あの日から、何も見る事はなくなった。


第9話   駆け抜けるという事 1





藤代と笠井に、「ごめんな俺、こないだまでめっちゃ機嫌わるかってん、堪忍して」と延々と無視を続けていた事を頭を下げて謝った。
それって何のこと? と本気で首を傾げているらしい藤代に、思わず笑ってしまったけれど、きっと俺の口元は自然に笑えているんだと思う。鏡で確認なんてしていないから分からないけれど、つられたように喉の奥を震わせた笠井と一緒に大声で笑った。

クラスの人間と、話すようになった。時々じゃれたように肩口を力一杯叩かれるけれど、一瞬ノイズ音が響いた後に、何も見えなくなる。見えてない。大丈夫。大丈夫、きっと、大丈夫。
グラウンドのフェンス越しに、女の子が見えた。おーい! と声を掛けてみると、「せんぱい」と相変わらず舌っ足らずに、その子はパタパタと可愛らしく駆け抜ける。
手には可愛らしくラッピングされた袋を持っていた。


「なんなん、それ」
「あ、調理実習で」
「くいもんなんか」
「はい、クッキーです。あ、いりますか」

うん、と呟くと、女の子はじゃあ上げます。とフェンス越しのままに、俺へと手を伸ばす。俺は小さなダイヤ型の針金の間から手を伸ばして、彼女の手のひらへと触れた。
掴んだ袋は、中のクッキーがこすれて、そのまま針金の間を通してしまおうと思ったけれど、大きすぎて無理だった。
「じゃあ、放課後校門で待っててください、後で渡しますから」

そんな彼女の言葉に、にこりと顔の筋肉を柔らかくさせて、頷く。
校舎へと消える女の子の背中を見詰めて、そういえば彼女の手のひらを触った瞬間、ノイズを見たなと思ったけれど、どうでもいいかとさして気にもならなかった。



「藤代くん、サッカー部いこか」


その日の放課後、そう俺が告げた瞬間、藤代は、「ん、今なんてった?」と聞き返した。さっきと変わらない表情のまま、俺の顔をじっと凝視して、首を傾げる。「サッカー部いこか」 呼びかけの部分だけ抜いて机の上に置いた鞄の中に教科書を詰め込みながらもう一度。
「まじで?」と藤代は首を傾げたのを、視線の端で捕らえた。彼はとっくの昔に準備なんてすませていて、斜め方向に鞄をかけていた。「まじで」 もう一回。

「何それなんの心境の変化?」

同じく準備が終わったのか、リュック型のバックを背負いながら笠井は物珍しげに呟いた。ええやん。と二人に返事をして、もうどうでもいいからと小さな小さな声で呟く。どうでもいいから。
なんの変化やろな、と俺はケラケラ笑いながら、鞄を掴んだ。藤代と同じように斜めにかけて、イスを机にくっつける。
その瞬間だ。藤代は俺の肩ひもをひっぱって、勢いよくドアを開け、廊下を駆け抜けた。いつもなら、ひゃっほー! とか叫びそうなものなのにと中途半端に引きずられてる体勢で思う。
「藤代くん、俺しんどいねんけど、これ」
の気が変わらないうちにさっさと行かないと      

そこまでいいかけて、彼はピタリと立ち止まった。

「ごめん、今日は部活ないんだった」

本当に申し訳なさそうにそういう彼に、別に今思いついただけだったし、いきなりあっちに訪問というのも失礼だろう。それによく考えれば、あの子との約束もある。じゃあ今度。そういった後、藤代は再び俺の肩ひもをたぐり寄せると、大声で叫んだ。

「じゃあ今日は一緒に遊ぼう!」
もちろん竹巳つきで!


俺は瞳を二三度しばしばさせた後、くっ、と思わず笑った。「笠井くんには、事後承諾なん」「うん」
まるで語尾にハートでもついているかのようににっこりと彼は笑って、しょうがないなとため息を吐いた後に、俺は頭をほんの少しだけひっかいて、いった。


「ええよ」





俺は多分、今幸せなんじゃないだろうか。こうやって他人に触れても、黒い影が通り過ぎるがそれだけで、気にしないフリだけ通せば、なんの問題もない。
別に俺が他人のことで心を痛める必要もないんだ。だって所詮他人なんだから。

下足場にして靴を履き替えて、ギャアギャアと俺達は騒ぎながら、笠井は静かに歩きながら、校舎を出た。
数学の教師が実はズラなんやで。え、マジでそれー! とか、あそこの階段は、数えると段数がその時々によって違う! うわめっちゃこわいやんそれ。とか、それ上りと下りで数え方が違うだけなんじゃないのという笠井の声と合わさって、こんな馬鹿みたいな会話が、きっと楽しいもんなんだ、とざわつくような心を説き伏せる。

いいのか、これで。

ええねん。やって楽しいやん。馬鹿みたいやん。
じゃあ今まで散々悩み抜いてきた俺はどうなる。
そんなもん捨てたらええがな。今がよけりゃあそれでええねん。
本当にそれでいいのか。
ええよ。問題あらへん。
いいのか。
ええってば。
お前は本当に、

、何したい?」

藤代の声が、頭の中の疑問へとかぶった。「………なにがや?」ほんの少しの間をおいて、藤代を見ると、「だからさ、外行って、なにしたい?」 どこに行きたい? それだけの事だったのに、確信をつかれたかのように、大きく動揺してしまった。
俺は本当に、何がしたいんだろう。それでいいじゃないかと妥協する声だけ耳で響かせて、「ほな俺、電気屋に行きたいわ。なんか癒されんねん、機械みとると」 カラカラと笑って、口元をにやりとさせる。きっと、させた。

ええ、俺いやだよ、と藤代は口をとんがらせて、俺も嫌、と静かに笠井も拒否している。じゃあどないすんの、と肩ひもをぎゅ、と握って、二人の声を聞こうとした。


「あ」


藤代が、校門当たりを見詰め、口を開いた。「どないしたん」と彼へと視線を投げかけたとき、ブルルルン、と軽いエンジンの音が響く。車だ。
なんだろう、と校門を見詰めたとき、残されたのは真っ白い、廃棄ガスだけ。

「どうしたの、誠二」
「や、さっきさぁ、女の子がいて」
「なんやの、君のええ人か」
「違う違う、ほら、が前いってた、その妹に似てるって」
「ん? あ」

また俺は校門辺りの全体像を眺めてみたけれど、彼女はどこにもいない。思い出したのだ、放課後、校門で、クッキー。
寄り道もせずに真っ直ぐ来たのだけれど、彼女は苛立ってどこかへと行ってしまったのだろうか。そんな子じゃない気がするけど。

「それでさ、さっきその子が車に乗ってた」

随分視力がいいんやな、と素直に褒めると、まぁね、と藤代は嬉しそうに顎をくいっ、とあげると、笠井が「それしか取り柄ないしね」とぐさりと一言。容赦ねぇなぁ、とケラケラ笑う前に、妙じゃないかと、何かがひっかかるような気がした。

「なんでやろ」
「なにが、
「やぁな、あの子が校門で待っとるっていうてん」
「うっわそれ告白じゃねえの」
「ちゃう。クッキーくれるてな」
せやのに、なんで車なんて乗ってもうたんやろ

三人で顔を見合わせると、何もいわずに校門へと走った。運動靴な俺と藤代は問題ないが、ローファーな笠井は大丈夫だろうかと振り返ってみたけれど、そんな事する必要もなく、俺の隣を軽々と走っている。何かコツでもあるんだろうか。


相変わらず大きな道路に面した武蔵森には、ぶんぶんと大量に車が通っている。「どこ、行ったんやろな」適当に口元で呟いてみたけれど、どうにも嫌な予感がする。
不安げな気持ちが渦を巻いていて、大丈夫だろ、なぁどこ行く、と二人へと振り返った。釈然としない表情のまま、彼らは、「どうしようか」と呟いていて、「じゃあ取りあえずマックにでも行こうぜ、俺腹減った」「昼飯食べたばっかじゃん」「太るでぇ」といったものの、じゃあそこへ行こうか、と近くのマクドナルドへと足を向ける。
俺は一瞬、振り返った。彼女がいなくなった場所だ。何故だろうか、胃の中身が、ちくちくする。また全部、巻き戻しかねないような痛みだ。


そのとき、フェンス越しに触れた彼女の手のひらに、ノイズ音がはしった事を思い出した。まさか。と頭を振ってみても、それが離れない。もしかして、この事なんじゃないだろうか、まさか。(他人なんて、どうでもいいじゃないか)
俺の足はいつの間にか止まっていたらしい。藤代と笠井が俺の顔を見た後、お互い目を合わせて、ぽん、と俺の肩を叩く。藤代は左肩。笠井は右肩。

「よし、行こうぜ」

こっちこっち。と、さっきまでと反対の方向へと走り出す。「早く、」思わず呆気にとられたけれど、「うん」と頷いて、俺も駆けだした。





そう走り抜けたはいいものの、車なんてたくさんありすぎて、どれに彼女が乗っているかなんて事分かるはずもない。そもそもスピードが違うのだ。追いつける訳がない。
唯一の目撃者である藤代に、「ナンバー覚えとる?」と訊いてみても、見てないって、そんなの。と一言で終わってしまう。

こんなとき、見えたら、と考えてしまう。
そんな都合良く見える訳じゃないけれど、何かのヒントになるかもしれない。もしかしら、だけど。
(………消えたらいいと考えたら、今度は見えたらいいか)
自分の調子の良さに、落胆した。

黒い車。ただそれだけ分かっている単語に、舌打ちをする。そんなの、どこにでもあるじゃないか。
それでも俺と笠井と藤代は走り続けた。普段の運動量がものをいうのか、息も乱すこともない二人に挟まれて、俺はかすかに肩を揺らしている。


こんな事、前にもあったなと考えた。



あのときも、俺は女の子を追いかけていた。大きなトラックに、あの子は乗せられていて、俺はただ一生懸命に走った。子どもの小さな四肢を力一杯ふって、息を乱すどころか、もはや息を吸っているのかどうかさえも自分で分からなくて、左の脇腹が、動くたびに中でうずく。(めっちゃ、いたい)
けれども俺は走り続けた。だって、あの子は俺の、唯一の家族だったからだ。

『おにいちゃん!』

トラックから、女の子が、顔をのぞかせた。長い髪の毛がバタバタと風の抵抗を受けて、彼女が届くはずもない腕を、俺へと力一杯伸ばす。俺も、伸ばした。
けれどもその瞬間、彼女は危ないと中の人間にいわれ無理矢理中へと連れられ、窓を閉められた。俺といったら、バランスを崩してしまって、顔面から地面に突っ込んだ。
(俺は、このときどうしたんだっけか)


今と同じだ。
ただ、俺の隣には二人の人間がいるし、まだこけてはいない。少なくとも、あのときのように無様にこける気もない。

「どこにも、おらへんな」


俺の言葉は、明らかにもう終了しよう、といっていた。けれども俺たちの足は動き続けていたし、道路へと視線を向けている。真っ直ぐと進む道を、延々と走っていた。汗を垂らしながら。


「見つからないな」
「うん、みつかんねー」


もうやめようか。そういえばいいのに、俺たちは延々と走り続ける。
頭の中に、未だによくわからないノイズが、ぶん、ぶんと、一定の間隔で流れ続ける。けれども何かのフィルター越しのように何も見えないし、何の役にも立ちはしない。

そもそも、彼女が本当に誰かに連れ去られたのかも怪しいところだ。急に故郷のお父さんが迎えに来たとか、案外そんなところかもしれない。もしそうだったら、俺たちはただのお笑いぐさだ。
けれども、嫌な予感というものはするものだろうか。
早く、早くと体の奥底で、せかすような感覚が手足へと連結していて、ぶんぶんと大きく振り続けた。さっさと止まってマクドにでもなんでも行きたい。けれども体は動く。
動く体と正反対に、俺たちは立ち止まらずをえなかった。道が二つに分かれていたのだ。隣を優雅に走り抜ける車達は左と右へと別れてどこかへと去っていく。


どっちへ行く? とは誰もいわなかった。ただただ、立ち止まって、アスファルトに白い線が入った道路を見詰める。

(他人なんて、どうでもいいじゃないか)
何を考えているのか分からないし、俺に辛いものばっかり見せるし、今だって、なんで俺がこんなに頑張らなきゃいけないんだと考えると、腹が立つ。腹も減った。
やっとこさ、藤代が「どうする?」と口を開いても、「うん」と俺は曖昧な返事しか出せない。
うん。どうする。どうする。


(おにいちゃん)


また、声が聞こえた。俺はあの子がいなくなってしまった後、無様にこけたままの体勢で、静かに嗚咽を漏らすことしかできなかった。
流石に泣きはしないけれど、今の俺は、本当に同じ状況だと思う。
(他人なんて、)
お決りの台詞を心の中で呟こうとして、途中で止まってしまった。

「他人って、なんだ」


ふと考えた。なにいってるんだ、と笠井は俺を見て、俺は藤代を見た。こいつらは、俺にとって他人だろうか。こいつらにとって、俺は、他人なのだろうか(他人って、なんだ?)
他人はどうでもいい。それは心底思う。俺に関係のない人間が俺を苦しめるだなんて腹が立つし、あっちはそんなこと知りもしないから、それがもっと苛立つ。

「なぁ、俺たちって、他人なん」

藤代は、ただただきょとんとしていて、笠井は何をいっているんだ、こいつ、という目で見詰めてきた。「すまん、答えてくれ」意外と切実なような声の響きに、俺は自分で驚いた。なんだこれ。
藤代が「違うよ」といった。笠井が、「少なくとも、クラスメートかな」といった。
それは、俺が数日前にあの桜上水のコーチに、藤代くんは友達かいと訊かれて、どういえば分からなかった、クラスメートですという答えと同じなのに何故か暖かくて、ふいに、ぐっ、と心臓を掴まれそうな感覚だった。
違う。他人じゃない。クラスメート。他人じゃない。
(他人が、どうでもいいなら、他人じゃなかったら、どうなんだ?)


俺はおそらく、たくさんの人間を傷つけてきたと思う。幼いこと何も考えずにべらべらと喋って、そのツケが今回ってきているんだろうけれど、その事については特になにも思わない。ただ俺は、シゲにあんな事をいってしまったという事実だけが苦しかった。たとえシゲが許してくれていたとしても、苦しかった。
(だって、他人じゃないもんな)

他人は、どうでもいい。けど、他人じゃなかったら、どうでも、よくない。
きっと俺は、延々とシゲへとごめんと謝り続けると思う。すみませんでしたと彼を見るたびに、ちくちくと心臓が痛くなるに違いない。けれどもきっとそれはしょうない事で、俺はシゲがどうでもよくないから、そんな気持ちになってしまうんだろう。

俺は笠井と、藤代が何かに困っていたら、助けたいと思うだろう。だってどうでもよくないから。オネーチャンが、消えた。きっと満足してくれた。その事がとっても嬉しかった。舞い上がった。だって、どうでもよくないから。



世界は、きっと半分に別れるのだ。俺はどうでもよくないものを捨てたくない。大切にしたい。多分これは好きなんだと思う。もの凄く好きだ。なくしたくない。なくしたら、きっと悲しい。傷つけたら、もっともっと悲しい。
(きっと、あの子のことも、どうでもよくない)


俺は、藤代と笠井に向き合って、ぱんっ、と二人の肩を叩いた。伏せた顔に彼らの表情は見えないけれど、ブレザーを握る両手に、ほんの少し力を入れた。
「藤代、笠井」

おれ、

「あの子を見つけたい」



視界が、開けた。




ノイズなんてない。モノクロでも、なんでもない。二つの視界が合わさって、とても広い広い何かが見えた。武蔵森の校門だ。見通しのいいこの視界は、きっと藤代のものだ。あの子が、黒い車へと乗っていた。古くさい、ベコベコと所々へこんでいる、汚らしい車なのだとこの位置からでもはっきりと分かる。
運転席へと乗る男は、どこかで見た事がある。そうだ、文化祭、俺は彼と肩がぶつかった。どこか挙動不審にキョロキョロと視線をさまよわせていて、あれはよく考えれば、あの子を見ていたのだろうか。

車は、そのまま走る。さっ、と消えたその光景に、ごくりと唾を飲み込んだ。「?」と藤代は不思議そうに俺の手のひらを見詰めていて、俺は小さく「見えた」と呟いていた。

そのまま俺は、ガードレールへと手を伸ばした。見たい。あの子がどこに行ったのか。お前分かるか。分かるか、おい。


ベコベコの凹んだ車が、確かに左へと曲がる。

俺は駆けだした。左だ。背後で「おい!」と笠井の声が聞こえる。「どーしたんだよー!」藤代の、声も聞こえた。
だって、「見えるんだ!」

俺は走った。誰かと肩がぶつかるたびに、光景が見える。それは日常の一部分のように、カラー画面が、ほんの少し変わるだけだ。彼らの視界に映る凹んだ車を追いかけた。足下へとすり寄ってくる猫を撫で、また見る。信号機を殴りつけるように触り、見た。


現実に、俺の瞳へとその黒い車が、走っている。長い信号待ちに、あの時のように、息をしているのかしていないのか分からないぐらいに、走った。脇腹がいたい。けれども俺はこけていないし、涙もながしていない。長くなった四肢は、あの頃よりも格段に速く進む。

     !」

名前を、呼んだ。
あの子の名前を呼んだ。
妹に似ているなんて嘘だ。俺の妹は俺とくらべて随分小さかったし、ほんの少し茶色がかった長いストレートの髪の毛に、ピンク色の頬を染めていた。どこも似てはいない。似ているんじゃない、同じなだけなんだ。

      !」

同じ名前を叫んだ。俺は、あの子を探さなけりゃいけない。あれから何年経ったんだろう。片手じゃ足りない年数が、過ぎていった。あの子は、きっと大きくなっているに違いない。記憶の中の彼女と、まったく違うかもしれないし、同じかもしれなかった。
(………あいたい)
それは、間違っているんだろうか。



黒の車へと追いついたとき、俺はもう、口の中の唾を全て飲み込んでしまっているかのようにカラカラで、ひからびていて、今すぐ水をがぶ飲みしてしまいたい、そう思ったけれど、思いっきり黒の扉をぶったたいて、ガゴン! と音を響かせる。
新しいへこみ跡が一つ出来たけれど、今更気にしてられない。

「開けろ!」

がごん! 振動に、車が大きく揺れる。信号は、まだ大丈夫。「開けろ!」今度は窓を右の拳で思いっきり殴った。流石にガラスにヒビが入るなんて事はなかったけれど、予想以上に大きく響き渡ったばがん! という音に、中の男が軽く肩を震わせて、扉を開ける。

「なんなんだ、やめてくれ!」

情けない叫び声を無視して、車の中をのぞき込んだ。誰もいない。男は「閉めるぞ、でてけ!」と運転席から体を乗り上げている。俺は軽く舌打ちをすると、男の顔面を、右手で掴んだ。ほんの少し目を瞑り、また軽く舌打ちをする。
男の声を無視して、無理矢理車の中へと入り込み、助手席から後部座席へと顔をのぞかせる。もちろん、その場所には誰もいなかった。
けれども、足を乗せるであろう場所には、毛布が置かれており、その場所にはこんもりとなだらかな丘ができている。

手を伸ばし、毛布をめくりあげた。男が俺へと抱きつくように静止させようとしたが、関係ない。

その下では、女の子が小さな寝息をたてて、眠っていた。あんまりにも幸せそうなツラに、「バカヤロウ」と俺は思わず、呟いてしまった。彼女の指先には、綺麗にラッピングされた、クッキーの袋が転がっていた。



  

2008.07.28