしかった。





さっさと他で手を打ったらいいんじゃない、とときどき言われる。恋人でもないし、友達でもない。下手をすると知人以下だ。ただ彼はこの街に定期的な帰還をするだけでいつ戻ってくるのかもわからないし、もしかすると、ずっと戻ってこないかもしれない。今回が最後かもしれない。私はジャックさんの本当の名前も知らない。
ありがとうございました、とお会計をして、ジョーカーさんを背負いながらぽてぽて戻っていく背中を見ながら、今度で最後だ、と自分の中で言い聞かせた。それで次に会ったときに、よかった、と思う。
(今度、いつ来てくれるのかな)

明日かもしれない。
明後日かもしれない。
もしかしたら明々後日かも。


しとしとと、雨が降っている。
空模様が悲しいと、客足が落ちるのは定石だ。「おい! 客引きしてこい!」 商売上がったりだ、と叫ぶマスターに、はあい、と声をあげた。入り口にかけた傘を一本持って、ぬかるんだ地面に足を置く。「おいしいですよ、雨宿りなんかどうですかー」と声を張り上げなら、今日もジャックさんは来ない、と思った。あんまりにも長い。

結局私は、なんの覚悟もできていなかったのだ。
これが最後かもしれない。きっと最後だ。そう思いながら、大丈夫、次がある、といつも心の底では思っている。細い瞳でぼんやりと前を見ながら、白いバンダナをいじる彼を思い出した。もう来てくれないかもしれない。街に戻ってきたところで、うちの店にきてくれるかどうかもわからない。

「雨宿り、しませんか!」

ぽとぽと溢れる雨が、水たまりをつくっていく。ああ、やっぱりだめだなこりゃ、、いいとこで切り上げて中にはいんな、と掛けられた声に聞こえないふりをした。ぱしゃぱしゃと、遠く、水色が見えた。彼は相変わらずぼんやりと歩いていて、雨なんて気にする様子もなく、ときおり、くしゃくしゃと顔を洗うように片手を動かしていた。「ジャックさん」


ふと、思い出した。



ぽたぽたと雨が降っていた。ワシの酒が飲めないのか。ガハハと笑いながら手刀を繰り出すジョーカーさんに無理やりジョッキを持たされて、いや俺はと彼は首を振っていたのに、結局ぐでぐでに酔っ払った。雨でお客さんも少なくて、しょうがない男たちだねえ、とクイーンさんが笑っていて、ゲドさんは相変わらず静かにどこかを見つめていた。

いつもなにを考えている人なのかわからないな、と思っていた。一回きりも面持ちを崩したこともなくて、言葉数も少なくて、けれどもきれいな顔をしている、不思議な人だった。ジャックさんは瞳を重たげに伏せて上げてを繰り返した後に、がたんと椅子から転げ落ちた。私は慌てて彼を引っ張りあげた。真っ赤になっている彼の耳はお酒のせいだ。

ジャックさん、大丈夫ですか。
彼のお酒を飲ませた張本人のジョーカーさんはすっかり眠りの森の住人だ。エースさんは、他のお客とジョッキを合わせて戦っている。うにょうにょ、と呟いたジャックさんの口もとに耳を向けて、「え?」 聞こえない。

引っ張り上げるようにして持ち上げたのに、彼がひどく重いものだから、そのまま一緒に床の上に転がり落ちた。ジャックさんに押しつぶされる形で、酒場の天井を見上げた。ぶらぶらと電球が揺れている。ざあざあと、雨が屋根を叩きつける音が響いていた。ジャックさんは眠ってしまっているのかぴくりとも動かない。ひどく顔が熱かった。

持ち上げようとして、彼の首筋に回したままだった手のひらの指先を僅かに動かした。ざあざあと音が響いている。眉根を寄せて、まぶたを閉じた。





「今日は開いてるのか?」

それはしばらく前のことだ。気づいたら、彼を目で追うようになっていた。「え、ああ、はい。あいてますよ。もしよかったら、入ってください。嬉しいです」 お客がいないとマスターが嘆いているので、と呟いた声は彼に聞こえただろうか。「そうか。すぐに他も来る」「今、お帰りですか?」 こくん、とジャックさんが頷いた。

「常連さんが、帰って来てくださると嬉しいです」

そういって言葉をのせるのが精一杯だった。ジャックさんは、相変わらずつんと尖ったように細い瞳で、こっちを見ていた。背中に抱えた弓がひどく重い。彼は外に行く人だ。「風邪引いちゃいますよ。はやく中へ」 お客さんはいないから、貸し切りです、と濡れた彼に傘を差し出すと、うん、と彼は頷いてこっちに手のひらを伸ばした。

ちょんと傘の取手の上に、手のひらが触れ合った。耳の後ろが熱い。
気づかれませんように、と心の中で願をかける。濡れている彼の頭を、ああもう、といいながらハンカチでふいた。「私はみなさんを待ってますから、はやく中に入ってください」

そう伝えると、彼はぶるぶると首を振った。「一人で入っても仕方ない」 じゃあなんで、一緒に来なかったんですか、ときいてみた。彼はじっと私を見つめながら、ううん、と首を傾げて、「帰ったら、最初に来る場所だと思ったから」

     本当に、お気の毒さまで。


小さな言葉に嬉しくなった。一個の傘に入りながら、勝手に緩む頬を隠して、いらっしゃいませ、と呟いた。うん、とジャックさんが頷いている。入ったら、なにをつくりましょうか、と言ったら、彼は少し迷って、トマトジュースと呟いた。彼に会うのは、これが最後かもしれない。きっとそうだろう。最後なのだ。






でも、いつかまた。
会いますように。


2014/12/13
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