中学時代、夏目が転入してきたときの話。男主。



無口な男が転入してきた。夏目という名前らしい。



いいや正確にいえば違う、夏目は寡黙な少年だ。どこかぼんやりとしたような顔つきに、薄い肌の色は、僕はインドア派なんです。と主張しているようなものだな、とぼんやりと思いつつ、いつまでたってもクラスに慣れることのないそいつを、俺はいつも目の端で追っていた。

なんとなく俺は、そういう人間を気になる人だった。余計な御世話だといわれるかもしれないけれども、教室の端っこの方で、ぼんやりと誰と会話をすることもなく椅子に座るそいつは、友達なんていないんじゃないか? と思わず疑問に感じてしまうくらいで、それは事実だったんだろう。なんとなく、声を掛けづらい雰囲気を、そいつは醸し出していた。
わざとなんだろうか。それともそんな性分なだけなんだろうか。


気になるけれどもタイミングもつかめない。そんな俺にやっとこさチャンスが回ってきた。体育の時間だ。ぼけっと何百メートルと泳がされるプールに、へぇへぇと辟易しながらも、俺は水の中へと静まりこんで、自分の順番を待っていた。コースに比べて人数が多いので、泳いでいる時間よりも、待っている時間の方が長い。

低い気温にぶるりと体をふるわせると、ばしゃん! と大きな水しぶきが顔にかかった。なんだ? と思えば、俺の後ろに泳いだ奴がやっとこさゴールにたどり着いたんだろう。特に気にせずぼうっとしていると、そいつがぬっと顔を出したのだ。夏目だった。
ゴーグルと取り外しながら薄い色素の目をごしごしと手の甲でこすり、ぼんやりとした顔だ。「寒いな」 俺はなんとなく、夏目へと声をかけた。

彼はパチリと一回の瞬きに、「ああ」と短く言葉を吐いた。案外低い言葉と、やんわりとした口元に、なんだ、こいつ笑えるのか、と何となく安心した。
一人でいる人間は、どこか気になるのだ。



クラスで夏目にあった。「おう、おはよう」そんな短い言葉に、夏目は「ああ」と頷く。やはり口数は少ないが、俺はにかっと笑って、パンパン、と彼の肩を叩いた。ひょろい。ちゃんと飯くってんのか、と訊きたいところだが、「じゃあな」と手を振って、自分の席へと戻る。


ハヨっす、、とかけられる声に、俺はおう、おう、と返事をする。今日の日付なんだっけ、やべぇ俺当てられるじゃん、だれかノート貸して。ぱんっと両手を合わせれば、「しょうがないなぁくんは」と女の子が、綺麗な水色のノートを渡してくれた。
ありがとう、といいながら、鮮やかな色のついたような空間が、なんとなく不思議に感じる。夏目は静かな色だな。
夏目も一緒に、みんなとわいわい言えたらいいのに。

そんなことを考えながら、俺は夏目に声をかけた。「おう、夏目」 一緒に帰らないか。



俺はカラカラ笑いながら、夏目の隣を歩いた。夏目はやはり自分から会話に参加することなく、一方的に俺がべらべらとしゃべるだけで、とことことアスファルトを踏みしめる。
時々流れる静かな沈黙は、別に苦しいとは感じない。もともと夏目は静かなやつだと知っていたからだ。「家どっち?」 訊いた俺に、夏目は指をさした。「こっち」「俺もこっち」

夏目はやはり細いやつだった。よくよく見れば綺麗な顔をしていて、これで髪が長ければ、女の子に見えるかもしれないな、と思うと、ほんの少し笑いそうになった。にやにやとした表情に彼は気づいたのか、少しだけ目を見開いた。「なんでもね」


夏目の家は、日本家屋だった。ここらで瓦の屋根は珍しいな、と思いながら眺めた表札には、夏目とは違う苗字が書かれている。見ないふりをした。ほんのすこし気になったけれど、気にしていないふりをした。けれども夏目はすぐさま気づいた。
夏目は特に気にもしていないような顔で、「親戚だよ」と笑った。だから俺も、「おう、そっか」と呟いた。

カラカラと扉を開けながら扉を開ける夏目の背は、どこか小さい。もともとでかくはないが。中に人がいることは、一瞬見えた靴で気づいた。

「ただいまっていわないんだな」

呟いた。






「夏目おはよう」 声をかけた。夏目は変わらず、ああ、と答えた。淡白なやつだ。そのあと俺は、変わらず他のクラスメートに声をかけた。「おはよう」 ぱん、ぱん、ぱん、と肩を叩きながら声をかけると、「やっだくんセクハラ!」と女の子に怒られて、笑いながら「ごめんごめん」と頭を下げれば、誠意がこもってない! と怒られてしまった。
やっぱりここは明るい色だな、と思った。



ペアを組め、と言われた。簡単な資料作成だ。「一緒にやろうぜ」というクラスメートの声を聞きながら、おう、となんとなく聞き流した。夏目を見た。相変わらずそいつは椅子に座って、ぼうっとした顔をしている。「悪い他の奴と組んでくんね」 よろしくー、とにかにか笑って、夏目の席へと移動した。

「夏目、ペア組まね」

夏目は断らなかった。


静かな時間が過ぎた。ぎゃあぎゃあと騒ぐクラスの中で、俺たちだけが静かだった。淡々と作業をこなしながら、画用紙大の紙にきゅっきゅとマジックで文字を書き込む。俺の字は汚いのに、夏目の文字は綺麗なものだから、その差が際立って、「お前すげぇなぁ」と呟いた声に、夏目は僅かに苦笑した。別に、と小さな声が聞こえた。

、そっちの進行はどーよ?」
「おうよ、バッチリ」

背後から聞こえた声に、ぐっと親指を突き出しながら答えると、「まじでー?」とケラケラした声が聞こえ、「相方がいいもんだからさ」と笑った俺の声に、ほんの少しの間ができた。パチリ、と俺が瞬きをした間にそれは流れ、「そっか、じゃあな」 パタパタと手を振りながら、自分の席へと戻っていく。


俺は「なんなんだろうな」と夏目に声をかければ、夏目は困ったように頬をかいた。なんで夏目が困っているのかよくわからなかった。
その日も、一緒に帰ろう、と夏目を誘った。夏目は頷いた。

俺は部活動には入っていなかった。夏目も転入してきたばかりで、入ってはいなかった。だから自然と、俺と夏目はいつも一緒に帰ることになったのだ。それはいつも俺からで、一人でちゃっちゃかと荷物をまとめて帰ろうとする夏目に、「夏目、一緒に帰ろう」と俺が声をかける。そして夏目が頷く。
もしかしたら、俺が声をかけなければ、夏目は本当に一人で帰ってしまうのかもしれないな、と考えた。別に確かめる気も何もなかったものだから、俺は毎日夏目に声をかけた。


気のせいだろうか。夏目は時々、あらぬ方向を見つめる。「あ、猫だ」 そんな呟きに目で追えば、猫はどこにも見つからない。俺は猫好きだったものだから、「夏目、猫どこ、猫どこ」と訊くと、夏目は、えっ、としたように口元を開いて、気のせいだった、と首を振った。
そんなことが何度か繰り返した。変なやつだな、とぼんやりと考えた。
けれども俺は、案外夏目を好きになっていた。親友とまではいわないけれども、友人くらいには思われているんじゃないだろうか。
今度夏目を、俺の家に誘おうと考えた。そんで休日に遊ぼう。学年が上がって、またおんなじクラスになれたらいい。「夏目おはよう」と声をかけると、相変わらず彼は「ああ」と淡白な答えだ。




って、なんで夏目にちょっかいかけんの?」



訊かれた声に、俺はえ、と思わず呟いた。
放課後の掃除当番に、俺はガタガタと机を移動させていて、今日は俺が一緒に帰ろう、と言わなかったものだから、夏目はもう帰ってるな、と思いながら時計を見つめたときだった。

「なんでって、………なんで?」
「だってさ、あいつ気味ワリーじゃん」

そういえば、こいつはいつだか、夏目に妙な顔をしていたな、と思いだした。俺は笑いながら、「何だそれ」と軽く言葉を吐いた。「まじめにやろーぜー」と打ち切ろうとした会話に満足がしきれなかったのか、「あいつさー、いっつも変なとこ見てんの。コエーって」「ああ、見てる見てる。あんましゃべんないしさ、何考えてんのかな」「何も考えてないじゃね?」

どんどんと転がる雪だるまのように、上へと乗せられるセリフに、俺は無言のままにガタガタと机を運んだ。並んだ机の列が汚い。直そうと思ったけれども、やめておいた。

はさ、そんな奴だよな」

ふいに、かけられた声に、俺は「え? なんのこと?」と笑う。「って昔っから友達いないやつの面倒見てるもんな」 お人よしだなぁ。

笑いながらかけられた声に、違うって、と苦笑しながら、俺は自分のカバンをとって、「じゃあ先帰んな」とガラリと扉を開けたのだ。
けれどもそのとき、ちょうど背中を向けた少年がいた。夏目だ。


ああ、いやなタイミングだなぁ、と思いながら、俺は「夏目」と声をかけた。「待っててくれたのか」
夏目はやっぱり、静かにああ、と頷いて、夏目と下校した。
ぽつりぽつりと、夏目は言葉を吐くようになった。最後、夏目は何か少し言いたげな表情をしていたけれども、俺は笑いながらじゃあな、と手を振った。

「またな」
「ああ」




次の日、夏目は学校に来なかった。
なんでだろう、と机に頬杖をしながら、「夏目くんは家庭の事情で、転校することになりました」というセリフに、ぽかんと口を広げてしまったのだ。
ふうん、と聞こえる周りのセリフに、「って夏目と仲よかったよな」という声が聞こえる。「どこに行ったの、夏目」と興味本位のような声に、俺は曖昧に笑った。


って昔っから友達いないやつの面倒見てるもんな


     傷つけたのだろうか。


その日の放課後はすぐに過ぎた。俺は自分の荷物をまとめながら、ああそうか、今日は一人で帰るのか、と気づき、下足場へと向かい、靴をはいた。何故だか、少し静かだった。
校門を出ながら、俺は久しぶりの帰路を歩いた。

「こっち」「俺もこっち」
嘘だった。俺と夏目の家は、まるっきり反対の方向で、夏目が家に入る姿を見てから、夏目と歩いた道を、くるりと反転して家に帰った。そうか、今日はいつもよりも早く家に帰れるのか、と気づいて、そうか、とやっぱり小さく独り言をつぶやいた。


って昔っから友達いないやつの面倒見てるもんな


別に、間違ってない。
本当のことだ。



けれども俺は、ぐるりと体を反転させた。思いっきり走った。息切れした肩を落ち着かせながら昨日と同じ夏目の、親戚の家の門の前へと立ち、インターホンを押す。「はい」 くぐもった女性の声が聞こえ、俺は「夏目くんはいますか」と呟いた。 しばらくの無言に、「タカシくんは、ついさっき、駅へ向かいましたよ」 と声が聞こえ、俺は走った。


お人よしだな。そんな声が聞こえた。
お前ってそんな奴だよな。それはただの嫌味を含んでいることぐらい知っていた。けれども笑うことにした。ただ少し含んだ棘だ。誰だって、棘くらい出したいときはある。俺はきっと、はたから見れば、ほんの少し、イラリとするやつなのだ。ただのバカのお節介焼きだ。


俺は失礼な奴だ。
それくらい知っている。友達がいないやつを、勝手にさみしいやつだと決めつけて、勝手にかまって、勝手にいい気分になってるんだ。けれども、気になるんだ。だって、一人でぽつんといて、さみしくないのか。

俺は、どう思われるのだろうか。上からただ幸せだと無理やりに授与する、鬱陶しい人間。まとわりつく人間。お人よし。


頬に流れた汗をぬぐい、胸のシャツを掴み、どくどくとなる心臓を押しつけるように、それでも走った。河川敷を転がり落ちるように抜け、ずるずると顔から滑った泥をぬぐい、もつれる足で前へと進む。
流れる川の上に、大きな橋があった。ガタン、ガタン、ガタン。通り抜ける灰色の電車に、俺は胸がつかまれるような気がして、叫んだ。


「夏目ぇええーーーーーーーー!!」


聞こえる訳なんてない。けれども俺は叫んだ。投げ出したカバンがごろりと転がって行って、視界の外へと聞こえる。ガタンガタンガタンガタンガタン! 耳へと響く大音を打ち消すように、叫んだ声は、肺の空気を根こそぎ持っていく。「夏目ぇ!」 俺、やっぱ、鬱陶しかった?


でもさ夏目、俺、夏目のこと好きだったよ。いい友達になれたらなって思った。ごめんな、鬱陶しくて、ほんとうにごめんな。でも本当にそう思ったんだよ、夏目、お前俺のこと、ちょっとは好きでいてくれたかな。友達かなって、思ってくれたかな。どうなんだろう。

夏目、知ってるか? 人間が一生に会う人数って、あらかた決まってるんだってさ。
多分俺は、お前がたくさん会う人の中の一人だよ。お前も、俺がたくさん会う人の中の一人だったよ。「………夏目……!」

でもさ夏目、何もなしって、やっぱひどいわ。

お前さ、いっつもこんな別れ方してんの。もう諦めちゃってんの。せめてさ、「さよならくらいさぁ!」 またねって、言ったじゃん。


頭の中で、「ああ」と短く呟く夏目の声が聞こえた。ツンとした鼻の奥を、腕で誤魔化すようにこすり、それでもじわじわとくる波に、唇を噛みしめた。聞こえる電車の音はもう遠い。すすった鼻の音は大きく響く。今更ながらに、転んだ頬が痛んだ。




少しだけ泣いた。



2009/02/18
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