男主。はじめとバトル。




弟が、ベランダから落ちた。

「何いってんの?」

理解ができなかった。今日は母が合唱コンクールに出場するとかで、俺は部活で、父は出張で家には輪一人が残ることになった。数日前にどうしましょうか、部活休めるかしらと聞く母に割り込むように、ありすがいい、ありすと一緒がいいと、輪が主張していたことを覚えていた。
ありすという子は、ついこの間お隣へと越してきた高校生の女の子で、俺よりもお姉さんだ。その弟と、俺はよく学校へ行く。

それで、何故、弟が、高い高いベランダから落ちることになるのだ。


「輪に何の恨みがあって!」

と母は叫び、お隣の、今日は輪と一緒にただお留守番をしていただけの少女へと、力強く頬をはたいた。赤く染まった頬を、女の子は長いストレートの頬に隠しながら、ぼろぼろと涙をこぼし、ヒステリックに叫び続ける母を、出張中だったはずの父が、押さえ込んでいて、手術中だと、静かに緑の色に灯るランプが、暗い廊下へとしんと映りこんでいた。

よくわからなかった。だっておかしいじゃないか、俺の弟は人よりもちょっとこまっしゃくれているけれども、ガムが大好きなどこにでもいる小学生だったはずだ。それが何故あんなにも一緒にいたいと主張した女の子にベランダから突き落とされ今はただ静かな部屋へと連れ込まれているのか。


母の声が聞こえる。ひび割れたような、嗚咽を交えた声は、俺をふと、こちらへと戻される。ああここは病院だった、とふと気づくのだ。
そしてぼろぼろと泣く女たちに挟まれ、父が「」と何度も俺の名を呼んでいた。

まっすぐに立っていた足元を見れば、学校用の真白い運動靴のままだった。それはほんの少し泥で汚れていて、拭わないと、と手を伸ばせば、ぐらりと体が崩れる。ぐらぐらと揺れる。ここはどこだ、病院だ、「」父の声が聞こえる。「輪」母の声が聞こえる。



手術はなんの問題もなく終わった。
ただ弟の意識が覚めることはなかった。





開けられた扉は変わらない。ちゅん、と雀の鳴き声が聞こえ、隣のドアを見つめた。背負ったバックは通学用で、制服は着心地の悪い詰襟だ。
輪はいない。母は病室につめ、父は仕事へと出かけた。いつもとただ変わりなく俺は学校へと出かける。輪がいないのに、日々は変わらない。
よくわからない。ただ俺の中でぐつぐつと気持ちの悪い感覚が煮えているようで、それがなんなのかよくわからなかった。足を進めた。


ガラリと扉を開けた瞬間、急にしんと生徒達の声が止まった。ぼそりと聞こえる声に、新聞の、と呟く声が聞こえる。同じマンションに住むクラスメートは多い。ばかばかしい。そう思って、自分へと席につき、荷物を整理した。隣の席はまだ空白のままだ。そういえば、今朝は見かけなかったな、とそれだけ気づく。

もう一度、ガラリと扉が開いた。くせ毛のように前髪がくるりとしたカールを、右の手でいじり、静かなままの教室を一瞥する。
きゅ、と口を一文字にし、そいつは俺の隣の席へと座った。「おはよう」とそいつはクラスメートへと声をかけ、「ああ坂口おはよう」と上ずったように、クラスの男子が返事をする。クラスのやつらは、きっと知っている。だから何というわけではないが。



ただただ静かに思えた感覚もいつの間にか消え失せて乱雑な声が混じり合う。変わらない。変わらない教室だ。隣の人間を、見ることはしなかった。
俺自身、よくわからなかった。
ぐつぐつとする。


教師の声は、耳から流れ、ただ腕は機械的に黒板の内容を板書した。ガリガリと聞こえる音に、ぽっかりと頭の中がどこかへと流れているようで、ふいに苦しくなった。指が止まる。唇を噛みしめる。隣の席の人間が目の端へと映った。見るなと自制するように顔をそむけ、窓の外をふいと覗く。ガラスだ。白いガラスには教室の人間がうっすらと映っていた。
その中に、そいつも混じっていた。俺を見ていた。


本当に、よくわからなかったのだ。
ただ何をいいたいかも分からないような表情で俺を見ていたそいつが無性に腹が立ち、気づけば胸倉を握りしめていた。つっぱった学ランの布が手へとちくちくつきささり、握りしめ、反対の拳で、思いっきり殴りあげた。教室中に悲鳴が溢れ、彼と共に沈み込んだ体は、派手な音を立て床へと打ち付ける。

腹の上へと座り、服をつかんだまま、もう一度殴った。腕を振り上げた。殴った。ぎしぎしと骨が響く音が聞こえ、やめろと叫ぶ教師の声が聞こえて、それでも俺は昨夜のようにどこかへと勝手に音は逃げ遠くなる。「なんで」 ただ小さく、自分の声だけが聞こえるのだ。


突き飛ばされた体は机へと激突し、彼は俺の胸元へと、強く強く頭突きを喰らわせた。苦しくなり、がほりと咳きこみ、そこを狙うかのように彼は俺と同じように頬を殴る。口の中が少々ガタついたように震え、鉄くさい味がした。何も考えずにまた殴り返し、ばかん、と顔を殴られた。ぼとぼと鼻から血が流れていて、手の甲でぬぐいながら、また殴った。そいつも同じようにぐい、と顔をぬぐっていた。

ぐちゃぐちゃになった教室の真ん中に俺達はただつったっていて、隣のクラスから呼ばれた図体のでかい男子二人に、押さえつけられるかのように拘束され、何やってんだお前ら! と耳元で教師のどなり声が聞こえる。

「はじめぇ!」

俺はそれでも叫んでいた。喉からぶるぶると声をあげて、叫んでいた。お互いきつくにらみながら、バタバタと暴れて、腕を伸ばす。抑えつけられる。「なんでだ!」 本当は。本当は違う。
本当は。
本当は、きっと俺は、彼女を殴りつけたかった。別に彼を殴りたいわけじゃなかった。「なんでなんだ!」 母のように、平手ではなく、今と同じように、拳を振り上げたかった。「なんでだ、輪が何したってんだ、なんで輪が、なんでなんだよぉ!」 気づけば、それは、母と似たりよったりなセリフだった。


彼女を思いっきり殴りあげても、その弟を殴ったとしても、なんの解決になるわけがないと知っていた。けれどもこらえようのない感覚に、胸がせりあげ、俺はぼろぼろと泣きだし、嗚咽を吐きだしながらも、なんでなんだと叫んだ。
はじめは泣かなかった。俺と同じように、抱きこむように動きを封じられていて、そしてまた俺と同じように鼻を赤くそめて、ぐっと一文字をしたような口で、「姉ちゃんだってなぁ!」と叫んだセリフを、しゃくりあげるかのように言葉を吐きだした。けれどもそれは続くことはなかった。


ふと、クラスの女の子が、ひいと泣き始めた。その女の子を抱え込むかのように、他の女子が手を伸ばしていたけれど、そのこもまたぼろりと泣いていた。
繰り返した連鎖は、わあわあと叫ぶ俺と先頭にするように、クラス中に広まっていた。それはまるでどこぞの葬式場のような壮絶な声に、教師が慌てたように口を広げようとし、ぶるりと震えあげ、息を吸い込み素早くメガネを取り外し、目がしらを押さえた。はじめは泣かなかった。

「きっと大丈夫だよ」とぼろぼろと涙をこぼしながら、女の子が叫んだ。「そうだよ」とまた誰かが同調するかのように叫んだ。「大丈夫だよ、弟くんは、大丈夫だよ」 叫んだ。


ふざけるなと、俺が叫ぼうとしたセリフは飲み込まれて、すすった鼻水を、制服の裾でふく。
ふさげるな。お前らに何が分かるんだ。何が大丈夫なんだ。なんでそんな無責任なセリフなんだ。お前らが大丈夫っていって、何が変わるんだ、何もできないじゃないか、俺だってなにもできないんだ。

なんでなんだと俺は叫んだ。あの子は、ただの小さな子どもじゃないか。なんでなんだ。眉を寄せたはじめは、やっとこさ、遅れたかのように、瞳の奥から小さな水滴を一粒落とした。そしてそれを隠すように、慌ててぬぐった。誰が泣くものか。誰が泣いてやるもんか。そんな声が聞こえるようで、拘束のとかれた腕をへたりと床へと沈みこませ、肩を震わせながら唇をかみしめた。

腹の底で暴れる気持ちはただほんの少し治まっていた。けれども、そのことが悔しかった。大丈夫だ、大丈夫だから。聞こえる友人達の声に、耳をふさぐ。頷く。はじめを見た。そいつは顔を真っ赤に染めて唇をかみしめながら、泣きそうな顔を我慢していた。
大丈夫だよ、とまた聞こえる。


貧困なボキャブラリーは繰り返され、何度も何度も、脳の中へと言葉をすりつけられる。大丈夫だ、輪は、大丈夫なんだ。だから。

ぶるりと、はじめを殴りつけた腕が震えた。痛かった。とても痛かった。輪が、目を覚ましたら、そしたら、そのときに、彼の姉へと思いっきり文句をいうのだ。ばかやろう、なんでなんだと、思いっきりに、罵ってやるのだ。彼ではなく、彼の姉へと、胸糞悪い気持ちをぶちつけてやるのだ。輪と一緒に、文句をいってやるのだ。
だから、だから助かりますように。輪が、目を覚ましますように。お願いだよ、輪、早く起きてくれないと、兄ちゃんは、あいつの姉ちゃんに、いつまでたっても文句をいえないよ。そしたらまた、兄ちゃんどうすればいいか分からなくなるんだ。だから輪。
(おねがいだ)


どうか、俺の弟が、助かりますように




2009.01.18
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