私は、いつか死ぬのだと思っていた。





人間、いつかは死ぬ。けれども私の場合、人よりはそれが早いような気がしていた。父から降り落ちる拳に怯えるたびに、ベッドの端で丸まって、小さくなった。殴られた頬が痛い。怪我が治るまで、外に出たら怒られてしまう。冷やす氷もなくて、お医者に行くお金もない。
ガチャリ、と遠くでドアが空く音がした。帰って来たんだ。ビクリと体が飛び跳ねた。そわり、そわり、と私はベッドの上から抜けだした。壁向こうに耳を寄せる。大声で、誰かと話している。私のことだろうか。違うんだろうか。自分の名前が出るんじゃないだろうか、また怒られるんじゃないだろうか。今すぐ扉が開いて、また殴られてしまうんじゃないだろうか。

色んな不安で心臓が壊れてしまいそうだった。怖くて怖くて、涙がこぼれた。でも必死に息を押しとどめて、足跡が近づくと、動物みたいにまたベッドの中に引っ込んだ。いつか私は死ぬんだ。それはきっと人より早くて、惨めったらしくって、苦しくって辛いんだ。色んなことを考えて、汚い自分の手のひらで、涙と鼻水を拭った。





「お父さん、何してるの?」

訊いてはいけないことのような気がした。リビングのソファーに座り込んで、じろりとこちらに視線を向ける父親を見て、ビクリと肩が小さくなった。けれども、今日は機嫌がよかったらしい。くるくる、と彼は大きな手の中に何かを納めて、楽しげに腕を振って、「わかんねえのか」 野太い声だった。

それが注射器だということに気づいていたけれども、なんでそんなものを持っているのかということは全然わからなかった。でも、何か嫌な気持ちになった。「わからない……」 自分自身に言い聞かせるみたいな声だった。げらげら、とお父さんは笑った。「お前も来い」 あとずさった。でも、近づかなければ怒られる。そっとのろのろと牛のように近づいた。「来いって言ってんだろ!」 肩が飛び跳ねた。

「ほら、気分がよくなる。ちょっとだぞ、ちょっとだけしてやるよ。あとは俺のもんだからな。ほら、腕を出せよ」
「なにするの?」

小さな私の声は、父親には届いていなかった。「怖いよ」 今度は大きく声を出した。ひたり、と針が腕に置かれた。「……ひっ!」 反射的に、振り払った。
父親の手のひらからこぼれ落ちたそれが、ガチャンと床に落っこちた。あ、と気づいた。自分はまずいことをした。父さんの顔が、みるみる真っ赤に染まった。死ぬんだ。そう思った。それから先のことはよく覚えていない。


雨が降っていたと思う。土砂降りの雨の中で、靴も履かずに、真っ赤になって、よく見えない視界の中を走り歩いた。人が私を見ていたかもしれない。でも気のせいだったかもしれない。ただまっすぐに、にげなきゃいけないと気づいていた。腕がよく動かなかった。でも足は動いた。それは嬉しいことだった。何かにぶつかった。どすん、とバランスを崩す前に、肩を掴まれた。全身を打っていた雨が、途端に収まった理由に気づいたのは、しばらくあとで、私がぶつかったのは、誰か男の人で、彼が傘を持っていたからだった。

「どうしたんだ」

小さな低い言葉だった。ばたばたばた、と雨の音が大きくなった。幾度か私は唾を飲み込んで、頭を落とした。どうしたんだ。そう問いかけた彼の短い言葉が、長い間、耳から離れなくて、しめった水の匂いが、ひどく暖かく感じた。





   





人を好きになるということは、案外簡単なことなのかもしれない。ブチャラティと名乗った、そのオカッパ頭の男の人を、気づけばいつも視線で追っていた。
ブチャラティは、街の人気者だった。彼はマフィアで、父のようなゴロツキとは違い、それよりもずっと上の“悪い人”だった。でもみんな彼のことを好きだった。ブチャラティ、孫ができたんだ。名付け親になっとくれ。ブチャラティ、美味しいクッキーができたの。ぜひ食べて。
街の外を出歩けば、彼の評判が耳に入る。お店屋さんで花の肥料を抱えながら、彼のうわさ話を耳にして、一人嬉しげに笑った。「、仕事には慣れたかい?」 行きつけの店主に訊かれた言葉に、もちろん、と頷いた。

自分はきっと、すぐに死んでしまうんだと思っていた。人よりも運が悪くて、それは生まれつきで、頑張っても仕方のないことで。そう思っていた。


「君は運がいい」

ぽつりぽつりと点滴が溢れる病室の中で、彼は備え付きの椅子に背を丸めて座りながらそう言った。「そうですか?」「ああ」「あなたに会ったから?」「違う」 性的な暴行を加えられていない。そう淡々と呟く彼の言葉をきいて、白いシーツを握りしめた。それからなんだかおかしくなった。
ケラケラと笑う私を、ブチャラティはひどく眉をひそめて私を見た。それでもおかしくって、嬉しくって、ベッドの上で丸まって、お礼を言った。部屋の隅にある小さなベッドではなくて、白くて綺麗な、隣の棚の上には可愛いピンクの花が飾ってあるベッドだ。

花屋で働きたいと思った。
外に出て、顔を隠す必要がなくて、こんにちは、と色んな人に挨拶をして、毎日を過ごしたいと思った。






「私はマフィアになれますか?」

そう問いかけた私の言葉に、ブチャラティはひどく不機嫌な顔をしてため息をついた。「なれない」「なんでですか?」 不順な理由を、悟られてしまったのだろうか。少しだけ赤面した。
道を通り過ぎる人が、「やあブチャラティ」と声をかける。やあ、と彼は返事を返して、私もこんにちは、と頭を下げた。

「マフィアになろうと思ってなるんじゃない。勝手になるんだ。なれるやつは、初めからそんなことは訊かないな」

彼の言葉の続きをきいて、なるほどと思った。「全員がブチャラティさんみたいなマフィアだったら、きっと私もなれると思うんだけどな」「マフィアはなめられちゃお終いなんだが」 冗談です、と慌てて片手を振った。

多分、私とブチャラティさんの関わりはそれだけだった。たとえどれくらい彼を好きでも、恩を感じていると思っても、私と彼の間には、まっすぐの線ができていて、ひょい、と飛び越えることは難しい。私は一人で花束を持って、近いくせに、ひどく遠い彼を見つめることしかできなかった。彼はきっと、いつか一人でどこか遠くに行ってしまう。私はぼんやりと、この街で立っていることしかできない。「やあブチャラティ」 また彼は声を掛けられた。いい天気だね。そんなありきたりな言葉への返事を、彼は遠い場所から手を振って返している。

店の中で、おおい、とおじいさんの店長が私を呼んでいる。
「それじゃあ
そっけない言葉だった。慌てて振り返って、ええ、と頭を下げた。それから頭をあげると、ポケットに片手を入れた彼とピタリとほんの少しだけ目が合った。ブチャラティは、それからわずかに視線を逸らした。「花をくれないか」

、と店長に呼ばれた。「はい!」と振り返って大きな声で返事をして、ブチャラティを見上げた。「お花を?」「知り合いに、誕生日のやつが多いんだ。つい最近、行きつけの花屋が潰れてね。ちょうどいい。今度から君に頼もう」

前掛けのエプロンを両手できゅっと握って、肩を小さくさせた。少しだけ顔が熱い。「でも私、まだ下手です。花束をうまく作れません」「練習すればいい」 、はやくきておくれ。ごめんなさい、と私は返事をした。今すぐ行きます。

「期待している」

やっぱりそっけない言葉だった。私はたくさん息を吸い込んで、何度も何度も頷いた。それからすぐに店に駆け込んだ。真っ赤な顔をしていた私に、どうしたんだい、と店長は呆れたみたいにひげを撫でた。ぶるぶると私は何度も首を振って、ぺとりと耳に手のひらを置いた。
綺麗な花束を作ろう。
たくさんたくさん勉強して、素敵な匂いがして、幸せな気分になる。そんな花束を作ろう。




   ***




ブチャラティ、それは一体なんですか? と肩をすくめて男は笑った。俺は持っていた花をひょいと持ち上げた。明るい色の花束は、ひどく目立つ。「あなたの花は、葬式の割にはいつも派手だ」「“誕生日”だからな」
何を言っているんだと眉をひそめる彼に苦笑した。

「僕が選んできましょうか。花を選ぶのは嫌いじゃありません」
「いいさ、フーゴ。俺が好きでしてることだ」
オレンジ色のスイートピーを見つめて、からりと一つ、呟いた。

「なにより、こっちの方が綺麗だろう」








2013.03.12
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