『嫌いな人』



ガイは道端を軽い足取りで歩いていた。いつもならばブウサギの世話をしている時間帯なのだというのに、今日に限ってはいまだ真新しい街をきょろきょろと伺っている。ブウサギの定期健診の日で医者が来るから明日は多少遅くてもかまわないぞ。と明るい笑みで言ったピオニーに、そんなものまでしているのかとガイはなんともいえない気持ちになった。

ガイはついこの間まで使用人の身分だった。いいや元はといえば貴族なのだが、いろいろとややこしい事情があり、現在ではせかせか働く働きアリの貴族となっている。けれども現在仕事といえばブウサギの世話ばかりというところがさみしいところなのだが。


それでも慣れてくればあいつらだって可愛く見えてくるものなのだ。ぶうぶうぶひぶひ、なんて荒い鼻息を脳内へと思いだしてガイはにまっと笑った。あの柔らかい手触りはちょっと格別だったりする。
それでも久しぶりの休みだと満喫するその姿はただの青年そのものだが、よくよく見れば着ている服のなめらかさや丈夫さ、小奇麗さは貴族特有のものだった。なんだかややこしい。

未だに覚え切れていない道を歩いていると、トスリとガイの腹に軽い衝撃が走った。なんだ、と見てみれば、バサバサの、あまり手入れをしていない髪の少女が、大きな瞳をきょろりとさせて、「あっ」と驚いていたような声をあげた。そして彼女の手の中に包まれていたパンがぽろぽろぽろっと道端に転げ落ちた。

これはまずいとガイは腰をおろして、こぼれ落ちたフランスパンをひょいっととる。「あー、落ちちゃったな、悪い、大丈夫か?」弁償するべきだろうか、と彼がポケットの財布をいじろうとしたときだ。
少女はカッと目をつりあげた。そして叫んだ。


「余計なお世話だ!!」



まさか初対面の女の子に怒鳴られるとは思わなかった。

「なぁ、ジェイド。パンを落としたのかいけなかったのかな?」

可愛い方のジェイドはぶひぶひお鼻を動かして子首を傾げた。わかんないぶひ。そんな声が聞こえる。
だよなぁ、とガイは可愛い方のジェイドのふさふさした頭をなでながら、だよなぁ、と頷いた。ブウサギに分かって人間に分からないとは、もう人間失格である。
(うーん、初対面の人に、ああもはっきり言われちゃうと、案外ショックだな)

やっぱり、ぶつかって、パンを落としてしまったことが駄目だったのだ。彼女にとって、あれは大切な食糧だったに違いない。彼女のぼろぼろの指先を思い出した。(悪いこと、したな)胸が痛んだ。必要以上にずきずきとしてくるのは、きっと自分に思い当たることがあるからだ。ぼろぼろの指先。荒んだ顔付き。ガイはふと、水辺を覗き込んだときのことを思い出した。子どもの頃、顔を洗おうと泉へと顔を突き出したときのこと。



「あ」
「……ああ?」


彼女は相変わらずよれよれの着回した古着を身につけていて、腕には小さなバスケットを下げていた。中に入った切り花が風でさわさわと揺れた。「あのときの子だよね」そう言ってガイが指をさすと、彼女はむっと不機嫌な顔をした。あ、思い出してくれたのか、と知らずにガイは苦笑した。睨まれて分かるだなんて恥ずかしい。

彼女は不快な表情を張り付けたまま、そのままガイに背を向けた。「あ、待ってくれ!」ガイは慌てて走る。けれどもロープにひっかかった。「ぶひ」ロープの先には可愛い方のジェイドが不満げな顔をしている。いきなり走るんじゃないぶひ。「す、すまない」思わずブウサギに謝って、その巨体を持ち上げる。重い。「ま、待ってくれ!」

そして彼女の後姿めがけて追いかけた。「パン、弁償させてくれないか!」 ブウサギを背中にかついだまま、少女を追いかける一人の男。随分怪しい状況だなぁ、と自分自身気づいてはいたけれど、やってしまったものは止まらない。少女はガイを確認するとまた走った。そして逃げた。「に、逃げないでくれー」

なんで逃げるんだろう。

ブウサギを背負った男など、知りはしない、ということだろうか。いいや、それ以前に、彼女の表情はガイをその目に入れただけで、むっと不機嫌にかたどった。彼女のバスケットからこぼれ落ちた花がぽてぽてと石畳の上に色づいた。ああ、なんてこった。とガイは声を唸らせた。これまた弁償だ。自分は彼女の商売の邪魔をした。

とうとう路地裏に追い詰めた、と思ったときには彼女のバスケットに残る花は数えるほどだ。よいしょ、とガイはブウサギを背中から下ろした。そしてその毛を服からはらうことよりも先に、「本当にすまない」と頭を下げて「お金は払うよ。その、どれくらいになるんだろう」 ごそごそ財布を取り出す。

「いらない」

彼女はギッと力強く彼を睨んだ。足元のブウサギが「ぶひー!」と悲鳴を上げた。ぱちくりガイが瞬きを繰り返す間に、彼女はすっとガイの横を通り抜ける。「あっ、待っ」ガイの言葉も途中に、彼女はまた、言葉を叩きつけた。「お金なんていらない。施しなんていらない」



それからガイはパンを持ち歩くようになった。ブウサギ貴族から、クラスチェンジをして、ブウサギのフランスパン貴族、と周りから噂をされていることもしっている。ははは、と苦笑しつつ、フランスパンを彼女にさしだす。彼女の名前は。本人から訊いた訳じゃない。あの花売りの少女の名前は何だとパン屋の主人に訊いたのだ。売れ残りのパンを花と交換にもらっていく。静かな少女で礼儀正しいときいた。
けれどもガイには鋭く睨んだ眼差しを緩めることはなかった。

「……なんであなたは、いちいち邪魔をしてくるの」
「いや、邪魔じゃない。その、にパンをあげようかと思って」
「気易く呼ばないで。だから、なんでパンがどうたらって言うのよ」
「お金がいらないんなら、パンなら受け取ってくれるかなって思ってさ」

ばっかじゃないの。とはいつも怒っていた。ガイのパンを彼女が受け取ってくれたことは一度もない。フランスパンは家に持って帰って、ガイの翌朝の朝食となってしまうのが常だった。一日ほうっておいたパンはちょっとかたい。

変な人だな。とが呟いた言葉は、ちょっときかないふりをしておいた。あんたがいると、女の人に花が売りやすくっていいね。と彼女がぶっきらぼうに言った言葉には苦笑した。



、今日はリンゴパイにしてみたんだけど、食べないかい? うまいぞ」
「いらない」
「じゃあまたこれも、俺の明日の朝ごはんだなぁ」


はははっと朗らかに笑うその男を見て、こいつって変な奴だなぁ、とは思う。自分がいくらぶっきらぼうな言葉をはなっても、怒っている姿を見たことがない。貴族なのに。生まれがちょっと人よりもいいという程度で鼻にかけて、いい暮らしをして、苦労もなにもない人間の仲間なはずなのに、こいつは怒らない。(………変なの) 彼がブウサギを散歩させている姿を見て、本当にこいつ貴族なのか、自分の勘違いではないか、と何度か頭をひねらせた。
けれども彼の着る服も、身のこなしも、見ればわかる。自分とは生まれが違う人間だ。

(そういえば、こいつの名前ってなんだっけ)

爽やかな顔付きできらきら光る金髪男。名前なんて知らない。訊いてないし、名乗ってないから当たり前だ。それなのにいつの間にかこいつはの名前を知っていたけれども。
、ブウサギパンというのが発売したらしいぞ。中身はなんだろうな」「……ジャムじゃないの」「なるほどそうか。しかし想像するとグロいな」

変なやつだ。
(名前、訊いてみようかな)

別に仲良くなろうと思っている訳じゃない。ただ、お前とか、おいとか。あんたとか。そんな呼び方は不便なだけだ。別に他意はない。訊いてみたっていいかもしれない。そう思って、はいつものごとく、ブウサギを従えて噴水に腰掛ける青年を振り返った。「ガイラルディア様! こんなところにいらっしゃいましたか!」 はぴくりと肩を震わせた。自分が呼ばれた訳ではない。けれどもこちらへと声をかけられた。ガイラルディア様。

「ん、ああ、どうした? ジェイドの散歩中だったんだが」
「いえいえ。急にピオニー様が、ジェイド達の頭をなでたいと駄々をこねはじめまして」
「ぶひー」
「お、サフィール、お返事か。えらいな」

ピオニー様。
はぱちくりと瞬きを繰り返した。空のように真っ青で、きりりとまとめ上げたその服装の意味くらい、だって知っている。軍人だ。偉い人だ。そしてその人にガイラルディア様と、様、と、彼は呼ばれていた。

軍人はふいとへ目を向けた。“ガイラルディア”と、を見比べて一瞬、眉をひそめた。そしての腕にかけられた、バスケットを見て納得したように頷いた。「ああ、ガイラルディア様、花を買っていらしたのですか。誰かへの贈り物ですか?」


カッとの頬に熱がこもる。
恥ずかしい。

何故そんな感情を持ったのか、自身も理解ができなかった。けれども一瞬のうちで、自身の胸の中が頭へと飛び込み複雑な色合いをする感情をひっつかんだ。彼と、“ガイラルディア様”と、みすぼらしい自分が同じくこの場にいることが恥ずかしく感じたのだ。

何気ない一言だったのだと理解していた。けれどもだからこそ、真実をとらえていたのだと思う。(貴族なんて)たかだか花売りの自分が、彼と対等な関係で話しているなどと誰もとらえることはしない。パンを恵んでもらっている小娘だと思われるのが関の山だ。ガイラルディア。なんて長い名前だろう。きっと彼はもっと長く名前が続くに違いない。ただのの自分とは比べ物にならない。

「ああ、じゃあすぐに向かうよ」
「はい。よろしくお願いします」

が唇をかみしめている間も、彼らが気づくことはなかった。ただサフィールと呼ばれたブウサギがぶひっと悲しそうな声をあげただけだった。去っていった軍人の背中を眺めて、「それじゃあ、俺はこれで」と“ガイラルディア”は立ち上がった。「ブウサギパン、買ってくるよ」そう言って朗らかに微笑んだ。

「いらない」
「ん?」
「いらないって、初めっから言ってるだろ……!」

バスケットごと彼に投げつけると、花弁がぱっと周りに散った。バウンドしたバスケットは、サフィールの頭の上にすぽんとのっかる。「ぶひ?」“ガイラルディア”は驚いたような目でを見つめた。は唇をかみしめて、何か飛び出そうな言葉を飲み込んだ。そしてそのまま逃げた。

逃げたくせに、彼が追ってきてくれないだろうかと期待する自分がいた。訳ありげにバスケットまで放り投げて、追ってきてくれないかと心の底で叫んだ。けれども言葉にしなければ伝わらないことくらい分かっている。彼は“ガイラルディア”様であって、決して自分と対等な関係ではない。(だから貴族なんて、嫌いなのに!) 情けなくなるだけだ。

けれども彼と話していると、まるで同じ人間なのだと錯覚する。そんなの間違いだ。貴族と平民は同じ人間ではない。同じ生き物であるはずなのに、違うのだ。そんなの幼いころから刷り込まれてきた記憶じゃないか。(なのに)
は、溢れる息を飲み込んだ。息ではない。嗚咽だった。(くるしい)

(胸があつい)

「おおい、、速い、待て!」

ふと聞こえた声に、は瞬きを繰り返した。そして腕を大きく振り上げながら振り返った先に見覚えのある“ガイラルディア”様が、ブウサギ数匹を連れて走る。はぎょっとした。何事かと跳ね上がった。そしてそのまま木の幹をのぼり、枝に腰掛けるようにして彼を見下ろす。青年は「君は猿か何かか」とあきれたような声を出して、「降りておいで」と手のひらを伸ばした。その腕にはが投げたバスケットがかかっている。

ぶひぶひとブウサギが鼻をならした。そしてそのバスケットの中に入っていた、本日のパンを一口もそりと口にする。

「あああー! こ、こら!」
「ぶひー」
「満足そうな顔をするな! ああもう、お前らが餌以外を食べると怒られるのは俺なんだぞ?」
「あの、下でほのぼの会話しないでくれる?」

ん? と彼は首を傾げて、ほらほら、ともう一回に手を伸ばした。「今日のにあげる分はなくなっちゃったな。わるい」とほほ笑んだ。

「ピオ様とか、なんとかとかいう人のところに行くんでしょ。さっさと行きなよ」
がおりてきてから行くよ」
「職業意識がたりないね」
「そうだな。あとで叱られてくる」
「ばーか」
「失礼だなぁ」
「あんたは意味がわからない」
「そういうも、何で木の上に登っちゃうのか、俺にもわかんないな」
「“ガイラルディア”様」

ん? と、彼は首を傾げた。「それ同情でしょ。気分悪い」
彼はへと手を伸ばしたまま、固まった。言ってはいけないことを言った。感情を叩きつけるような言葉だったと後悔しても遅い。ただブウサギがぶうぶう叫んで沈黙をなくしてくれることだけが救いだった。ぶうぶう。逃げてしまいたいのに、彼がそこからいなくなってくれないと降りることすらできない。

「あ、あああー、そう見えたかー」
ただの予想外にも、彼は恥ずかしげな声を出した。伸ばしていた手を折りこみ、頭をひっかく。「違うっていうか、その、あー」どうにもはっきりしない。は口をつぐみ、猫のように体を枝の上でまるめた。「下心はあったことは否定しないんだけどさ、俺、その」彼はどこか言いづらそうに口をもごもごさせた。

「俺、根っからの貴族って訳じゃないんだよ。いや、一応生まれは貴族だけど。色々あって、一時期みたいな、いや、よりもひどい生活を送ってたことがある。まあ、すぐに大きなお屋敷の使用人になったから、そんなに長い間じゃないんだけどな」

は片目をすがめた。よくわからない。彼が嘘をついているようには見えなかった。けれども信じがたい話だ。

「ほら、そんなとき鏡なんて持ってる訳ないだろ? だから湖で自分の顔をのぞいたときさ、ものすごく荒んだような顔をしてて、自分で驚いたんだ。ペール、ああ、一緒に旅してたやつなんだけど、そいつも昔とは随分変わったことに気付いて」

不幸を自慢している訳ではないことに、すぐに気付いた。多分本当のことなんだろう、とわかった。
“ガイラルディア”はひどく言いづらそうに片手で顔を覆う。そしてもう一度を見上げる。「だからその、俺と君がとても似ているなと、まぁ、勝手に思ってしまった訳で」
ごめん、失礼なことしてたな、と彼は困ったような顔をした。何が失礼なことなのか、には分からなかったけれど、彼がそう思うのならばそうなのだろう、と納得した。


はもう、何に対して怒っているのか、腹が立っているのかわからなくなった。おそらく、と自分で気づく。自分は怒っても、腹を立ててもいない。ただ、すねているだけなのだ。
「あんた、名前は?」

しっかりとした色合いを出すことのない感情を説き伏せるように、は呟いた。彼は「ん?」と首を傾げた後、言葉を返す。

「ガイラルディアだよ」
「もっと長いでしょ」
「ガイラルディア・ガラン・ガルディオス」
「長い」
「じゃあガイでいい」


ちがうな、と“ガイ”はごちる。

「ガイって呼んでくれ」

    ガイ?」
「そう。だからもう降りてきてくれないか? 

はすとん、と飛び降りた。の小さな体を、ガイは簡単に抱え込んでにっこりとほほ笑む。「つかまえた」

は、なぜか自分自身の頬がかっと熱くなるのを感じた。うるさいな、と彼の手をたたいて、ぶひぶひ鼻を鳴らしているブウサギの元へと駆け寄る。そしてじっと睨む。「ほっといてくれ」「ほっとけないなぁ、みたいな可愛い子は」「馬鹿じゃないのか」

そんなことないよ、とガイは表情をゆるめ、ブウサギの首についたリードをへと一本わたす。「それじゃあこいつらをピオニー様のところへつれていかないといけないな」とにんまりして、てこてこ歩いた。呆然としていたを振り返り、ほらおいで、と手招きする。

、明日は何のパンがいいかな」
「…………噂のブウサギパンをくいちぎってやりたい」
「ぶ、ぶひっ!?」




2011.02.11
back