| 藤代って、悩みとか、そんな事ないのかなぁ、と考えて、一週間ぐらいが過ぎた。 第6話 あなたの事が。 2 相変わらず、藤代の隣にいたり、いなかったり、いきなり俺の部屋のドアへとにゅにゅっ、と顔をつっこんで、『こんにちはー』なんて台詞をいうオネーチャンに、訊いてみた。 藤代くんって悩みあらへんの? みたいな。 笠井と同じように、呆気にとられたような表情を、した後、『どうなんだろうねぇ』と可愛らしく首を傾げたけれど、何故だろうか、所々仕草がおばさん臭い気がする。多分それいったら怒られる。 近づく文化祭に、とうとう授業も短縮されて、午後いっぱいは教室の中で延々と俺たちはこもってぶんぶんトンカチを振り回し、裁縫針をチクチクと刺し。 何もおかしくないってのに、ゲラゲラと笑い始める周りのテンションに、ああみんな極限状態になっちゃってるなぁ、と無心で針を動かした。 ちなみに俺が一枚仮縫いをし終わる前に、笠井は三枚ほど終了させている。 「あー! 板がたりないー!」 教室の中に、響いた声に、誰もかれもが視線を藤代へと向けた。なんだなんだとごそごそ集まる中で、薄いベニヤ板数枚を生徒会から受け取り忘れてしまったらしい。 バッカじゃねぇのさっさと頭さげてこいよという声に押されて藤代はのそのそと俺の横を通ってドアの外へと移動しようとした。 上げてた視線を手元へと下げて、笠井に怒られるさっさとやるか、としたその時だ。 体のバランスが崩れた。違う。針を持っていない方の脇肘が、力強く掴まれて天井を向いている。体の左半分が浮いて視界がほんのちょっぴり斜めになってしまっている。(あれ) 「一人じゃ辛いから一緒にいこーぜー」 なんともないような声で、そいつはいった。 大きなベニヤ板の端と端を藤代と持ち上げて、一人じゃ辛いから、の言葉の意味がなんとなく分かった。こんなでっかくて平べったい板を一人で持とうなんてちょっと無謀だ。無謀な少年藤代誠二だと俺は勝手に思っていた彼の人物像を訂正する事にした。案外ちゃっかりしているらしい。 「が来てくれてたすかったー」という彼はを横目で眺めると、真っ直ぐ廊下の先を見詰めてみる。手の平に、ベニヤ板のざらざらとした感覚がする。 「藤代くんってなぁ」 ふいに口を開いた俺に、ん、と小さな声をあげて、藤代は首を上へとちょいと上げる。なんだ、という意味だろう。悩みってないん? 続きの言葉をぐっと飲み込んで、「藤代くんっておマヌケさんやなぁ」と適当に取り繕った。 そうかも。と、ケラケラ笑う藤代の声が、冷たいコンクリートで出来た廊下に響く。廊下で作業している人間は多いらしく、藤代の声はするりと騒動の中に飲み込まれてしまう。 俺達は人の邪魔にとならないように、おっとっと、といいながら、目の前に立ちはばかる障害物を、その度に避けて通った。 俺は(今のところ藤代以外の)他人に触るだなんて言語道断だったので、ちょっとした死にものぐるいだ。藤代の腰元辺りに、避ける必要もない所為か悠々とした足取りで、オネーチャンが物珍しげにそんな光景を眺めていた。 (悩みないん?) だったら羨ましい。これはきっと本音だ。ぼっと天井を見詰めるように眉間に力を入れていたのが悪かったのか、俺は後ろでぼそぼそと呟かれたか細い声が、耳に入らなかったらしい。 次に意識がはっとしたのは、藤代の「おい」と呼びかける声だった。 それに重なるように「あのう」と小さな女の子の声が聞こえる。 「あのう、せんぱい」 「うっわ、ごめん。邪魔やったな俺」 「すみません」 女の子はそれだけいうと、ほんの少し頬を赤く染めて、ベニヤの壁の端っこからすり抜けた。タカタカ走る背中を見て思う。やぁ、文化祭っていいよなぁ。男子の校舎に、女子が入り乱れる。 「なんか俺、あの子の周りでよく見かける気がする」 知り合い? と訊いた言葉に、そやね。と頷いた。立ち止まっていては、また誰かの進行を阻む事になりかねないので、ゆっくりと俺たちは進み出す。 じゃあ彼女? と訊かれた言葉に、ちゃうよ。と否定した。 「なんか、なつかれとんの」 「へぇ。そんなのめんどくさいっていいそう」 「(なんだよくわかってんな)そやね、あの子はええんよ」 「なんで」 「俺の妹に、似てるから」 一瞬本音の混じり合ったイントネーションに、はっとした。似てんねん、ともう一回へらりと笑って付け足すと、驚いたような、いつもよりもほんの少し大きく開かれた藤代の真っ黒い瞳が見える。なんだろうか。 「妹いるんだ」 「そう、おった」 おった。いた。昔いた。今はいない。離ればなれになってしまった。俺よりもとてもとても小さくて、てこてこと俺の後ろをくっついて来たあの子。とても小さかったあの子。 今思えば、不思議な事にあの子が触れる事を、俺はまったくもって気にとがめなかった。何故だろうか、母さんと、あの子だけは俺に触れてもよかった(藤代も、いいのかな) ふうん、なんかお兄ちゃんっぽいもんな、と褒めているのかどうなのか、判断し辛い台詞を藤代は呟いて、手のひらから少しずれたベニヤ板を、二人してほんの少し上へとあげた。教室まではまだ遠い。 「俺にも、姉ちゃんがいたよ」 いた。俺は過去形な事に、きちんと気づいた。その藤代の隣で、てこてこと足を踏みしめる少女は、大きく藤代を見詰める。もちろん、その事に藤代が気づく訳がない。 「ふうん。いたんや」 「うん、そう。俺が生まれる前に死んじゃったけど」 「事故かなんかなん」 「流産だったんだってさ」 『ないわよ、そんなモン。あたしはずっとお母さんのお腹の中にいたから』 ほんの少し前、とてもどうでもよさそうに、ぽろりとその台詞を、少女が零した事を思い出した。俺が視線を下げて、ぴろぴろとはねる二つのお下げを見詰めている事にも気づかず、藤代は続ける。 「うん、だから俺、姉ちゃんの元気とか吸って生まれたんじゃないのっていわれててさ。二人分だから、誠二はこんなに元気なのねーって母ちゃんに」 だから俺、こんな騒がしいんだよあっはっは。きっと続きはこう来るんだろうな、と頭の中で予想した。次に俺の鼓膜へと襲いかかってくるだろう大きな声に、ぐ、と奥歯を噛みしめてさぁ来い! と心の中で、こっそり。 「もしかしたら俺、姉ちゃんに恨まれてるかもしんないなぁ」 それはそれは、とても予想外だった。 あっはっは。だからこんな騒がしいんだよ。そう来るんじゃなかったのか、と耳の奥で鳴り響く幻聴に、ほんの少し、思考回路が遅れた。「そうやねだから藤代くんはうるさくて恨まれ、恨まれ?」 なにそれ今恨まれっていった? 聞き間違いだろ、と次の藤代の言葉を待っても、「だって俺だけ生まれて来ちゃったし」 だから恨まれ。 それはない。絶対ない。だってオネーチャンだ。藤代の事を、大好きだといわんばかりに、まるで小さな女の子が、あめ玉をほおばるような、幸せそうな表情で、一つ一つ俺へと語りかけるオネーチャンだ。そんな訳ないだろう、とベニヤの板が、指から滑り落ちなかった事が不思議でしょうがない。 なぁオネーチャン。藤代の、隣で、ひたひた無言で歩く彼女に、同意を求めるように。 けれども、オネーチャンは、いつもはニコニコと笑う表情に、能面のような真っ白い何かをはっつけているように見えた。あれこれだれ。 おもむろな動きで上げられた首もとに、顔の真ん中でぽかんと映る真っ黒い瞳に、(あれそれなに) 『もし、悩みとか、ないんやったら、羨ましいなぁ』 俺はとてもとても馬鹿な事をいった。 そんな訳ないじゃないか。だれだって、抱えてるんだ。だから俺は、あんなに人と触れる事が、恐かったんじゃないか。 「なんてなー!」 と、冗談でもいったかのように、さっさと教室に戻ろうぜ、とニカリと笑った藤代に、俺は一瞬泣いてしまいたい気分になった。 指が、離れる。 がごんっ、と、気づけば誰もいない廊下の階段で、ベニヤ板が滑り落ちた。なにしてんだよ、と口元をちょんとつっつくような形にして、ほら持てって、。。 藤代の一歩となりに立ったままの少女が、俺のズボンを、ひっぱった。違う。ひっぱった形を取った。実際にズボンの布の形が変わる訳ではなかったし、ひっぱられた感触もない。けれど、オネーチャンは、ひっぱった。 真っ黒い能面のままの表情で、俺を見詰めて、藤代へと、細い小さな、折れてしまいそうな指をさす。(『あんたのな、その力は、不幸にするためにあるんやないよ。みんなみんな、知ってほしいんよ。みんな苦しいんよ』) 母さんの、声が聞こえる。 (そうだ俺は、伝えないといけない)(伝えなきゃいけない) 「藤代」 声をかけても、ほら、さぼるなって、と見当違いの方向が帰ってくる。「藤代」「はやく帰んないとさ、みんなに怒られんじゃん」 いくらでも一緒に怒られてやるよ。いくらでも一緒に手伝ってやるよ、だから今は。 俺は、藤代の手首を、ひっつかんだ。 手のひらに、汗がにじむ。藤代の手は筋張っていた。ほんの少しだけ、指先が熱い、暖かい。そうだ、これが人の体温だ。人の手触りだ。 俺は、人を触った。自分から触った。それはとてもとても久しぶりで、忘れていた何かが、ふと心の奥からあふれ出してしまいそうになる。 「なんだよ、」 気づけば、藤代が持っていたはずのベニヤも床に沈んでいて、肌色の板が、数枚、寂しげな表情を見せていた。オネーチャンを囲むように。 「藤代、ちがう。それは、ちがう。お前が、」 「俺が?」 「お前が、」 おまえが。 「お前が、生まれて来たから、オネーチャンも、一緒に生まれてこれたんだよ」 お前がいなけりゃ、あの子はずっと、腹の中にいたんだ。 薄暗い中、ずっとあの子は待ってたんだ。小さな小さなお前が、大きくなる姿を、くるりと抱きしめるように、もう一つの羊水となって、柔らかく、綿を包むように、お前を守ってたんだ。お前があの子はだいすきで、きっとこれからも、ずっとずっとずっと、「勘違い、しちゃだめだ」 しちゃだめだ。 なにいってんの。怪訝な瞳の中に、俺の姿が映り込んでいるのが分かる。相変わらずもさもさと鬱陶しそうな前髪に、ちょろりと伸びた後ろ髪だ。 真っ黒で、もさもさで、お化けなおれ。 「って、オネーチャンが、いっとる気がする」 なんだそれ、と藤代は口の端っこを持ち上げて、ゆるりと目の端を細めた。「わかった、ってばかなんだ」「藤代くんにいわれたぁないわ」 なぁ、オネーチャン。 心の中で、彼女へと声を掛け、視線を下ろした。俺のズボンを掴んだままの格好で、そうだよ、と笑う女の子の姿を思い描いたけれど、そこには誰もいない。肌色のベニヤ板が、静かに落とされているだけだ。 「オネーチャン?」 俺にだけ聞こえる声で、もう一度呼びかけた。活気づいた騒ぎ声が、廊下に響く。 なんでだろう、と緩く動かした視線の向こうで、「さっさと行こうぜ、クラスの奴らに怒られる」と明るい声と表情の藤代を見て、ああなるほど、と理解した。 あの子は、いなくなった。 ← ■ → 2008.07.23 |