* 帝国存続IFで、青年坊ちゃんもどぎ。もどき。
* ほのぼのと見せかけてシリアス
* 何故か唐突に下ネタもどきが入ります





「カナン、きみは近衛隊を連れてロックランドへ向かってくれ」

そう俺が言うと、彼はめんどくさそうに顔を歪めた後、すぐさま丸い頬を取り繕い、揉み手をする勢いで、ぴょこんと体を飛び跳ねさせた。「はい、任せてください、様! それにしても、今日も大変麗しく……」「私は、あまり口が回る男は好きではないな」 申し訳ないけれどもね、と笑うと、カナンはまた飛び跳ねた。新たに近衛隊に入った若い兵に怒声を飛ばして、ぴゅっと消えて行く。

若い兵士は、ちょっとだけ困ったような顔をして、はいはーい、と語尾を伸ばして、そんな兵士にカナンは、顔を真っ赤にさせながら、「きさま! その態度はなんだ!」と片腕を振り上げて、重たい体をとてとてしている。(……懐かしいな)

ふと、吹き出してしまいそうになった。数年前の自身の姿を思い起こす。いつから自分は、この立場に立ったのか。記憶は茫洋としていて、あまりにも広々としているものだから、はっきりと思い浮かべることができない。年は二十歳を越えた。帝国五将軍、テオ・マクドールの息子、・マクドール。恐らく、自身は彼の跡を継ぐ。同じく五将軍、ソニア・シューレンと同じく。

     、お前は私を裏切るな

バルバロッサ様のお言葉を、俺は今も覚えている。恐らくそれは厳命でもあり、確認でもあった。俺は深く頷いた。この身が果てるまで、あなたについて行こうと誓った。それは幼い頃からの義務でもあり、誰とした訳でもない約束であり、父の姿であった。自身には血筋があった。またそれに答えることのできる実力もあった。俺の道は、はじめから決まっていたのだ。そのことに不満もない。

だというのに、何故か気分は重たい。ざくり、ざくり、と足取りを重たくさせながら、俺は城を見上げた。そして足元を見下ろした。赤い絨毯がひかれている。それをすぎれば、つやつやに磨かれたクリーム色の石が、敷き詰められている。通る人間がいれば、その姿さえもが石に映る。通りがかる新兵が慌てたように頭を下げた。俺は軽く顎を下げ、歩き抜ける。

(煌びやかだ)
ふと、心が皮肉な声を上げた。ぼんやりとしたもやが頭の中に流れた。「坊ちゃん!」 気づけば、城から外に出ていたらしい。グレミオが、怒ったようにぶんぶんと腕を振って、まるで体当たりのごとくこちらに突進してくる。

「グレミオ、何度も言うけどね、もう俺はそんな年じゃないんだから、坊ちゃんというのは」
「坊ちゃん、そんなことはいいんです! 今日は早く帰ってくるようにとあれだけ言ったのに、なんでもう坊ちゃんは……!」

なんのことだろう? と思わず瞬きをした後ハッとした。なんで今まで忘れていたんだろうか。俺とグレミオは、必死になって駆けた。首元のボタンを外して、勢い良く腕を振る。「はやっぱり怒ってるよな? まずいなぁ」「怒ってませんよ……! 様が怒る訳ないでしょう! だから代わりに、私が、怒って、るんですぅ……!」 隣のグレミオを見れば、息を切らせてへとへととしている。お前も、三十路を越えたんだな、とからかってやろうかと思ったけれど、そんな場合じゃない。

「今日は様との祝言だってのに、花婿がいなくて、どう始められるっていうんですかー!!」


まったく。本当に。


自分でも驚くことに、すっかり忘れてしまっていた。そんなさっきまでの自分が不思議で仕方がない。城に赴き、用事を済ませて、さっさと帰ってくる気だったんだ。だというのに、すっかり時間を食ってしまった。
ばさばさ、と白い鳩が飛ぶ。ぺちゃくちゃとおしゃべりをする貴婦人たちや、絶えず水の流れる噴水を通り抜けて、どんどん、と勢い良く扉を叩いた。自分の家なのに、そんなことをする必要はない、馬鹿だな、と今度は慌てて扉を開けようとした。すると、そうする前に、パカッと目の前の扉がひらいた。

小さなときから見慣れた彼女が、ビックリした顔でこっちを見ている。真っ白で、ふわふわとした花嫁衣裳を着ていて、耳の上にちょこんと小さな花がのっている。彼女はパチパチ、と何度か瞬きをした後、パッと笑った。「さん、おかえりなさい!」

きゅっと胸が締め付けられて、たまらず彼女を抱きしめた。は俺の胸の中で、暫くバタバタ暴れていたかと思うと、ゆっくりと俺の腰に小さな手を伸ばして、またそれが可愛らしくて、力強く抱きしめた。「おーい、花婿、玄関先から見せつけんなー」

しょっぱなから待ちぼうけを食わせるなんて、お前も中々やるねえ、とにひひ、と笑いながら、テッドが部屋の中からひょいと顔を出す。俺とは慌てて離れれば、後ろからやっとこさ追いついたらしいグレミオが、ひいこらしながらやって来る。「まったく、坊ちゃんは何を考えているんですか。信じられません」と、女性を代表したようにクレオが文句のセリフを口にすれば、まあまあ、とがフォローするものだから、こっち側としては立つ瀬がない。

パーンは部屋の飾り付けを黙々としていて、俺をからかうことに飽きたテッドは、パーンの手伝いをしている。昔、戦災孤児としてグレッグミンスターにやって来たときよりも、彼は少しだけ背が伸びた。けれどもやっぱりあまり背は高くないらしい。ぐうう、と眉をひねりながら背伸びをして、パーンの高さに合わせようと、壁に花を貼っていた。じゃまだなあ、と両手の手袋を外して部屋中に紙の花を貼っていく。

父と、の両親が来るまで時間があった。恐らく、父はソニアと共にやってくるに違いない。少しだけ口元がにやついた。照れる父の顔を見る機会は、あまりないのだ。テッド達を手伝おうとするの手をひっぱり、ついでに自身も服を着替えた。少しだけ窮屈だが、軍服と同じようなものだ。



とは、幼なじみのようなものだった。彼女が生まれたときから、俺は彼女との結婚を望まれた。彼女の家と、マクドール家は縁の深い家だった。つまり彼女は俺の許嫁となった。だからしょうがない、と彼女との関係を決めた訳じゃない。恐らく、この縁がなかったとしても、俺は彼女と今の関係を結んでいたと思う。はよく笑う子だった。あまり怒らない子だった。いつでも、俺は無茶ばかりをするのに、しょうがないなぁ、と笑って許してくれる子だった。さんさん、と後ろからちまちまくっついて来る姿が可愛くて、俺はよくよく彼女をからかいたくなる。

ちょこん、とは花嫁姿で俺のベッドに座っていた。長い間待ったのだ。彼女が今の年になるまで、ずっと待っていた。、かわいいね、と呟いて、ちょいちょいと彼女の耳の上の花をいじると、彼女はパッと顔を赤くして、さんも、かっこいいですね。と笑った。

「そうかな、すごく窮屈なんだけど」
「ずっと着てて欲しいくらい」
「よし分かった、が言うなら」

からから、とは笑った。俺も嬉しくなって、ふと彼女の耳元にキスをした。彼女はパッと顔を赤くして、俺から体を逃した。けれどもすぐさま俺はの肩を掴んだ。「ところで、、知ってる?」 なにがですか? と彼女はちょっとだけ不安そうな顔をして、俺を見上げた。俺は思わずニマッと口元を上げて、「俺達、みんなの前でキスをしなきゃならないんだよ」

は俺の言葉の意味に気づいて、かあっと顔に血をのぼらせた。だというのに、分かっていないと言う振りをして、ぶるぶると首を振る。俺は彼女の首筋に指をはわせながら、ちょっとだけ声を低くさせた。「誓いのキスだよ。だからこんなもので赤くなってちゃいけないな」 もう一回耳元にキスをすると、彼女はガチンコチンに固まった。「?」 名前を呼んでみると、やっとこさと言う風に、「はい」と頷いた。

「俺達、ちょっと健全に付き合い過ぎたと思うんだ」

本当に、そう思う。けれどもしょうがない、俺たちは、そういう関係なんだから。あっちはお嬢様で、こっちばお坊ちゃんだ。今日がくればと分かっていた。だからずっと我慢していた。は、今度はよく分からない、という風に首を傾げた。「だから」と彼女の肩に顎をのせるようにささやく。「ちょっと、リハーサルをしようか」

いきなり本番ってのは、まずいだろう。
は暫く首を傾げたかと思うと、「え、あ、え、え、え」と小さな言葉を繰り返して、自分の両手をぎゅっと握り締める。俺はちょっとだけ笑った。少しだけ顔を動かすと、彼女はぎゅっと思いっきり目を瞑った。また笑ってしまいそうになった。彼女の瞼にキスをすると、びっくりしたらしく、ぷるっとまつ毛が震えた。パチッと瞳が開いたところを確認して、彼女の口元にキスをした。随分長く、キスをした。

パッと口元を離すと、はじわじわと目尻に涙をためて、嬉しいのか、ビックリしたのか分からないような顔をした後、あっ、と俺を見た。そして少しだけ言いづらそうに、「あの、口紅が……」「あ」

親指でこすってみると、確かに少しだけ赤い。「私、もしかしてお化粧崩れちゃいました?」「いや? かわいい」 パッ、と彼女は顔を赤くさせた後、「ありがとうございます」と消え入りそうな声で呟いた。思わずそれも可愛くて笑ってしまった。はなんで俺が笑ったんだろう、と困った風に眉を寄せた。「眉間に皺は、よくないね」 せっかく可愛いのに、と今度は押し倒して、もう一回キスをしようとすると、彼女はぶるぶる、と首を振った。

「あの、服とか、髪が、くずれちゃいますから!」
「……ああ、たしかに」

自分で言ったことだというのに、は俺の返事を聞くと、ちょっとだけ残念そうな顔をした。俺はそれが嬉しくて、「残りは、後で」 全部が終わった後で。
はい、とは嬉しげに返事をした。「残りっていうと、全部だからね」 は、ちょっとだけ意味がわからない、という顔をした後、はい、と頷いた。俺はカラカラと笑って、彼女のあご下をちょいちょいとさすった。彼女はちょっとだけくすぐったそうな顔をして、笑った。
彼女の、笑顔が好きだった。
俺も笑った。
カラカラと、

カラカラと、


バキ


    バキ

バキ、   バキ


 バキ バキ パキパキパキ



崩れていく

              崩れていく




こんな話、ある訳ないのに







「なんだ、、もしかしたらこんな未来もあったかもって思ってたのか?」


テッドは、ちょっとだけ可哀そうに俺を見た。俺は瞳を瞑った。だというのに、彼の顔も、表情も、全部がありありと見えた。「そんな訳ない。俺は、背が伸びないし、手袋を外すこともないし、ソウルイーターはずっとくっついている。こいつがなかったら、なんてありえないよ。だいたい、こいつがあったから、お前に会えたんだ」 それとも違うか? と彼は肩をすくめる。


「お前が解放軍のリーダーにならなかったら。そうすれば、あの国は滅びなかった。そう思ってるのか? それも違うな。ほころびはやって来ていた。あの女魔法使いが、クワンダを操り、エルフの村を滅ぼした。絶対に誰かが死んでいた。お前はそれを止めることができたのか? ただの新兵だったお前が」

なんなんだ、まだ納得してないのか、と彼は呆れたように頭をひっかく。「エルフが死んだからどうだって、お前は思ってるのか? 違うよな。お前は、そんな奴じゃないもんな。ロックランドに行って、グレックミンスターを出て、外を知ってしまった。そしたら、何かがおかしいって気づいちまったんだ。だからお前は、解放軍の一員に、そしてリーダーになった。そんなお前だったから、俺はお前に紋章を預けたんだ。お前じゃなきゃ駄目だったんだ。お前だったから、この話は始まったんだよ」


だから、お前は前を向けよ、と闇の中の声は言う。違う。やめてくれ。やめてくれよ。顔を両手で覆った。この声は、自身を正当化する声だ。そんな声はいけない。いけないんだ。「は……」 勝手に声が漏れていた。あの、可愛い女の子は。「死んだ」 違う、分からない。彼女が死んでしまったかどうかは、俺には分からない。ただ、彼女の家はあの戦いのさなか、消えてしまった。彼女は生きているかもしれない。けれども、恐らく俺を恨んでいる。彼女の父を、母を、使用人たちを殺した、張本人を恨んでいる。

好きで好きでたまらないのに。父も、バルバロッサも、殺したあの人々が好きだった。グレミオは死んでしまった。もういない。後悔ではない。違う。けれどももう戻れない。

闇は、優しく俺の頭を撫でた。もう声は聞こえなかった。ふと俺は目を覚ました。ちゅんちゅんと鳥のさえずりが聞こえる。俺の背は夢の中のように高くはなく、変わらなかった。幸せな夢を見た。すると、奇妙に体は軽いのに、心は重くなった。
俺はのろのろと体を起こし、扉を開けた。「さん、おはようございます」とかけられた声に、片手を振り返した。


彼女に、生きていて欲しいと思う。
けれども、彼女に恨まれていると思うと、ナイフが心に突き刺さる。考えたくなかった。何も考えたくなかった。そして月日は流れていった。


    ***



物乞いの女がいる。
赤月、いいや、トランは少しずつ復興を果たしていった。トランから逃げたはずなのに、またその近くをぶらぶらとさまよっていた俺は、国の栄えていくさまをこの目で見届けた。
けれどもやはり、全ての民が平等に、幸せになるまでにはまだまだ金も人も、時間も必要だ。

辻の端に座り込んでいる女の目の前に、ちりん、と金を投げた。女は、ひどく鷹揚に顔を上げた。けれども、俺はそれを無視して通り過ぎた。おそらく、彼女は夜鷹だと思った。女を買う趣味もなければ、そんな気分でもなかった。とにかく、足早に過ぎ去ろうと思った。けれども意外なことに、彼女はぐいっと手を伸ばして、俺の足をひっぱった。「わっ!」と俺は驚いて立ち止まった。彼女の力に止まってしまったのではない。そのまま引きずって、怪我でもさせたらと慌てて止まったのだ。

「離してくれないか。わかった、金が必要なら、もう少しだけ」
「ちがいます」

きっぱりと彼女は断った。妙に懐かしい声だった。けれども、すぐにそうとは分からなかった。「きみはいらないから。気にしなくていい、どれくらい欲しい」「ちがいます、私、体を売っている訳でも、物乞いでもありません」

そう言って、パッと上げた彼女の顔を、俺は見た。彼女は泣き出しそうに目の淵に涙をためて、ぱくりと声を呟いた。俺は、その彼女の唇が動く様を見たとき、どくりと体の奥で、大きな音がなった。おそらくそれは、自身の心臓の音だった。「さん……」「……!」

嘘だろう、と俺はその場に崩れ落ちた。彼女だ。彼女に間違いなかった。髪はぼさぼさで、服も汚れていて、爪も割れて、顔はどろだらけで、記憶よりも、背が伸びて。けれども、だった。間違える訳がなかった。「生きて」 いたのか、と口元が勝手に動いたとき、さっと自身の記憶がよぎった。彼女は俺を恨んでいる。

すまない、と謝ればいいのか、どうするべきなのかわからなかった。は俺に手を伸ばした。俺はそれから逃げた。彼女は悲しげな顔をして、手のひらを自身に引き寄せた。「こんな風になっちゃいましたからね」と、前と、あのときと変わらないように、パッと彼女は笑った。
なんで笑うんだ。

「違う!」

勝手に声が否定していた。「君を、拒絶した訳じゃなくて、君は、俺を」「さん?」 彼女は困ったように首を傾げた。それが、まったく昔と変わらなくて、辛くなった。「君は、俺を恨んでいるだろう」
そんなことを言っても仕方がないのに。静かに声があふれていた。は、ぎょっと目を見開いた。そして苦しげに瞳を伏せた。奇妙な沈黙がおりた。「私」 ぽつりと、彼女は呟いた。「恨んでません」 見え見えの嘘だった。
恐らく、そう思おうとしている人間の口調だった。彼女自身も、それに気づいているらしく、ぎゅっと小さな唇を噛んだ。「違います、全部、これっぽっちも、恨んでいないと言えば、嘘になるんです。父と母は死にました。家も、親戚も、あの争いの中で、全部が消えてしまって」

でも、と言葉を続けた。「さんのことは、本当に、恨んでいないんです」

彼女の言葉に、俺はカッとなった。何故そうなったのか分からない。彼女の腕を掴んで、怒鳴りつけた。「親を、殺されて、恨んでいないだって!?」 そう叫ぶと、どこにそんな力があったのか、は俺と同じくらいに大きな声を出して、叫んだ。「さんに、私の両親は、直接殺されたんですか!?」

彼女は怒ることのない子だった。いつも笑って、困ったような顔をしていた。俺はぎょっとして、初めて彼女の怒りが噴射する様を見た。パチパチと瞬きを繰り返して、ただの小さな子どものように、彼女の叫びを聞いた。

さんに!! 直接!! 私の父と、母は、殺されたかと聞いているんです!」
「い、いや、でも俺は解放軍を率いて」
さんは!」

ぎゅっ、と反対に、彼女は俺の腕を掴んだ。枯葉のような腕だった。「さんは、争いを、収めたんです。確かに、あなたが解放軍の軍主となって、テオ様も、私も、家も、風当たりはよくありませんでした。ひどい仕打ちも受けました。恨むではなく、始めは困惑しました。訳がわからないって思いました。父も母も死んで、家もなくなってしまって、国は消えて、少しだけ、あなたを恨んだと思います。今も、本当は少しだけ。でも、違うんです。そうじゃないんです。あなたの所為じゃない。どれが、正しいとか、正しくないとかじゃなくて、私は」

彼女は、震えるように息を吸い込んだ。「私が、そう思いたいんです」

瞳を瞑った。腕から、彼女の指を、一本一本外した。俺は立ち上がって、彼女に背を向けた。けれどもまた、「えいっ」と彼女は俺の足を掴んだ。離してくれ、と言おうとしたとき、彼女は叫んだ。「さん、私、処女です!」 ブバッ、と思いっきり吹き出した。

、ちょ、い、いったいなにを……!?」
「処女です、処女です、お、おもいっきり、処女です、体は、一回も売っていません!」

そんな会話の流れではなかったはずだ。俺は頭の中をぐるぐると混乱させて、何度も同じ言葉を繰り返す彼女の口を思わず手のひらで塞いだ。もごもごしている彼女から、パッと手を離すと、まだまだ主張したりない、と言う風に、彼女は俺の服の端をちょんと握って、「すごく、ありました、そういうこと! 嫌とか、そういうことを言ってる場合じゃなくって、お金がなかったりとか、お、大きな人に襲われたりとか、本当に、たくさん、あったんです」 彼女は声を震わせた。「でも、私、さん以外、嫌だったんです!」 先ほどよりも、激しくむせた。

、きみ、ちょ、ちょっと……」
「私、ほんとに……!」
「いいから、ちょっといいから!」

なんでこんなことを話しているんだろうか。心持ち、顔を熱くさせて、彼女の肩を握りしめた。けれども彼女は照れもなく、じっと俺を見つめていた。あんまりにも真っ直ぐ見られたものだから、困ってしまって、ちょっとだけ苦笑した。「、君、変わったね」「三年経てば、人は変わります」 そう言って、彼女は俺の姿をまじまじと見て、今更ながらに瞬きを繰り返した。けれども、そのことにどうと聞く様子はなかった。その変わりに、彼女はゆっくりと言葉を吐いた。「さん、好きです」

ずっと好きです。
俺は夢の中のように、勝手に彼女を抱きしめていた。彼女は折れそうなほど細かった。比喩ではなく、きっとそれは本当に。背は伸びたはずなのに、彼女は小さくなっていた。ちょっとだけ俺の胸に、額を寄せた。それからハッとしたように、「私、その、汚れて」 離れようとした彼女の体を、無理に抱きとめた。は、始めは小さく、次第に大きく、肩を震わせてた。嗚咽が聞こえた。ぐしゃぐしゃと、彼女の髪をかきだした。あんな、夢のような未来があったかもしれない。けれども、それはただの夢で、嘘で、今、彼女はここにいた。

右手が疼いている。食わせろと叫んでいる。俺は少しだけ聞こえないふりをした。(今だけ) ふと、暖かい匂いがしたような気がした。

今だけ、昔のように。





2012.02.09
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