* 一巻くらい
* 静雄が心持ち駄目な男?
* 深いとこつっこまない、このお話ではくっつきません






「ふざけんなああああああ!!!!!!」


隣の部屋から、男の人の大声が聞こえた。ワッツ、何事? と思わずアパートの壁向こうを見つめる。隣の部屋は金髪で、いつもグラサンのお兄さんだ。なんとなくお互い話しかけることはなく、目があっても会釈する程度の仲だ。(機嫌、悪いのかなあ……) 私はちょっとだけお隣さんのことを思い出しつつ、手元の雑誌をぺらりとめくった。瞬間だった。壁が粉砕した。


何を言っているのか、自分自身ちょっと分からない。けれども文字通り、大きな音とともに、いつもそこにあったはずの壁が、ドガァッ!! と崩れ落ちた。壁から拳が一本つきだして、パラパラパラ、とその残り香のように埃と一緒に小さな破片がこぼれていく。ばさり。手元から本が落っこちた。

その音にハッとしたのは、私だけではなかったらしい。壁の向こうのお兄さんが、伸ばした腕をひょいとひっこめ、「あっ」 しまった、やっちまった、というようなニュアンスで呟いた。
私はそうっと視線を上げた。丁度同じタイミングで、お兄さんもこっちを見た。ぱちり、と目が合ったお兄さんは、サングラスをつけていなかった。多分、初めてお兄さんの顔を見た気がする。
ぽっかりと開いた、部屋の壁向こうにいるお兄さんは、案外イケメンでかっこよかった。色々と混乱しすぎて、とりあえず私が最初に思ったことはそれである。




「ほんと、すんません……」

平和島静雄。お兄さんの名前はそういうらしい。そういえば、アパートのプレートにそう書いてあったような気がする。とりあえず私はです、とお返事をすると、「はあ、さん」といながら、平和島さんは心底申し訳なさそうに頭をひっかいて、床の上に正座をした。
見かけはただのヤンキーの不良さんなのだけれど、目の前で殊勝に頭を垂れている彼を見ると、別にそこまでこわい人な訳じゃないのだろうか、と思ってしまったのだけれど、視線をスライドさせれば、無残に開いた壁の穴がある。

三十センチものさしが余裕で入ってしまいそうな丸い穴を見て、一体どうやってこれを粉砕したんだろう、と私は首を傾げた。何か道具でも持っていたんだろうか。いや、壁からひょっこり突き出たあの拳は、どう見たって素手だった。「あの……」「あ、はいっ」 思いっきり現実逃避をしていた。

「その、すんません、壁の修理なんすけど、金は俺の方で払います」
「あ、そうですか、じゃあ、お願いできますかー……」

いやいや、気にしなくってもいいですよー、と言えればよかったのだけれど、どう考えたってこれはこのヤンキーなお兄さんが悪いのだし、お金を出してくれるというのなら、それに甘えることにしよう。「あ、でも、とりあえず大家さんに言わないと」 どうなんだろうか。壁を壊した経験なんてないものだから、どうすればいいのか分からない。そもそも、「これ、直るんですか……?」

どでかい穴と、崩れる断面部分を見て、思わずため息をついた。「いや、なんとか、なると思います、なんとか」「あの、でも」「だから」「いや、でも」 ブチッと何かがきれる音が聞こえた。「だから……できるっつってんだろうが!!!」 お兄さんは激しく拳を横に突き立てた。瞬間、ゴボオッと壁に拳がめり込んだ。私はあの壁が壊れた理由を、今さらながらに理解した。平和島さんは、壁に拳を突き立てたまま、ぽたぽたと汗をこぼした。ゆっくりと拳を引きぬき、自身の膝の上に乗せる。見事に第二の穴が開いていた。

彼はぴくぴくとこめかみを動かしながら、静かにうつむいた。そして、「すんません」とまた謝った。どうしよう。怒っているのか、反省しているのか、謝っているのか全然わからない。「あ、いえ……」 なので私は顔を引きつらせながら、ゆっくりと手のひらを横に振った。「よくある、ことですし……」 どうフォローしていいかわからず、私は適当なことを口走った。その気配を感じたのか、ピシッと再び平和島さんのこめかみに怒りマークが浮き出た。ひいい、と一二歩後ずさった。


。高校に入学、一人ぐらしをして数ヶ月。
バイオレンスなお隣さんの存在を認識した瞬間だった。




結局、大家さんへの報告は後回しになった。がっくりと首を落としていた平和島さんからのお願いで、つまり彼の言い分を要約すると、今までも何度も色んなアパートの壁やら階段やらポストやらと粉砕し続け、今また報告すれば、今度こそ宿無しになること必須である。とにかく、自身の次のアパートが見つかるまで、報告は待ってほしい、とのことだった。

私としても、(見かけと行動は危険だけど)お兄さんを寂しい路頭ぐらしをさせる訳にはいかないし、それじゃあ壁が直るまでなら、となったのだけれど、お兄さんのお財布の都合の問題で、お金がたまるまで、しばらくの間待って欲しい、とのことだった。いや、実際に彼がそう言った訳ではなかったのだけれど、自分の部屋に戻って、それじゃあ修理代を、とお財布の中を確認する彼の顔が、ひどく渋い顔をしていたことに、50センチの大きな覗き穴から見てしまったのだ。

とにかく、大家さんにはひどく申し訳がないのだが、お兄さんのお金がたまって、ついでに次の定住先が見つかるまではお互いこのままにしておこう。そう二人で決めることにした。うら若い女子高生として、大きな穴が開いたヤンキー兄ちゃんの隣に住むことは、案外危険なんじゃないか、と気づいたのは、お兄さんとの相談が終わって数時間経ってからだった。「あっ、すみませーん、やっぱりさっきのはなしでー」と言おうにも、もう決まってしまったことだし、お金はとりあえず私が出すんで、壁だけ先に直しましょう、となっても、所詮は親の仕送りでキリキリしている女子高生が、いきなりそんなにポンとお金を払える訳がない。

まあでも、壁に大きな紙でも買って、ぺたりと貼りつければ、問題ないかな、と適当に判断して、すやすや布団の中で眠った。朝起きたときに、そんな警戒心もなく、眠ってしまって、下手をすると貞操の危機だった、と気づいたのだけれど、やっぱり問題はなかったし、そもそも平和島さんの馬鹿力があれば、壁なんてあってもなくても、最初っから同じである。だったらまあ問題ないか、と判断して、私と平和島さんは変わらずお互いに無関心な隣人を続けることにした、のだけれど。




じじじじじじじじ
じじじじじじじじ
じじじじじじじじ


壁の向こう側から、はっきりすぎる音量が聞こえるのは、一部ぽっかりと穴が開いてしまっているからに違いない。私はモグモグトーストをいただきながら、そっと壁向こうを窺った。ずるずるー、とコーヒーをすする。じじじじじ。どう考えたって目覚ましの音だ。それにしたって、随分な音量なのに、平和島さんはまだ起きないらしい。「いや、お部屋にいないのかな……」 そうかな、そうかなー、とお皿をシンクに運んで、さあ洗い物だと蛇口をひねったとき、ボキャア!! と何かが破壊される音が響いた。思わずお皿をおっことした。

私は手のひらの水をはじきながら、そそくさと穴が開いた壁へと近づいた。白い紙が、ガムテープでペタペタとはっつけられている。「…………へいわじまさーん?」 声をかけてみた。耳をピタッと壁にはっつけた。返事はない。「平和島さーん、朝ですよー」 やっぱり返事はない。ごろん、と何かが転がる音が聞こえた。

うーん、と私はしばらく考えたのち、壁からガムテープを外した。四角い紙の、三枚テープを剥がした最後の端に目を向けて、少しだけ戸惑った後、そのまま勢い良く紙をめくった「平和島さーん」 きょろきょろ、と部屋の中に目を向ける。男の人の部屋なのだから、汚いイメージがあったのだけれど、案外そんなことはない。というか、根本的に家具が少ない。部屋の真ん中に、ぽつんと布団が転がっていて、そこから金色の頭が覗いている。「あー」 ちなみにやっぱり目覚まし時計はボロボロに粉砕されていた。


「平和島さーん! 平和島さーん!! 平和島静雄さーん!!!」
とりあえず、私は必死に彼に呼びかけた。んごーとか、あー、とか、んあー、とかよくわからない返答をし続けたのち、平和島さんはやっとのことで、ごそごそと布団から目を覚ました。そして、「あっ、よかった! 起きられたんですねー!」とにこにこ笑う私に、激しく眉間に力を入れて、思いっきり睨まれた。「…………ア゛ア゛?」 ちびるかと思った。




「…………ほんと、すんませんっした」

なんだか平和島さんには謝られてばっかりな気がする。ぴんぽん、と押されたインターホンの向こう側で、ぼんやり顔の平和島さんが、ポリポリ頭をひっかいて、ぺこりと私に頭を下げた。「あ、いえ、こっちも無作法でしたし」「いや、つーか、昨日、寝たの遅くて」「あ、そうですかー」


別に怒っていた訳ではなく、純粋に朝の機嫌が悪かっただけなのだと気づいてしまうと、なんだか笑ってしまった。けれども笑って、朝のようにアア? なんて眼光鋭く睨まれてしまうのは勘弁であるので、私は適当に頷いて、まあお互いお気になさらず、ということになった。
それから平和島さんのことは、あんまり怖くなくなってしまった。彼が人並み外れた怪力を持っていて、激しく短気だというところを除けば、ただのイケメンローテンションな兄ちゃんであると知ってしまったからだ。

こんこん、と私は壁をノックして、ぴらりと四角い紙を持ち上げ、「平和島さーん、朝ですよー、起きてくださーい」 なんて、人間目覚まし器へと変化した。ごそごそお布団から顔を覗かせた平和島さんは、「ぶっころすぞコノヤロウ」と言いたげなヤクザ顔負けの眼光を光らせたが、別に私に対して腹が立っている訳ではなく、ただ生まれつき目つきが悪いということと、朝のご機嫌が斜めという、ただそれだけの話らしく、「あざっす……」と低い声を出して、ごそごそ私の前で服を脱ぎ散らかし、パンツ一丁になった。寝ぼけ過ぎである。慌てて紙を落として、シャットダウンした。


   ***


「平和さーん、平和さーん、平和さーん」
「……なんすか、その平和さんっての」
「え、だって、平和島さんって言いづらいじゃないですか」

だから、略して平和さん、と私はにこにこ人差し指を伸ばした。平和島さんは、じっとこっちを見つめた。そしてゆっくりとグラサンを取った。ビキビキ、とこめかみがひくついている。「人の名前を言う時は、略すんじゃねえよ……」「ヒイッ! ごめんなさい平和島さん!!」 わかりゃあいいんだ、と平和島さんはゆっくりとグラサンをかけ直した。

ですよねー、すみませーん……と謝りながら、私達はぽてぽてと道を歩いた。二人並んで、一緒に歩いて、一体何をしているかと言えば、お買い物である。私の失言にて、ビキビキしてしまった平和島さんであるけれど、いつまでもこんな壁で申し訳ない、自分に何かできることがあるのならば、お手伝いしたいと言ってきたのは平和島さんの方である。

何かできることと言われても、激しく困ってしまうだけで、私と平和島さんは丸い穴を挟んでしばらく見つめ合った。それにしたって、何度見ても変な風景である。「あ、じゃあ、今日お一人さまニパック98円の卵があるんで、一緒に来てください」 言った後で、やばいこれは怒られる、と思った。けれども平和島さんは、とくに反論もなく、「わかりました」と小さく呟き、そそくさとこっちに背中を向けた。いいのか。せっかくのお休みを、そんな風に消費してしまって構わないのか。

思わず突っ込みたい気持ちになったのだけれど、本人がいいと言うのなら、まあ構わないかな、と思いつつ、私はじいっと平和島さんのパンツを見つめた。平和島さんはちらりと振り返って、「すんません、見ないでください」「あ、ごめんなさい。ついいつもの癖で」 起きたと思って着替えても、またばったり眠ってしまうのが平和島さんである。




「平和島さん……うーん、でもやっぱり言いづらいんですよねー、文字数的に」 へいわじまにゃー、と思わず舌を噛んでしまうときがあるんですよ、これって駄目ですよねえ、と私がグチグチ平和島さんの名前について文句を言っていると、平和島さんは、「はあ、ああ、おう」と適当に相槌を打っている。短気だけれども、付き合いのいい兄ちゃんだ。

「で、さんどこのスーパーなんすか」
「あ、あっちです、ちょっと遠くてすみません、へいわじまにゃん」
「…………」
「…………」

多少気まずい空気を流しながら、お互いてくてくと歩いてく。私は無言で地面を見つめた。ふと、平和島さんが顔を上げて、ちらりと私を見た。「もしかして、今噛んだんですか」 追いつめられた。

すみません、と私は顔を赤くしながら、どすどすと大股で歩く。けれども隣の兄ちゃんは私と比べてお足が長く、私が必死に歩いたところでなんの意味もありはしなかった。「予告通り噛みました。すみません」「静雄でいいですけど」「は。静雄さん」「はい」

なんだか私はてれっとしつつ、静雄さん、静雄さん、と舌の中で噛み締めた。「あ、私も、さんとかではなく、その、と呼んでいただいても」「あ、ライター落とした」「聞いてないー!」

え、なんか言ったっすか、すんません、とライターをベストのポケットに入れなおす静雄さんに、「なんにも言ってないですよ!」と私はだすだすと地団駄を踏んだ。勇気の出し損であった。







『ハーイ、しずちゃんゲンキーィ? 俺は超元気! でもしずちゃんははやくくたばってネ☆』

投函されていたハガキの裏側をぺらりとめくった瞬間飛び出た文字に、ブチッと脳みその線が何本かぶち切れた。目の前が真っ赤になれば、自分でも何が何だかわからなくなる。俺はとにかくノミ蟲を罵りハガキをビリビリに引き裂いた後、勢い余って壁にパンチを繰り出した。その結果どうなるか、自身でもよくよく理解していたのだけれど、遅かった。

隣に住んでいるというは、きょとんと瞳を大きく開き、口元をひくつかせた。そんな風にビビった顔を見ていると、思わずまたブチッとこめかみが音を立てたのだが、すんでのところで押しとどまった。が、結局また穴を増やした。


とにかくさっさと金をためて、ついでに新しいアパートを見つけることが目的だった。我ながら、申し訳ないことをしてしまったという認識は持っていた。だというのに、は特に自身を責めることはなく、「まあ開いちゃったものは開いちゃったんですから、しょうがないですよねー」とへらへら笑っているだけだった。そのへらへら笑いがむかついたので、ビキッと再びこめかみがひきつった。はササッと顔を青くして、「いやいやいや、まあ、ほら、しょうがないってのは言葉のアヤで! 綾! いや本音でもありますけど!」 どっちだよ。

はっきりしろ、とぼきゃあ、と渡されたコップを握りしめて、バキバキに割ってしまった。お互い無言で見つめ合った。冷静になった俺は、すんません、と彼女にまた頭を下げた。こうしてまたコップを弁償し、財布の中身が薄くなった。


   ***


「いやー、静雄さんのお陰で、卵がたくさん買えました! ありがとうございます!」
「別に……」

まあ、こんくらいなら、と頭を下げると、さんは嬉しげに笑っていた。たかが卵がふたパック増えたくらいで、何になるんだ、と思ったが、別にそれを言おうとは思わなかった。俺はさんのスーパーの袋を持って、いっすか、と一声かけて、タバコに火をつけた。「静雄さんって、タバコ吸うんですねー、あー、体に悪いんですよー」なんて言われて、余計なお世話だ、と思ったセリフを飲み込んで、はあ、そっすね、と適当に返事をする。「適当ですね!」とさんが言ったので、「まあ」と頷いた。彼女はけらけら笑っていた。意味がわからん。


めんどくせえ、わからん、とため息をついていると、「ああっ」と彼女が声を上げた。なんだ、と顔を向ければ、「こ、小銭がー、小銭がー」と言いながら、がま口財布を片手に、ぱたぱたと車の下に手を伸ばしている。何をしているんだ、と息を吐き出し、「ほらよ」 車を持ち上げた。

さんは真っ青になって、俺を見上げた。「あ」 やべ、とくわえたタバコの煙をくゆらせた。その間に、彼女はそそくさと500円玉を握りしめ、路上に立った。俺は静かに車を下ろして、タバコの煙を消した。びびらせたな、と思いながら、「じゃあ、帰りましょうか」と俺はそそくさと足を速めた。さんが、わずかに息を飲んだ。それだけだった。「静雄さん!」 ふと、声が聞こえた。
振り返った。「びっくりしました、でも、ありがとうございます」

へへ、と500円玉をこっちに見せて笑う彼女を見て、「そうすか」と俺は静かに呟いた。なんとなく、顔が赤くなった。


それから、静雄さんのおかげだからと、さんが飯を作って、どうぞ、と開いた穴ごしに皿に乗ったオムライスをくれた。あざっす、と俺はそれを受け取って、「どうですか? ちょっと焦がしちゃったんですけど、おいしいですか?」「苦くてうまくないです。端的に言えばまずい」「しょ、正直なご感想……!!」 

次はがんばりますー、としょんぼり空の皿を受け取る彼女を見ていると、勝手に手のひらが動いて、にゅっと穴を通り過ぎ、よしよし、と彼女の頭を撫でていた。そうした後、ぎくりと自身の手のひらを震わせた。さんが、ぼんやり俺を見た後、はは、と笑った。別にそれだけだ。俺はすぐさま手のひらをひっこめて、窓を開けた。ポケットの中からライターを取り出し、かちかち、と幾度も空振って火をつけた。



あいかわらず俺は物を壊すし、さんはそんな俺を見て、ぽかんとこっちを見上げていた。青い顔をするし、ビビるし泣きそうになるし、ときどきいらつく。けれども一日過ぎたら彼女はケロッと笑っていて、静雄さん静雄さん、起きてください、と壁の向こうからこっちを呼んだ。いちいち壁のガムテープを剥がすことが面倒になり、でかい穴は空いたまんまになって、テレビをつけてケラケラ笑う彼女の背が見えた。俺がちらりとそっちを見ていると、「あ、ごめんなさい、うるさかったですか? 静雄さん、マックばっかりは駄目ですよ、私が作りましょうか、こないだよりは上手に作れますよ」なんて笑っている。うるせえよ。

うるせえよ。
うるせえよ。
うるせえよ。


はいどうぞー、と相変わらず焦げたオムライスをこっちに差し出して、「あ、この穴、結構大きいですよねー、通れますかねー、あ、無理かー」なんて言いながら体をひょいとこっちに出している彼女に、思わずため息をついた。オムライスは受け取って、テーブルの上に置いた。そしてバタバタ穴で暴れる彼女を無視して、スプーンをくわえた。相変わらず焦げ臭かった。

「あっ、ちょっ、あのっ、静雄さっ」
「……何してんすか」
「あの、なんか、はまっちゃって」

動けないです、どうしましょう、とこっちを見上げる彼女にため息をついた。彼女の体をひっぱろうとしたとき、ふとまた手のひらが震えた。ギクリとした。壊してしまうんじゃないかと思った。大丈夫、今はいらついてない。きっと大丈夫。どうだろうか、本当にそうなんだろうか。何度もそう思って壊してきたじゃないか。

「静雄さん?」 とさんがこっちを見上げていた。俺はぐるぐる混乱した。混乱して、自身の眉間に指を置いて、ふと屈んだ。何を思ったのか、俺は彼女にキスをした。

口元を離せば、さんが、俺が物をぶっこわしたときと同じような表情で、ぽかんと目を大きくして、しばらくしてからパクパクと口を動かした。そしてだんだん顔が赤くなってきた。そんな顔を見ていたら、何がなんだかなってしまいそうで、俺は彼女を無視して、そのまま部屋の外に出た。「え、あ、ちょっ、放っておかないでー!!」 さんの悲鳴が聞こえた気がしたが、バーテン服で、ぼんやりアパートの階段をカンカン降りた。ついでに、タバコを吹かせて、ぼんやりと空を見上げた。



しばらくしてから戻ってみれば、ひどく不機嫌な顔をしたさんが、自身の部屋の真ん中で正座していた。なんとか一人で抜け出せたらしい。「ひどいじゃないですか」 怒っていた。さんは怒っていた。「私、くまのプーさん状態になっちゃうかと思いましたよ!」 絶食してダイエットして、体のサイズを小さくして穴から脱出なんて、鬼畜すぎるストーリーですよ!! と穴向こうで拳を震わせていた。ムカつくポイント、そこなのか。

俺はとりあえず、「すんません」と謝った。反省してくれたならいいんです、とさんは納得したようで、うむ、と頷いた。で、俺は何に謝ったことになってんだよ。無視したことでいいのか。っていうか、スルーか。
どうすりゃいいんだ、とさんを見てみれば、彼女と目線が合わさった。瞬間、彼女はパッと顔を真っ赤にして、ぷいっとまた視線を逸らした。

俺はそんな彼女の横顔を見ながら、少しだけ笑った。そうすると、「タバコくさいですよ、静雄さん!」とさんがぴーぴー叫んだ。「外で吸ってたんで」「禁煙もとむ!」「無茶言うなよ」


案外、上手く行きそうな気がしたんだ。
別にどんな確証があった訳ではなくって、大丈夫だと思った。
馬鹿のようにそう思っていた。


終わりはあっけないもんだった。






静雄さんが、電話に向かって怒鳴っていた。クソ蟲、とかこのノミ蟲、とか、電話口に向かって罵っていて、一体どんなお相手とお電話しているのだ、と私は興味本位にかられてしまった。だから、「静雄さーん」なんて、ひょいっと穴から体を出してしまった。それがいけなかった。

「殺す!!!」 静雄さんはそう叫んで、携帯電話をぐしゃっと潰した。文字通りに潰した。彼の潰れた携帯に、思わずうわお、と声を上げてしまった。見慣れてしまったとはいえ、やっぱり驚く。静雄さんは、そのぐしゃぐしゃの携帯電話を、またふんぬ、と小さくした。そいてイライラしたように、そのケータイを壁に投げつけた。けれども彼はうっかりしていたことに、そこは壁ではなく、元壁で、ついでにいうと、まぬけにも体を半分覗かせていた私がいた。お互い、アッという顔をした。


腕が熱かった。じんじんしていて、骨に響いた。何がなんだかわからなかった。私は腕を抱えて、自分の部屋のカーペットにうずくまって、声がでなくなった。丁度左の腕に当たってしまったケータイの残骸が私の腕に突き刺さって、ぼたぼたと血を流していた。静雄さんが、慌てたように私を見ていた。開いた穴から、にゅっと体を出して、また穴を広げて、こっちにやってこようとする彼を見て、これ以上壊さないでくださいよう、とぼんやりした頭のまま、彼にそう言ったのかもしれない。静雄さんはいつの間にか視界から消えていて、気づいたら私の隣にいた。

彼が、私に手を伸ばそうとした。けれども彼は、何かをためらった。さん、電話は、電話、どこにある、電話。そう言っていたような気がする。私はふらふら指をさした。けれどもだめだ、と静雄さんは言っていた。だから次に、テーブルの上にある携帯電話を指さした。

そこらへんから、どんどん記憶が曖昧になってきた。ぼたぼたこぼれる自分の血が怖くて痛くて、目を瞑って体を丸めた。ふと、どれくらい立ったのか、白い白衣の青年が私の隣にいた。「大丈夫、まあ、ちょっと傷は残るかもしんないけど、神経の方は問題ないさ」 そう言って、ニコッと黒ぶちメガネで笑っていた。


私は腕にぐるぐる巻きに包帯を巻いて、いつの間にか荒れてしまった自分の部屋を見回した。床とカーペットには、ぼたぼた真っ赤な血がこぼれているし、ドアは粉砕されていて、ついでにいうと備え付けの電話の受話器もバキバキに壊れていた。ケータイは画面にひびが入っていて、なんとも悲しい状況になっていた。

つまり全部、これは静雄さんがやったことだ。備え付けの電話でお医者さんを呼ぼうとしたのに、慌てて壊してしまった。だからだめだと言っていたのだ。
私はなんだか、ぼんやりしていた。ニヶ月の間はそのままだよ、と若すぎるお医者さん口元を緩めた。彼は静雄さんのお友達らしい。

それからして、すぐさま部屋の壁と、壊れたドアは修理された。修理の代金はすでに払われていたらしくて、壊れた電話の代金らしいお金もポストの中に投函されていた。腕がよすぎる修理業者さんのお陰で、私の部屋はすっかり元通りになってしまった。ただほんの少し、壁紙の色がそことは違って、真新しい。

ずきずきと腕が痛い。その日を思い出したら、ぎくりと体が震える。けれどもそれ以上に、私は何かがぽっかりしていた。何かといっても、わかっている。
私は無事な片手で、ぺたりと壁に手を置いた。こつん、と額をのせて、そのままずるずる座り込んだ。なんだか勝手に涙がこぼれた。小さな雫が、ぽたんとフローリングの上に落ちていた。
あの日から、静雄さんは消えてしまった。

私から逃げるようにして、彼は消え去った。






「静雄、お前いーかげん、事務所に居座んのはやめろよな……」

ただでさえでかい図体なんだから、ちょっとは遠慮しろ、とため息をつくドレッドヘアーの先輩に、「すんません」と俺は小さく謝った。この頃謝ってばかりだと思った。そうして静かに事務所の椅子に座り込んでいると、トムさんはため息をついてドアを開き、背中を向けて消えていった。


なんでだろう、と未だに考えていた。
なんで大丈夫だと、勝手な期待を持ってしまったんだろう。そんな訳ねぇ。長く自分の体と性格と付き合って、ああ俺ってやつは、ちょいと普通からはずれちまっているんだ、なんてことはとっくの昔に理解していたことで、ある時勇気と希望と愛に溢れて、馬鹿力のモンスターが普通の人間に変わるだなんて、そんな奇跡が起こる訳がない。いつかは必ず壊してしまう。嫌というほど分かっていたのに、また理解した。じくじくと腹が痛かった。


携帯は彼女の腕に突き刺さってて、自宅の電話もバキバキに壊して、彼女の部屋のドアノブも破壊して、ついでにまた受話器を壊した。彼女を抱えて、新羅の家に行くことが一番の近道で、さんの痛みがちょっとでも短くなるはずだった。けれども駄目だと思った。今度こそ、ぐちゃぐちゃに潰してしまうと思った。(結局、こうだ)

おそらく彼女は、俺の顔をみたいとは思わないだろう。少なくとも、俺は彼女に会いたくはなかった。会わせる顔もなかった。グラサン越しの瞳を薄く細め、ながくため息をついた。全部があのクソ野郎のせいだ。なんの意味もなく、ただ嫌がらせにかけてきた電話に、俺はブチリとぶち切れた。けれども、例え元がクソであろうとノミであろうと、結局俺がしでかしたことが変わる訳もなく、俺は考えることをやめた。考えたって仕方がない。んなこと、嫌ってほどわかっている。

金で解決できる話じゃないと知っている。けれども彼女のポストに金を入れて、パタン、と扉を閉めた瞬間、何かが終わったような気がした。俺はぼんやりと事務所の天井を見つめ、自身の手のひらを見つめた。あの扉を閉めた手のひらがこれだった。


俺はまた長くため息をついた。そしてあのアパートを引き払うことに決めた。




『浮かない顔をしてるな』

カタカタ、と打ち込まれた文章を見つめながら、まあな、と俺は短く息を吐き出して、タバコの端を噛み締めた。事務所の扉を出てしばらく、見覚えのある黒いバイクにスーツの女と目が、(……目が?)合い、俺はふと頷いた。頭がないのだから目がないと言えばそうなるのだろうが、この場合どう言えばいいのか分からない。ヘルメット部分と目が合った。これって正しいのか、正しくないのか? と考えているうちにめんどくさくなってきたので、悩むことはやめにした。

『新羅が診たっていう、って言う子、日常生活には問題なく治るらしいぞ』
「なんだセルティ、お前いちいちそれ言いに来たのかよ」

おかしいと思ったのだ、まるで待ち構えるようにして、道路に止まっていたバイクに、妙に違和感があった。セルティはしばらく何かを考えるように、手のひらを動かして、カタカタとPDAに文字を打ち込み、静雄に向ける。

『まあ、そんなところだ。静雄は? 仕事か?』
「いや、ちょっと元の家に戻ろうとしてるだけだ」
『ああ、あのアパートか。このところずっと事務所にいるんだろう?』
「なんで知ってんだよ」
『新羅から聞いただけさ』

そうか、と頷いた。それじゃ、とでも言うように、セルティは手のひらを振った。そしてバイクを踏みしめ消えていく。俺はその背中を見つめていた。音もなく動くバイクは、そこにあるのかないのか、ときどきよくわからなくなる。

俺はポケットに手のひらをつっこみ、アパートへの道を歩いた。かつ、かつ、かつ、と革靴の音が街中に響く。けれどもそれ以上に、都会の人ごみはざわついていた。平日の昼間だってのに、暇なこった、と自身を棚にあげていらついた。ちょっと時間もらっていいっすか、とトムさんに声をかけ、わざわざこんな、さんが家にいないであろう時間を選んだのだ。

数週間ぶりのアパートは、妙にくすんで見えた。(部屋にあるもんを、いくつかまとめて) どうせあるのは大量のバーテン服と、タバコと、そんなもんだ。金の方は、なんとかなるか、とため息をつきながら階段を登った。この頃はそればっかりだ。


ふと、彼女の家の前で立ち止まった。俺が壊したドアはすっかり元通りに直っていた。動かした首を前に直し、通りすぎようとした。けれどもまた俺は、ピタリとそこで立ち止まった。「……わりぃ」 そう呟いた後、結局それも自己満足なだけであると気づいて、すぐさま足を進めた。バタン、と自身の扉を開く。そしてドアノブをゆっくりと閉めた。靴を適当に脱いで、部屋の中を見回した。すっかりとふさがった壁の穴を、一瞬だけ目の端に留めて、そっぽを向いた。何か、そこを見つめることで、負けてしまったような気になった。


「どこに、しまったんだ……?」

彼女が帰ってくる前に、俺は荷造りを終えなければいけない。次に住む部屋も決まっていないが、いつまでも部屋を放置している訳にはいかなかった。今行かないと、俺はずるずると事務所に居座ってしまいそうで、そんな自分は勘弁だった。そういえば、新しい携帯も買っていない。

さっさと買わないとな、めんどくせえな。そう思ったときだった。とんとん。

ふと、俺は壁を振り向いた。しばらくの間息を顰めた。気のせいか、そう思いたかった。とんとん。
また音が聞こえた。

とんとん、と誰かが壁をノックしていた。誰かだなんて、そんなの誰だか分かっていた。俺は静かに壁から離れ、じっと壁向こうを睨んだ。とんとん、とんとん。「静雄さん?」 声が聞こえた。

思わず返事をしてしまいそうになった。けれどもグッと息を飲んだ。なんでいるんだ。くぐもった声が、響いている。「静雄さん、いるんですよね」 返事はしなかった。

俺はどうすることもできずに、ただ向こう側をジッと睨んでいた。我慢をして、彼女の問いかけが止むのを待った。でも駄目だった。俺はピカイチ我慢の似あわない男だと知っていた。「なんで、あんたがいるんだ」 勝手に口元が返事をしていた。「セルティさんに、聞いて」 ブチッと脳みそが沸騰した。丁度手の中に持っていたダンボール箱が、元の四角の形を崩した。

妙だと思った。なんであんなところに、と思ってはいた。けれどもそれはただ、新羅からの伝言を伝えるためだと思ったのだ。けれどもどうにも違ったらしい。「私が、セルティさんに頼んだんです」 ビリビリにダンボールを破いた。けれども中に入っている服まではすんでのところで思いとどまった。弟の顔を思い出した。「静雄さん、出て行っちゃうんですか」 勝手に問いかけ続ける声に、俺は返事をしなかった。「そうなんですよね」

お願いです、返事だけでもしてください、と聞き取りづらい彼女の声が聞こえる。俺はどすりと床の上に座り込んだ。どうするか、と逡巡した。けれども考えるのが、まためんどくさくなった。お手上げだった。「そうだ」 頷くように、壁に向かって声をかけた。壁の向こうで、彼女がぎくりと動いた音が聞こえた、ような気がした。

「せいせいするだろ」

何を考えて、そう言ったのかは分からない。ただ俺は、そう壁にといかけた。彼女はしばらく返事をしなかった。どれくらいか待った後に、「静雄さんが言っていることが、よくわからないです」と彼女は答えた。答えになっていなかった。「私は、こんな風にお別れになることが、寂しいと思っています」 笑ってしまった。「さん、あんた、ビビってんだろ」

そうじゃなかったら、こんな風に、壁越しの、奇妙な会話なんてしない。彼女は返事をしなかった。彼女がどんな顔をしているのか分からない。当たり前だ、ただ目の前には木の肌が映るだけだ。「びびってないです」「そうか」「嘘じゃないです」「嘘でも、嘘じゃなくても、どっちでもいい」 なんて言ったって。「俺がビビってんだ」

あんたがビビってなくても、俺があんたに近づくのが怖いんだ。

人は簡単に壊れる。あっけなく消えていく。おれに近づけば、粉々に砕けて消える。今さらながらに理解していた事柄を、ゆっくりと思いだした。不思議と、イラついてはいなかった。ただそういうものなのだ、と脳髄で認識していた。「話はそんだけだ」と俺は立ち上がった。敗れたダンボールの残骸を集めて、買っておいたビニール袋に集めていく。全部を入れ終わって、ついでにいくつかの箱を押入れから出して、ひょいと片手で抱えた。別にもう、それだけでいい気がした。荷物だとかなんだとか、そんなのどうでもいい。もともと何も持っていない。端から大切なものを壊していく俺は、気づいたら多くが消えていた。

こんな風に生きていくんだと思った。
大切なものから、少しずつ一歩距離を置いて、ちらりと羨ましげにそれを見て、めんどくせえとつぶやいて、なんてことのない顔を作る。けれどもそんな自分にイラついて、やめりゃあいいのに周りに当たり散らして生きていく。ストップのきかない体を引きずりながら、ぼんやり歩く。そう言えば、まるで自分が被害者ぶっているようで、またむかついた。けれども違う。俺は壊す側で、これからもそっちの側に居続けて、恨まれる側の人間だ。

壁向こうの彼女はその反対だ。ダンボールを抱えたまま、振り返った。「さん」 未だに、彼女が壁の向こうにいるのかは分からない。彼女の音は、もうぴくりとも聞こえなかった。けれども別に、どっちでもいいと思った。聞いていても、いなくても、どっちでも。「悪かったな」

やっぱり自己満足の言葉だ。


歩きなれた廊下を、進んでいく。あと少し。事務所の人には申し訳ないが、もうしばらく世話になろう。そう考えて、瞳を落とした。「待ってください」 どんどん、どんどん。壁の音が移動する。おそらく、彼女も体を動かしてこっちに向かってくる。ときどき壁の音が聞こえないのは、家具か何かがあるからだろうか。「待ってください、静雄さん」 半分泣いているような声だった。いいや、嘘だ。「まっ、まって、ください」 多分、壁の向こうで、ぽろぽろ彼女は泣いていた。


ピタリと俺は立ち止まった。嬉しいと鬱陶しいと、むかつくいらつくの全部が混じり合って、奥歯を噛み締めた。「怪我、傷は残るけど、治るって言われてて、それで」 だからなんだよ。「大丈夫……わかんない、大丈夫じゃないかも」「俺、そういういい加減な話し方いらつくんすけど。怖いなら怖い、嫌なら嫌ってさっさと言えばいいんじゃないすか」

違うんです、そうなんだけど、違うんです。「どっちなんだよ」 ごめんなさい、怖いです。「知ってんだよ」 でも、行かないで欲しいんです。「意味がわかんねぇよ」


なんなんだよ。
喜んだり、悲しくなったり、自身の心が忙しい。いっそのこと、壁を叩き壊してやりかたった。けれどもすぐさまそれを実行しない程度には、俺はいらついていなかった。両方なんです、と彼女は言った。怖いけど、静雄さんがいなくなるのは嫌なんです。「そうかよ」、と俺は吐き捨てた。


「俺は、多分またあんたを壊すぞ」 傷つける、ではなく。「今度こそ、殺すぞ。そんなの、俺だって勘弁だ」「私だって嫌です」「じゃあどうしろってんだ」「もう一回」 静雄さん、もう一回だけ。




私達、ただのお隣さんに戻りませんか








私の提案に、彼がどう納得してくれたのかは分からない。
あなたのことは怖くないから、一緒にいましょう。そう言う勇気は私にはなかった。彼は彼が好き好んで力を振るっている訳ではなく、そんな力を自分自身が嫌っていて、なのにどうしようもないってことを知っていた。

お互いの矢印は、ゆっくりと向き合った。けれども私は静雄さんを怒らせることを言ってしまうし、そうじゃなくても、ふとしたときに怪我をしてしまう。そんなことに目を瞑ることは、怖かったし、何かが違うような気もした。
だから、穴がなくなってしまった壁に向かって、こんこん、と私はノックした。「静雄さん、静雄さん、プリン作りすぎたんですけど、いりませんか」 ペタッと壁に耳を当てる。「まじすか。ほしいっす」「じゃあ、外に出しときますね」

がちゃんと家のドアを開けて、彼のドアの前に、プリンの容器をことんと置いた。ドアを閉めて、隣の家のドアが開く音を確認した。「ありがとうございます」、という静雄さんに、「いえいえ」とお返事した。

私達は、一番最初の、お互い顔も見えないお隣さんに戻ることにした。結局、それが一番いいお互いの距離で、怖いけれども、一緒にいたいと思う気持ちはごまかせなかった。
もう二人で買い物に出かけたり、開いた穴から顔を出して、キスをされてビックリすることもない。悲しくないと言えば、また嘘になる。

けれども私はやっぱりコンコン、とノックして、「朝ですよ、静雄さん」と彼に声をかけて、鈍い声で返事をする彼に、くすくすと笑うのだ。


「静雄さーん?」
「あー……?」



→おまけ(二巻以降に普通にくっついた)


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