なんでこうなちゃったのか、ああなっちゃったのか。ヒカルは時々考える。じいちゃんの蔵で、碁盤を見つけた。それが最初だ。それからあれよあれよと碁の神様だが幽霊だか知らないが、よくわからない奴が背中にくっつくことになって、気づいたら自分自身もそっちの道に進んでいた。あれよ、あれよとプロになって、どんどん前にいきたくて、ときどき立ち止まって     「なにやってんだろな」

ときどき思う。これって不思議なんだなと。平安時代のおばけがはたはた扇子を片手にして嬉しげに烏帽子を振っている。「おばけっているもんだなあ……」「え? おばけ?」

どうなんでしょう、わかりません、と言いながら首を傾げる髪長の男を横目でみた。小学生のときには思いつかなかった言葉だが、おそらくこれはあれだ。シュールだ。お前がわからんとか言うな。「オレって、レイカンとかあったりすんのかな。あんまり深いこと考えてなかったけどさ。でも、佐為以外の幽霊なんて見たことねーや」「私も見たことがないですねえ」

一応千年生きて? 死んで? きてるんですけどねえ、と朗らかに碁盤の上に石を置いたのは、数日前のことである。「おわっ、おま、くそ、アーッ!」「ヒカルって、相変わらずツメが甘いときがありますよね」


***


しくしくしく、と道の端で、女が泣いていた。


***

こっちに背中を向けて、電信柱に頭をくっつけるようにして丸まっている。なんだか変だ、と思うのは彼女が裸足で、ついでにパジャマだから。うわあ、とヒカルは後ずさった。見ないふりをしよう、と思うのに、「ヒカル、ヒカル、ご婦人が」 気分かどこか悪いのではないですか? とヒカルよりもでかい図体のくせして、おろおろと彼の周りを浮遊する彼に、頭の中で返事をする。いやいや、これ見ちゃだめやつだかんな。

「見ちゃだめ? どういうことですか。あの……ほら、きゅうきゅうしゃとか言うものを呼んであげた方がいいのでは。そこまでいかずとも、声をかける程度でしたらいかがでしょう」
(アウトだアウト。こういうのはすかさず静かに通り抜けるのが正解なんだよっ!)
「ヒカル!」

なんてひどいことを言うんですか、ときーきー、悲鳴をあげて地団駄を踏むものだから、思わず叫んだ。「うるせー!」 ぱちん、と振り返った女と目が会った。(やべえ) うっかりしていた。佐為、このやろう、と頭の中で呟くのに、言われた本人としては、きょとんと瞬いているだけだ。


「あの」
案外、声ははっきりしていた。窺うような瞳のくせに、口元はしっかりと横に引き結ばれていて、彼女はゆっくりと立ち上がった。ぺたぺた、と素足が寒々しい。(……ん) おかしい、と思った。なにがおかしいのかはわからないが。「もしかして、私のこと、みえてたり……」 しませんか、しませんよね。やっぱり無理ですよねえ、と自分自身へツッコミを入れているのか、ぺしんと一つ頭を叩く。

「いや見えてるってか」
こいつはなにを言っているんだろうっていうか。「もしかして今、会話が成立しました?」 個人的には若干成立してないけども。「あ、やっぱり無理ですかね……」 ペチン、と自分の頭へのツッコミ二回目。


「……ヒカル、この方は一体なにを言ってるんでしょうか……?」
「だから! おまえが! 関わらせちゃったんだろー!!?」

わたし、まったくわかりません。と言う風に、ふるふる首をふる烏帽子男にツッコミをいれた。その瞬間、「ひゃ!!」 いきなり大声を上げる中学生なんて恐ろしすぎる。上がった悲鳴に目をむけて、しまった、と口元に手のひらを当てた。佐為と付き合って、これでも結構長くなっている。最初の方こそやってしまった間違いだが、最近はほとんどなかったのに、人間気を抜くといけないらしい。

「え、烏帽子?」

お着物の方がいらっしゃるとは思ってましたが、と彼女は両頬に片方ずつの手のひらを置いて、あんぐりと口元を開けた。「すごいですねえ……」 そういえば、びっくりした悲鳴というよりも、嬉しげな声だったかもしれない。
そのとき、やっとこさ気づいたのだ。おかしいと思った理由に。「影……ないん、ですけど……」  ぴたぴたと白い指先には、あるはずの影がない。にゅっと自分の影が伸びていた。その向かい側で、彼女は一瞬ふわふわと笑って、そうした後に、まるで照れたように瞳を逸らして、顔をくしゃりと崩した。「あの、なんていうか」 ぽりぽり、と頬をひっかく。

「私、幽霊、みたいな……?」








心霊現象、どんとこい。
嘘です嫌です勘弁してくださいこういうのは一人でも十分すぎるほどでして、二人も三人も増やす必要なんて全然ないんです勘弁してください。という言葉を叫ぶ前に、「人と話すなんて、久しぶりですよー!」 なんて感動に瞳を光らせる明るい姿を見ていると、逃げるにも逃げられない。とりあえず地面に一人立ちながら、電信柱とコンンチハと傍から見れば会話している光景は勘弁してください、ということでそそくさと近くの公園へ移動させて頂いた。地縛霊とか、そういうものではないらしい。

真ん中に自分、右に幽霊、左に烏帽子。寒空の中、三人そっとベンチに座って暖をとる、と見せかけて実は真ん中にはヒカル一人である。なんかもうやだ。「あの……私……気づいたら……死んでまして……」 とりあえず身の上話が始まったらしい。「気づいたら……なんという……」 ヒカルを乗り越えるように、佐為が身を乗り出して、幽霊少女の話をきいている。興味津々だ。もう自分、いなくてよくね? っていうかこの配置おかしくね?

「誰に話しかけても気づいてもらえないし、眠くもならないし、お腹もへらないし……、すかすか透けちゃうし……」 うるり、とまた彼女の瞳が滲んでくる。そういえば、ベンチにもしっかり座っているわけではない。若干、台座部分から腰のあたりが浮いて、空間ができている。つまりこれ、(空気イス……?) 幽霊って根性いるのな、とヒカルは頷いた。佐為は知らん。

「眠くなるどころか、夜になると若干テンションあがるし!」 幽霊は夜行性なのか、と新たな知識が増えていく。「わかりますわかります」 わかるのかよ。「とりあえず、泣くしかやることないし、街中でするんはなんかやだし! せめて道の端って思うのに、お散歩わんこがマーキングしてくるし!」 とりあえずもうなんでも悲しい年頃らしい。
「しらねーよお」


っていうかオレ、もう帰っていいだろうか、なんて思っても、ひとでなしとばかりに睨まれるものだから、それもできない。ふひい、と一つ、ため息をついた。「てかさ、おばけってんならさ」 ベンチの背もたれが、パジャマのお姉さんの身体向こうに透けているけれども、別にそれが怖いなんて思わないのは、きっと烏帽子のお化けとの付き合いが長いからだ。「オレ、こいつ、佐為とお姉さん以外のユーレーなんて見たことないけど、なんか意味があるんじゃないの? こいつなんて碁をもっと打ちたいとか、そんな理由でこれだし」

思い残しがあるんなら、さっさとなんとかしたらいいと思う。そうヒカルがつぶやくと、彼女は僅かに瞳をゆるめた。そうして、ずるり、と鼻水をすすりながら、片手で手のひらをかくす。ちなみにやっぱりスケスケ手のひらである。「思い残し……かあ……」「うん……」 佐為みたいに、まさか千年も離れた人間ではないことくらい、格好を見ればわかる。「パジャマだし、病気……とか?」 気づいたら死んでいた。そう言っていた。

うん、と彼女は静かに頷いた。
「私、パジャマなのは、家でゴロゴロするのが基本好きで……怠惰に生きていくことが好きすぎて、今もこんな格好なんだと……」
ちなみになんで死んだのかはまったくもって覚えておりません。


最悪すぎた。









「あ、進藤くーん、佐為さーん!」
今日もげんきー!? なんて嬉しそうにこっちに手のひらを振ってくる。「げんきーい……」「ああ、さん、お元気そうでー」「死んでるけどね!」

死人ジョーク、今日も冴えてる。なんかこう、頭が痛い。
まあいいけどね。どうぞおばけどうし、親睦を深めてくださいというわけである。【自称】怠惰すぎて死んだ彼女は、相変わらずパジャマのままで、ふわふわと宙に浮いている。初めこそしくしくしながら日々泣くことができませんのでと鼻をぐずらせていた彼女は、話す相手がいるんなら、泣いてる場合なんかじゃありませんしと案外明るい。

「でもなんていうか悩んじゃうんだけど、私、寝るのって好きなんだけど、道端で寝るのってちょっとねえ。他所様の家も気を使うし」 お家がある佐為さんはいいなあ、と羨ましげだが、別に開いているホテルだか留守中の民家だかにいけばいいんじゃないかと思うのだけれども、個人的にそれは許されないらしい。

「進藤くん、どっかに行く途中なの?」
「…………」
「えっ、シカト!? 中学生男子怖い!」
「ヒカル、いけませんよ、ちゃんとお返事しなくては」
「…………佐為ならともかく、さんと会話するにゃ、声ださなきゃいけないじゃん……オレ、傍からみたらひとりごと言う危ないやつだろ……」
もうやだこのひとたち。

ヒカルは今から碁会所ですよ、碁会所! よくわからないけど渋いねえ! 進藤くん、プロなんだよねえそういえば! まあ私の方が強いですがね、佐為さんは長生きさんだもんねえ! ときゃっきゃと幽霊同士の会話は楽しそうなので、できればそのまま会話を続けて、こちらに話をふらないでいただきたい。

「佐為さんは、碁っていう未練があったんだよね。私、そんなのほとんどないんだよなあ」
未練があるから、こんな風に長い間残ることができるんなら、私なんて、いきなりパタッと消えちゃいそうだね。

ふとした会話だ。ちらりと視線を彼女に向けただけで、それだけだ。特に深い意味があるなんて思わなかったし、そんなことより、さっさと碁石を握ることの方が重要だったからだ。








佐為が消えた。
いなくなった。

いなくなるなんて思わなかった。ずっといるもんだから、これから先もそうだと思っていた。
元の時間に戻りたい。そう思うのに、そんなこと、できるわけがない。苦しくてたまらなかったときがある。今もそうだけれども、前よりマシだ。彼に会う方法が分かったから。オレが碁を続ければいいだけだから。

「あ、進藤くん、おひさしぶりー!!」

この頃全然会ってなかったもんね! と明るい声はいつものことだ。黄色いくまさん柄のパジャマを着て、裸足でぺたぺた音がなるみたいに道路の上を歩いてくる。「さん」 少し彼女と目線が近いのは、きっとヒカルの背が伸びたからだ。「佐為さんは?」 一緒にいないの、珍しいね。言わないでほしいと思っていた。彼女に会ったらそう言われる。だからきっと会わないようにしていた。でも違った。


ぽろりと一つこぼれた涙は、悲しくてじゃない。
「えっ、進藤くんどうしたの」
お腹いたいの、なんて見当違いの言葉を出して、よしよし、と撫でられもしないのにヒカルの頭をなでてくる。佐為がいたことを知っているのは、彼女だけだ。

saiと言う名前の強い棋士がいた。彼の碁は、どこにでもあふれている。けれども、本当に、佐為という人間がいて、ここで笑ったり怒ったり、囲碁をしたがったり、傘にビックリしたり、そんな人間がいただなんてことは誰もしらない。「佐為さん、いなくなっちゃったの?」 言葉の断片を拾って、はヒカルの隣りに座り込んだ。ずっと前に、佐為と、ヒカルと、彼女と三人できゅうきゅうにベンチに座ったその場所は、すっかり間があいている。


「未練があるっていってたのにね。それとも、それがなくなっちゃったのかな。もう本人さんにしかわからないね。でもきっとそうなんだね」
どうなんだろう、と呟くように前を見つめた。小さな子どもが楽しげにブランコを揺らしていて、その背中を友達が押している。「ちょっと前までいたのにねえ」 でもほんとは、ずっと前の人だったんだもんね、と言われた言葉に頷いた。「寂しいね」 多分、ヒカルもそうだった。

悲しいよりも、悔しいよりも、寂しかった。出てきそうになる涙は、鼻水をすすって飲み込んだ。もう中学は卒業した。「私も、いつか消えちゃうかもしれないね。でも、なんだろう、もしかしたら」

「私は死んでなくって、どっかの病院でおねんね中で、気持ちだけこうして散歩とかしてるのかも」

そうだったらいいなって話だよ、とやっぱり彼女は撫でられもしないヒカルの頭をくしゃくしゃと撫でる。「こうだったらいいなを考えよう。進藤くんには時間があるんだから」
そっと佐為が、手を伸ばしたような気がした。
ゆらゆらと遠くて、声なんて聞こえない。ぽとん、と水が溢れる音がすると、彼の姿が揺らめいだ。慌てて、ちゃぷりと手のひらをつける。僅かに指先が増えた。でも気のせいだ。

瞳を開ければ、頭の上では葉っぱがざわめいていて、けらけらと子どもの楽しげな笑い声が聞こえる。
「いい天気だね」
「うん」

暖かい、風がふいていた。





2014/11/29
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囲碁好き某さんへ

ヒカルの碁とか、子どもの頃に流行ったマンガは今もわくわくします。
私の世代はみんな読んでましたけど、今はどうなんでしょうか。