ぽんやりと、少年は両手を合わせた。黒髪の女性が、じろりとこちらを見下ろしている。へっぴり腰に地面に尻をついてしまって、へたれた顔つきをしていた。ハッ、と彼女は鼻から息を吹き出した。ふぎゃ、と少年、は震えた。それから、頬を真っ赤にさせた。


「…………女神だ………」
「…………ア?」






     アトルニア王国の西部に位置する、小さな街、エカリープ。
彼の地には、火竜が封じられている。古い、いや、子守唄のようなお伽話だ。領主リゲインとその妻ファレル、そして洞詠士を連れ、一体の竜を封印した。

それは壮絶な戦いであり、記録でありそして     物語の始まり













「おはようございます、領主さま!」

ぱたぱたと小さな少年が走っていた。短い黒髪をはねさせて、年は10を過ぎない程度だ。竜を封じてまもなく、領地とは名ばかりの領地を頂き、ぽつぽつと人が増えていくその最中にやってきた、彼はやっとの子どもでもある。自身の息子よりも、いくらか年は下だ。息子によく似た金の髪を揺らして、鼻の頭にひょいと横に伸びる傷を撫でながら、リゲインは視線を逸らした。「領主さま、おはようございます?」「お、おう……」

さすがに自身の領地の子である。無視をするわけにはいかない。腕を組みながらも、幾分か目立つようになった口元の皺を男は歪めた。「それで」 来るぞ、これは来るぞ。耳を塞ぎたい。でもそうはいかない。「ファレル様は、どちらでしょうか?」「…………家の裏庭で、小鳥と戯れているのかもな?」

正しく言葉を出すのであれば、セイヤアセイヤア、剣を振り回していると思うのだけれども。






こんなうららかな日の中でも鍛錬を忘れぬとはさすがファレル様でありファレル様でファレル様ですね! とリゲインの言葉を正しく受け取る黒髪の少年に、さすがと言っていいやら、頭を抱えていいやらわからない。ただの子どもだ。子どもである。『下の毛も生え揃わないおこちゃま』と自身の妻ならそう言い表すだろう。正しく想像できる自分が少々悲しい。

うーん、とリゲインはを見下ろした。パタパタ、と少年は両手を腰の隣で揺らして、わくわく嬉しげにこちらを見上げている。そっと再び目を逸らした。それからまた顔を合わせた。「…………あがっていくかい?」「はい!」

「今日は父母から領主の皆さんへ、お酒を言付けられました! ぜひともファレル様にお飲みいただきたく!」と、抜け目のない少年の一言の頭の上で、ぴーひょろろろろ……と楽しげな鳥の声が聞こえていた。


少年、はリゲインのライバルである。
口に出したことはないが、なんとなくそう思っている。彼は自身の妻、ファレルに健気な想いを寄せている。それははばかることなく囁かれる言葉であり、態度であり、間違いはないといっていい。けれども待て、かれはいくつだ。妻もいくつだ。いったいどれほどの年の差があると思っているのだと訊かれれば、そもそも、それだけの差があるくせに、ファレルとが二人並んでいる姿を見ると、じっと目を向けてしまう自分が少々情けない。

「なあおいDX、は今、ファレルと何をしてるかな?」
「お茶を飲んでるみたいだけど」
「せっかくだから、お前も一緒に行ってきてもいいんだぞ?」

どうだ、と息子の肩を叩いてみると、「ははは」と少年は笑った。「イオン、そんならイオン! 六甲! 六甲いるか!」「父さん父さん」 やめとけやめとけ、とぱたぱた背中を叩かれた。







「今日はが訪ねて来たらしいな?」
「そうよ。あなたが通してくれたんでしょ」

そうだったな、とうそぶきながら、テーブルに肘をついた。ファレルはご機嫌に首を振って、「ひょろっこい子だけどね。なかなか根性はあるところは嫌いじゃないわ」「……そうか」 ちょっと声がぶつくさしていた。部屋の外で、子どもたちが暴れる音がする。「何を話したんだ?」「うん?」 ファレルはきょとりと瞬いた。

いやいや、と片手を振ろうとして、「あんた、もしかして」 やいてるの、と問いかけられそうになったものだから、彼女の口を塞ごうとした。けれども残念ながら、あちらは生まれついての傭兵だ。軽々と見を翻してケタケタと窓の外に向かって笑っている。「子どもよ! 子ども! あんなのただのガキンチョじゃない。毛も生えそろってないっての!」 想像通りの台詞だった。「あのな」 わかってはいる。わかってはいるのだ。「それでも男だろうが」

ファレルは笑いで滲んだ涙を片手で拭った。それから、すん、と鼻をすするように手のひらを顔にのせ、リゲインを見つめた。髪を伸ばした元は黒髪の少年は、傍から見れば優しげな奥方だ。傍から見なくとも、彼からすれば天下一品の嫁さんだ。「馬鹿ねえ」 テーブルに置かれた、彼女の指を見つけた。ぽりぽり、とひっかく自身の耳が、少々熱い。「まあ、あんたのそんな馬鹿は嫌いじゃないけどね」


それから、少々仲のよすぎる行為を行ったことを、記述しておく。



やあ少年、と次の日家の前で待ち構えて、に向かい合うリゲインの顔は晴れやかだ。「こんにちは、領主さま」と相変わらず礼儀正しく頭を下げて、少々不思議気な顔をする男児は、やっぱりただの子どもじゃないか。いやはや、ばかばかしい。そして情けない。「ファレルは中だよ」 よかったらあがっていきなさい、と昨日と同じ言葉を繰り返す領主は、決して暇なわけではないはずだ。

はぱっと子どもらしく頬を高調させ嬉しげに笑った。「はい!」 可愛い子だ。うちの息子はどこか掴みづらいところがあるが、この子はひどくわかりやすい。イオンを男に変えたような子だ、と思うと、やっぱりまた可愛くなった。

ふんふん、と明るく鼻歌を歌って、玄関のドアを開けようとした。すると、彼が開けるよりも先に、洗濯物を抱えたファレルがこっちに顔を覗かせている。「あら」 じゃないの、とファレルは笑った。「ファレルさま!」


今日もまた一段とお綺麗で! と心のそこから付け足しているらしい彼の台詞は、聞かないことにした。大丈夫、問題ない。我が妻の琴線を、彼はまったく理解していない。まったく、ガキである。フッとリゲインは大人気なく心の底で笑った。「あらあら」とファレルは外面をよろしく、片手で軽々洗濯カゴを持ち、ほほ、ともう片方の手を口元に当てている。

「ファレルさま! 今日はまた贈り物があってきました! ぜひとも受け取っていただきたく!」
、それは中に入ってからでいいだろう」
「あ、領主さまごめんなさい、そうですね」

僕ったらちょっと気がせいていました、とその“贈り物”を抱きしめて、小さな少年はファレルを見上げた。「早くこの砥石をファレル様にお渡ししたくて」「…………とぎいし?」 ぴくり、とファレルの片眉が飛び上がった。リゲインはハッと瞳を見開いた。「はい、これです!」「あらあらまあまあ!」 無理やり洗濯カゴを押し付けられた。

「ふぁ、ファレル……」
「こ、こんなものもらっちゃっていいのかしら、本当にいいのかしら!?」
「はい! 家の肥やしになるよりはと父から是非ファレル様へと」
「きゃあ!」

嫁がかわいい悲鳴をあげている。「ファレルー……」 こっちの声なんて、まったくもって耳にしてない。「ファレル様がお使いくださるのなら、僕とってもうれしいです!」「あらあ! 嬉しいこと言ってくれるじゃないの! リゲイン、ちょっと研いでくるから! 洗濯物をよろしく!」「いや」 ちょっと待て。


「可愛らしい方ですねえ、ファレル様は」
「…………ガーッ!」

とりあえず、叫んでおいた。






   ***



「すっころんでびぃびぃ泣くだけのタマなしなら、さっさと踏みつぶしてあげるわよ」

今でもこの言葉は、俺の胸の中に留められています、と明るい笑顔で胸に手を当てる、知人を見て少年はかくりとテーブルから肘を落とした。

「あれはまだおれが、10を過ぎてもいない頃のことでした。道端ですっころんで、膝を打ってしまいまして、来たばかりの土地の中、不安も溢れ、びいびいと鼻水をたらしていたんですね」

そこでやってきたのがファレル様です、と今ではぐんと背が伸びて一歩青年に近づく少年が、ぱたぱたと楽しげに両足を揺らして人差し指を突き立てた。「そしてこの台詞です。俺はひどくじんと来ました」 そして恋をしたのです、だなんてあっけらかんと自身の母親について語られても、どう反応をしていいかわからない。

せっかくの機会だ。前々から不思議と思っていたことを問いかけてみよう。そう思ったことがいけなかったようだ。ちょっとした失恋にセンチメンタルになっていて、他人の恋話に耳を傾けたい気分だったのだ。「できることでしたら、俺はDX様の義理の父になりたいという程度には、目標を高く持っているつもりです」「……うんまあ、やりたいことは人それぞれだし」 恋の形もそれぞれだし。がんばれ、と実のない応援の言葉を、ほんのりとした顔つきで頷いて呟いた。
ところで、自身よりも年が下の義父は父と呼べるのだろうか。

「もちろん俺はリゲイン様も好きですが、いつか背中から突き刺す程度の覚悟もしています!」
「……それは一応、やめておいてくれる?」

せめてもうちょっと前向きに、あっちの寿命が尽きるまで待つ作戦はどうだろうか。気の長すぎる話でもあるが。「そちらも視野にいれております!」 なんだかここまでくると、ちょっとかっこよく見えてきた。なるほどそうか、がんばりたまえ、と自室の椅子に腰を深く下ろして、「はへえ」とやる気のない息を吐き出してみた。「ですから俺は、エカリープで虎視眈々と努力を続ける所存ですので」 行ってらっしゃい。

そうぽとりと付け足された言葉を聞いて、なにやら妙な気分になった。「そうだなあ」 おやつとばかりに出されたパンを頬張ってみた。「今すごく、旅立つって気分になった」 いひひ、と二人で顔をあわせて笑ってみた。

「俺を父とお呼びくださっても構いませんよ」
「まあそこらへんは、未来的にもしかするとということで」


2013/03/25
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