「すみません、少しでいいので、こちらの食堂を使わせていただけませんか?」

そう言って、目尻に柔らかな皺が刻まれた金髪の男性が、その外見と同じく優しげに私の家をノックしてやってきたのは、暫く前のことだった。









「グレミオさん、今日の食材、使ってもいいものを父に聞いておきました」
「ああ、ありがとうございます。いいお肉ですねえ」

坊っちゃんも喜びます、と彼は隣の家でしめたばかりの鶏を見つめ、嬉しげに微笑んだ。グレミオさんはすっと背が高い男だった。頬には十字の傷があり、最初にその顔を見たときこそ驚いたものの、柔和な物腰から、すっかり村の人間には受け入れられてしまった。彼は、私よりもいくらか年下の少年と旅をしている。黒髪で、ひどく顔が整った少年を、“坊っちゃん”と呼んでいた。子どもと言うには不思議な関係だし、孫というにはひどく遠い。彼らは町外れの宿に泊まり、“坊っちゃん”は日がな一日釣りをしている。

グレミオさんと“坊っちゃん”は私の父が営む食堂によくやってくる。お上品に食べる彼らの様を見ていると、やはり村の外の人なのだな、と感じる。ここらで賑わうのは、大剣を担いだ粗野な冒険者たちばかりで、その中で粛々とスープを飲み込む彼らの姿は少し奇異だ。

グレミオさんは、たまに“坊っちゃん”に食事を作る。こちらの食事も美味しいのですが、やはり私が作りたいんですよ、と柔らかく微笑む可愛らしい大人を、私は初めて見た。彼らは主従なのだ、と言っていたが、やはり親子なのではないか、とたまに疑ってしまう。「さん、いつもありがとうございます、とお父様に伝えてください」「ああ、いえ」「さんも。こんなおじさんに付き合わせてしまって」

さすがにどなたもいらっしゃらない台所を借りるわけにはいきませんから、と笑う彼を見上げながら苦笑した。     だって、私が好きでしていることだから。小さな村の中で、食堂だけで食べていくことはできない。食事を提供する傍ら、合間合間で猟を行い、家を留守にする父と代わってグレミオさんと話をすることは嫌いではなかった。

若い頃は、きっと立派な美丈夫だったんだろう。彼の背中で、金色のしっぽが揺れていた。とんとこ聞こえる包丁の音は、聞き慣れた父のものとはどこか違っていた。
     ねえグレミオさん。その十字のばってん傷、一体どこでつけてきたんですか?


グレミオさんのことが、知りたくて知りたくて仕方がなかった。
坊っちゃんは、グレミオさんのお子さんですか?
     グレミオさん、一体どこからやってきたんですか?

ききたいことがたくさんあるのに、聞く勇気がでなかった。きっと聞けば、ああ、それはですね、とにっこり笑って教えてくれる、そうに違いないのに。「グレミオさん」 なんですか、と彼は私を振り返った。私は椅子に腰掛けて、テーブルに肘を付きながら彼を見つめていた。「美味しいそうですね」 ぐつぐつと、膨らむ音がする。「ありがとうございます」 やっぱり彼は笑っていた。



***



グレミオさん達が、いつから村に来たのか忘れたころ。宿に泊まらずに、家を買えばいいのに、と村人に声をかけられていた。彼らは二人揃って苦笑していて、宿屋の主人が、勘弁してくれよ、と両手を振る。「うちにずっと泊まってくれていいんだよ。うちの大切なお得意様にこのやろう、なんつうことを」 ぽこん、と頭を叩かれたのはうちの父だ。いい家、紹介するぜ、と懲りずに声をかけていた。
考えておきます、と“坊っちゃん”は言っていた。


グレミオさんは、週に何度かうちの台所を使う。片付けが丁寧なところが気に入った、と何度か父が言っていたことを思い出した。相変わらず、私は彼の背中を見つめていた。大きな背中だ。しっかりとした筋肉もついている。うちに来る粗野な冒険者たちと、そう変わらない。旅慣れした身体だ。
     なあ、うちの娘はどうだ

「お野菜が、すっかり大きくなって。吊るした玉ねぎも、きれいに茶色になりました」
「本当ですね。これなら長く使えますねえ。いい仕事をされます」

おいしいシチューが作れます。私の得意料理です、と振り返って照れたように頬を赤くするグレミオさんを見上げる。知ってるんですよ。
私、知ってるんですよ。
父があなたに、私とあなたの縁談を勧めたことを。生き遅れの娘だけれども、と言葉をおいて、変わり者だけれども、器量は悪くないし、働き者だ、と親ばかなような言葉を付け足したことも。
はじめからそのつもりだったんだろう。そうじゃなければ、未婚の女を年が離れているとは言え、家に二人きりにはさせない。彼の手から、お玉がことんと落ちた。「さん?」 床の上を涼やかな音をたてて、はねて、わずかに転がる。それだけだ。落ちた人参の欠片がひとつ。真っ赤な三角が悲しげにこっちを見た。(「ねえ、“坊っちゃん”」)
ある日、問いかけたことがある。




「ねえ“坊っちゃん” グレミオさんのことを教えてよ」
「さあて、本人に教えてもらいなよ」
「聞きづらいから聞いてるんだよ。ほら、お姉さんにもったいぶらずに」
「もったいぶってはいないけれど、魚が逃げるからお姉さん、お静かに」

湖畔に脚をぶらつかせて、口笛を吹きながら、整った顔の少年は涼し気な顔をしていた。きらきらとした黒髪と、その瞳を見ていると、不思議な気分になる。グレミオさんとは似ていない。そう思ったのに、ふとしたとき、近いものを感じていた。だから息子なのだと初めは思った。
「ねえ、いつまで宿にいるの。お金は大丈夫なの」

私の疑問に、彼はふふんと口元の端をあげる。ついでに釣り竿を揺らつかせる。「なくなれば、また稼ぐよ。それだけだ」「あらすごい」 ご立派ねえ、と冗談交じりに両手を叩く。
だから、魚が逃げるからね、と肩をすくめる少年の隣に並んだ。「それなら他のことを教えてよ」 これなら教えてくれるでしょ、と軽い言葉のようにわざとらしく。「ねえ“坊っちゃん”」

「きみの名前は、なんて言うの?」




鍋が煮える音が聞こえる。
「名前すらも、教えてくれないんですか?」
私は“坊っちゃん”の名前を知らない。あのとき、彼は返事をしなかった。
この村の誰一人として、少年の名前を知らない。グレミオさんの背中にすがりついて、溢れる涙を好き勝手にさせた。グレミオさんが、坊っちゃん、坊っちゃんと呼んでいるものだから、村の人もそう呼んでいる。でもいつかおかしいと気づくだろう。お金がなくなればまた稼ぐ。この村を出ていってしまうということだ。いつどこに行っても構わない。きっとそう思っているに違いない。
いつから彼らは旅を続けているんだろう。一年、二年。そんなものじゃない。それくらい、旅人を見慣れてしまったただの食堂屋の娘にだってわかる。目尻に刻み込まれた皺は長い年月を教えてくれた。

「いつ出ていってしまうんですか。すぐですか。生き遅れの娘ですが、どうですか。グレミオさんほどじゃありませんが、美味しいご飯を作れます」
「……さん」

困ったような声だ。少しくらい、彼の心に響いてくれるだろうか。
グレミオさんは、私の名前を呼んで、ただ静かにシチューのお鍋を見つめていた。くつくつと、温かい音がこぼれている。それなのに、「すみません」 謝られてしまった。「あなたのことが嫌なわけではないんですよ」 私を傷つけないように、ゆっくりと言葉を選んでいる。「でも私は、ずっと坊っちゃんと一緒にいると、決めたんです」
あなたは、素敵な女性ですよ、と言ってくれた言葉は、本当だろうか。





***



「向こうもまんざらじゃないと思ってたんだけどなあ」
「……お父さん」
「妙ではあったが、おかしなやつじゃねえし。いい買い物になるかと思ったんだが」
「……お父さん」
「アーッ、わざわざ長めに家を空けるようにしてたってのに! これだから貧乳は!」
「お父さん!?」

とりあえずぶん殴った。
あのとき、連れて行ってください、そう言えなかった。ただ、おいしいシチューを作ってくれた。そのシチューの味を思い出して、また父は嘆いていた。「いい跡取りになったのに……」「跡取りって……。お父さんと同じくらいの年でしょ、グレミオさんは」「まあ、40は超えてたな」 んなもん、女側が若けりゃ、家族なんてなんとでもならあな、と聞く人が聞けば拳どころか足まで出そうなころとつるっと転がす。それ、外で言わないでよね、そんなんだからお母さんが出ていったんだよ、と懐を探らない親子の会話を繰り返し、いつもの台所を見つめた。いつもなのに、いつもじゃない。


「一体、次はどこに行くんだろうね」
「きっと寒いとこだろ」
「なんでまた?」


シチューがおいしいからな、とかっこつけた父親に、一回思いっきり眉をひそめて     吹き出してしまった。


2018.09.26
back
グレミオの攻略難易度の圧倒的な高さ 強さ