年はいくつなのだろう。
ひとつ、ふたつ下かな。
いや、やっぱり同じくらい。

いつの間にか、癖がついてしまった。隣にいる親父は、40は半ば。後ろで叫んで立って、ぐるぐると上着を腕に回し、真っ赤な顔をしている男は二十歳にもいっていない。飲み慣れない酒を飲んだ仲間を必死にテーブルの上からひっぱりおろそうとする少年たちに、ふと口元に笑みが溢れた。
くっくと溢れる声を口元で収めて、けふりと息を一つ。

「おかわり、ミルクかい?」
伺うような目つきだ。「いやあ」 どうしたもんかな、と息をついて、「よろしく。まだまだ酒は飲み慣れない体なんだ」「いいとこの坊っちゃんだろ。なんでまたこんなとこに」 さっさとお家に帰んな、と言われていた。「今日の家はここさ。お代はある。一人旅なんだ。金持ちの小僧の道楽ってやつで」
ここは宿もしてるんだろ? とちゃりちゃり革袋の音を鳴らす。

ははん、と値踏みをするように、主人は彼を見下ろした。多少は薄汚れてはいるが、たしかにどこか品はある。
「ま、いいけどな。お客さん、お名前は?」
ついでに何泊のご予定で? とカウンターを指ではじく。

「名前は。日程は特に決めていないんだ」







いつ頃からだろうか。
自分の名前がするりと出てくるようになったのは。さすがに家名を言うのは気が引けるが、いったところで誰も気づかないかもしれない。
遠く、遠くと歩いて来た。さん、しい、ごお、と年を数えてそろそろそれも飽きてきた。(今度の街は、気候がいいな) 日傘を指して、楽しげに歩くご婦人たちを見ていると、色んな国もあるものだ、と苦笑する。

「あんたなんか、もう知らない!」

白昼堂々。ベンチに寝っ転がりながら空を見上げていると、パチンと弾く音が聞こえた。ミルクを飲みすぎた腹をなでて、まぶたを開ける。いくつだろうな。

いつのまにか、癖がついてしまった。彼女の年は、自分よりも下だろうか。それともちょっと上か、同じか。難しいな、と顎をかいて、そこまで気になることでもないなともう一回瞳を閉じる。そうしている間に、ベンチの端が埋まっていた。すん、と鼻をすする音がきこえる。「ハンカチなら持ってるけど」 とりあえず聞いてみた。「……貸してもらえる?」
うっかりして、今日は忘れちゃったの、と彼女は言葉を強調した。

「きみ、美人なのにね。見る目ないよ」
「そうよねほんと。こんなのばっかり」
「彼氏? それとも旦那だった?」
「まだどっちでもないんだけど」

ないんだけど……と、彼女は言葉を繰り返して、ハンカチを受け取った。「でもねボク、大人の女性に、あんまりつっこんできいてこない方が、将来もてるわよ」「鼻をぐずらせながら言う大人はあんまり説得力がないな」「なまいき」 言う言葉にも、あまり力が入っていない。「鼻、かんでもいいよ」「かまないわよ」

お姉さんに何言うの、と笑っている。「お姉さんじゃないかな」 人をからかうのは好きなのだ。「多分俺、同じ年くらい」 嘘だ。よくよく見ると、彼女は幼い瞳をしていた。きっと年下なのだろう。
どんぐりのような目をして、すん、と鼻を噛んだ彼女はくすりと小さく吹き出した。冗談だと思ったのだろう。ただそれでもじっとこちらを見る少年を見て、訝しげに彼を見下ろして、「……超絶的な童顔なの?」

そうなんだ、と彼は笑った。



   ***



くるくると表情が変わる女性だった。彼よりも背は少しだけ高い。きっともう少し時間があれば、彼は彼女の背を越していた。近くの店で、洗濯屋をしているらしい。だから手がぼろぼろなのだと、頬を赤くしながら彼女は笑った。かさついた指先をあの人見られることが恥ずかしかったと語ってと言葉を交わした。あの人とは、彼女が好きだった男だろう。

くんは、何をしているの?」
「旅だよ。金持ちの道楽」
「あら、いいところのお坊ちゃん?」

玉の輿? と冗談交じりの言葉に、「残念、没落貴族なんだ」「なんだ。ほんとに残念。なのにこんなところをぶらぶらしているの?」「自分探しの旅をしていて」 あんまりにも彼の適当な言葉に、彼女はうんうんと言葉を聞いた。美人だと最初は思ったけれども、よくよく見れば可愛らしい。
宿に泊まって、ミルクを飲んだ。「」と彼女の名前を呼ぶと怒られた。お姉さんと呼びなさい、と最初の言葉はすっかり冗談だと思われているようだった。それでも彼は彼女をと呼んだ。

ほとほとと溢れる木漏れ日が少しずつ薄くなって、葉っぱが地面に落ちるようになっていた。日傘をしている人はもういない。首元に巻く布がこのところよく売れるらしい。



「私は洗濯が得意だから。きみのバンダナも洗ってあげるよ」
「そうだな。お願いしようかな。でもこれは大切なものなんだ」
「ボロボロだもの。いったいいつからつけているの?」
「20年くらい前からかな」
「お腹にいたときからつけていたの?」

そんなにつけたら確かにボロボロになっちゃうわね、と彼女は笑った。「そうだね」と彼も同じく冗談めかしてわらってしまった。木漏れ日がまた落ちてくる。凍ったレンガが溶けて、小鳥が餌を探してちょこちょこはねる。よく話をした。小さな街だけれどもいいところだった。四季が流れて、去っていく。可愛らしい公園のベンチに座って、他愛もないことを話す。水が使いやすい季節になったとか、ミルクばっかり飲んでると、お腹を壊すとか。


「お姉さん」
「ねえ
「お姉さんだってば。なあに

ふと、教えてやりたくなった。

「多分俺は、最初に一緒にいたやつより、きみを幸せににできたよ」

同じベンチだ。そこの端っこと端っこに座っていたのが少し前。今は真ん中。は、きゅっと瞳を大きくした。それから吹き出した。

。私、もうとっくに落ち込んでなんかいないわよ」

慰めなくて大丈夫、とお姉さんぶられた言葉に苦笑した。「そう、よかった」「そろそろお姉さん、って言ってくれていいのよ」「そうだね。

お姉さん、と最後に言葉を付け足した。ころりと嬉しげに笑う彼女の頭を撫でると、これまた怒られた。「が、もっと年が近かったら考えてあげてもよかったけど」 照れ隠しのような言葉を言う彼女の口元をちょんと弾く。「そうだね。残念だ」
本当に。



   ***



また今度、と少年は片手を振った。
すこし長くいすぎてしまった。彼女はかさついた手のひらを恥ずかしげに彼に振った。
、本当は俺、ずっと嘘をついていたんだ」

彼女はどんぐりみたいな目をやっぱり大きくさせて彼を見た。ひたりと息を飲んで、彼は瞳をふせる。誰にも言っちゃだめだよ、と念押しして、きょろりとあたりを見回す。言わない、と彼女は答えた。不思議な少年だから、何か隠し事のひとつやふたつ、おかしくはないと思った。それから彼は彼女の耳に囁いた。「     本当は、お兄さんっていうのが正しいんだよ」 言うにことかいて、これだ。

は少年のお尻をばしんと叩いて、「何言ってるの」 呆れてしまったので、ついでに指先でおでこもつついた。「バカなこと言ってないで、またおいで。そのときは少しは背も伸びてるわよ」
「ミルクもいっぱい飲んでるしね」
「そうそう」

きっと彼はすぐに素敵な大人になる。あのときやっぱり冗談めかさなきゃよかった。そう、が後悔するくらいに。



   ***




「おんし、なぜその紋章を外さんのじゃ」

ある日、銀髪の吸血鬼に言われた。なんでかな、とあくびをして石版に背を持たれた。あいにく今日はそれを見て眉を寄せる緑の少年はいない。なんとなく、彼女もそうなのだろう、と気づいていた。わざわざ聞かなくても、お互いにわかっている。「それは喰らうぞ」「そうだね」「喰われたあとか。漂うておる」 なにが、とは聞かない。

ふと、右手を見つめた。すっかり革の手袋が気に入りとなってしまったそれを持ち上げてひらく。それから少し、考えた。
「手が大きい。それが嫌だからって切り取るものじゃないだろう」

「わからん。わらわはピッタリ可愛らしいサイズのお手てだからのう」
「いやあ、たとえだよ。たとえ」
「知っとるわ。まったく」

変わった男じゃな、と吸血鬼は呟いた。






2017-08-14
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