*短い、なんでも許せる人向け




私はぴたりと彼にくっついた。顔をこするように近づいて、ちょんと鼻の頭を当てて、見つめ合った。なのに彼は何も言わない。いつものことだ。わかっている。けれどもよかった。何にも言わなくてもよかった。彼のそばにいることができたら良かった。エメラルドよりも少し深い色をした彼の瞳は、ほんの少し細められて、いつもどこか遠くを見ていた。私は彼の隣に座って、ぽすりと体を寄せ合うことができたらそれでよかった。いつか彼はどこか遠くに行く気がする。気のせいかもしれない。けれども気のせいではないかもしれない。

彼はこの街で生まれた。小さなころに父をなくした。きっとみんな同じだ。親を知って育つものは、ひどく幸運だった。たとえ僅かな間であるとしても、彼は幸運だった。私にはいないから、それがどんなものなのかはわからない。けれども、一人で生きていくことができた。裏路地で餌を見つけて、必死で食べて、丸まって眠る。生きることに必死だった。そうじゃないと、生きてなんかいけなかった。

(彼がずっといてくれたらいい)
そう思っていた。なのに駄目だった。彼は旅立ってしまった。私は二人で座っていたはずの場所に、一人で座った。じっと一人で座っていた。

(泳ぎがへたくそなくせに)
水は嫌いだ。ずっと前にそう顔を上げて、彼は喉を唸らせた。(なのに、旅だなんて) 遠い場所に、海という場所があるという。彼が嫌いな水がたっぷりあって、塩っ辛くて、怖くて、でも綺麗な場所だという。(溺れちゃったらどうするの) 悲しくなった。でもこの悲しさの半分は心配で、残り半分は自分のための気持ちだった。


そうして私は眠った。苦しい声を飲み込んで、ただ眠った。(行かないで) そう私が言ったら、彼はどうしたんだろう。ちょっとくらい、困ってくれただろうか。少しくらい、こっちを振り向いてくれただろうか。(行かないで) 夢のなかで、私は彼と鼻の頭をこつりと合わせた。いつもみたいに、顔をすりあわせた。




、元気がないね、と仲間が私に声をかける。当たり前でしょ、なんて声を返すことも面倒で、私はほんの少し、瞳を細めた。きっと彼みたいな瞳だった。仲間はちょっとだけ白い歯を見せて、くしゃみをするみたいに笑った。大丈夫だよ。それからゆるく、口の端を広げた。あいつは、ラピードはちゃんとうまくやってるよ。


当たり前でしょ、と今度はちゃんと尻尾を振って返事をした。そんなの、当たり前に決まってる。
あの人は、きっとうまくやっている。





2013/03/29
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