8 主人公A




(真田先輩……弟いるんだ……)

びっくりした、と私はたかたか腕を振って家に帰った。さっきまで、一緒に帰っていた陸上部の先輩と、弟くんの顔を思い出して、あんまり似てないような、いいや似ているような、と私は首を傾げた。

先輩と一緒に、若菜結人のことを思い出した。若菜結人はいつもケラケラ笑っていて、いつの間にか会話の中止になっている。だから私が知らない人と、若菜結人が会話しているという光景はよく見ることなのだ。だと言うのに、思い出したら胸がドキッとする。一体この差は何なのか。いつもは平気というか、気にもしないのにおかしい。とてもおかしい。

私はテトテト帰宅への道を歩いて、あ、そうか。と気付いた。
どれだけ私と知らない人と話していても、私がぼーっと若菜結人を見ていると、パッとこちらに気付いて、「おーい、シスター」と手を振ってくるのだ。シスター言うな。私は憎まれ口を叩いて、フンッと若菜結人に向かって怒る。なのに今日は、若菜結人が私に気付かなかったのだ。

もちろん、窓越しの向かいの校舎だったから、気づかない方が当たり前なのだけど、そうだ、いつもとはちょっぴり違ったからビックリして、もやっとした訳だ。
そうかそうか、と納得すると安心した。安心した後、家に帰って宿題をしながら、「若菜結人は、ちゃんと宿題してるかなぁ」と一瞬心配して、その考えがなんとなく気恥ずかしくなって、机の上につっぷした。
(明日は絶対、宿題なんて見せてやらん)


「シスター、はい、今日の分、見せてくださいよ」
「いや」
「とかなんとか言っちゃってー。見せてくれるんでショ?」
「いや」
「……マジで?」
「いや」
「あッ……なんか反応がすっげぇ淡泊!?」


これはマジで本気の見せてくれないフラグか!? と若菜結人は私の机前で、ガビンっ! とショックを受けた顔をした。今日ばかりは見せません、そう昨日の夜に誓ったのだ。
とかなんとか言いつつ、まあ結局、若菜結人は私が宿題を見せるまで粘ってくるだろうな、と心の中でこっそり考えていたのだ。そうなったら、はいはい分かったうるさいなぁ、今日で最後だからね、とかなんとかいいながら、また私は宿題を見せるに違いない、とうっすら気づいていた。私はプイッと窓側へと顔を向ける。若菜結人は、未だに私の前の席に立っていた。

さて、くるぞくるぞ。ねぇねぇお願いシスターったらー。くるぞくるぞ。

そう思ってじっと待っていたのに、若菜結人は、一つ小さなため息をついた。「んじゃま、しょうがねーなー」 そう言って、自分の席に戻ってしまった。私は「えっ」と口の中で小さな声を出して、彼の背中を見つめた。え、何それ。そんな簡単でいいの。先生に怒られちゃうよ、次の授業はあのゴリラっちですよ。

なんだか胸の中がぐるぐるした。
そんなに簡単に諦めちゃうんだ。なぜか素直に喜べない。
そんな簡単に、諦めちゃうんだ。



授業中、先週した実験レポートのまとめを提出した。宿題を忘れた(というか、していなかったのは)若菜結人、ただ一人だった。なんだと、と理科教師のゴリラっちはいかつい顔をもっといかつくさせて、「若菜てめー、次はちゃんとやってこいよ」と野太い声を出して彼に怒鳴った。若菜結人は、「へーい」と気のない返事をして、話はそれだけで終了した。それだけだった。
(なんだ)

若菜にとって、宿題って、そんな重要じゃなかったんだ。



そう気づいたら、なんだか恥ずかしくなってきた。なんだ。そうか。
そしたら唐突に寂しくなった。あらまー、と自分自身が情けなくなってきて、机に肘を置いて、手のひらを顔につけた。「どうした、気分でも悪いのか?」 気づいたらゴリラっちが私の目の前にいて、私はふるふると首を横に振った。



「シスターどったん。保健室行く?」

お昼御飯に、若菜結人は自分の椅子をずるずると持ってきて、何故だかわがもの顔で私の席の前に置いた。よっこいしょ、と座りこんでお母さんの手作りらしいお弁当箱を私の机に広げる。別にいつものことなんで突っ込みもしないけど、きみなら別に、一緒に食べてくれる、女の子とか女の子とか、女の子とかいるんじゃないかな、といつも思う。「いかない」「そお。あ、シスターの分の牛乳とってきた」「ありがとう」 ぽん、と若菜結人は、私の席の上に、紙パックの牛乳を置いた。

私はパックの表面についた水滴を人差し指ですくって、「もう、若菜に宿題は見せないからね」と意地悪なことを言っていた。自分でも、なんでいちいちそんな宣言をしたのか分からない。若菜は牛乳にストローを差し込みながら、「別にいいけど」と短く呟いた。なんだか静かだ。
特に会話はなかった。次の日から若菜は、私に宿題を見せてと言ってくることはなくなった。





なんだか寂しいなぁ。
自分で言ったことなのに、そう思ってしまう自分が嫌だ。別に若菜と会話をしなくなった訳じゃない。「よう」「うん」と目が合えば、会釈くらいする。追いかけっこをしなくなった。はこの頃おしとやかでいいなぁ。その調子だぞ。とゴリラっちに褒められた。何故だか知らない、スケッチブックを抱えた男の子が、私の周りをくるくると不思議そうに回って、「若菜先輩はどうしたんすか」と訊いてきた。この子は誰だろう。
委員長とお兄ちゃんには、元気がないね。と言われた。

「シスタぁー」

上を見上げると、若菜結人が校舎の窓から手を振っている。なんだか久しぶりだ。なんとも反応ができなくて、じっと若菜結人を見上げていると、一緒にいた真田先輩が、私の手をぎゅっと掴んだ。「ほらほら、挨拶」 そして私の手を上に上げて、パタパタ無理やり振った。若菜結人はきょとりと不思議そうな顔をした後、「おーい」と笑って手のひらをこっちに向かって振った。

飽きたのか、若菜結人はさっと校舎の中に引っ込んだ。あ、引っ込んじゃった。残念に思った。
ポンポン、と真田先輩が私の肩をたたく。先輩の顔を見上げると、いつもと同じでにこにこ優しく微笑んでいて、一体何を考えているか分からない。「さあ、練習に行こうか」と先輩はそれだけ言って、私の手のひらをひっぱった。


なんだかちゃんと頭の中が回らなくって、ムッと腹が立ってしまう。
私は若菜結人はそんなに好きじゃなくて、どっちかと言うと嫌いで、騒がしい人も好きじゃなくて、宿題を見せてなんて言ってくる人はもっと嫌で、ちゃんと名前を呼ばない人も嫌なんだ。
(でもまあ別に、宿題はもう、見せなくていいのか)
嫌いな部分が一つ減った。
それなのに。


若菜結人は、やっぱりわがもの顔で私の机にお弁当を置いて、お弁当の包みを開いた。私もそれにならってお弁当箱を開けた。「あ、うまそー、シスター。卵焼き一個くれよ」「やだよ、っていうかシスターって言うな」 別にいつもの軽口だったけど、若菜結人は押し黙った。何だろう、と彼を見ると、彼は一瞬気難しげな顔をした後、
「じゃあ、

顔が真っ赤になるかと思った。
「決定な、決定」と言って、若菜結人は牛乳パックにストローを突き刺そうとした。けれども上手くいかないみたいで、もどかしげに手の中であたふたさせていた。彼の耳を見てみると、多少赤くなっていた気がした。

「結人」

ぽそっと呟いた。「えっ」と彼が私の方を向いた瞬間、結人はやっとこさストローをつきさしたパックの側面を、ぎゅっと力強く握ってしまったらしい。「ぎゃあ!」ストローから噴水みたいに牛乳が飛び出して、結人のお弁当箱の中が、牛乳びたしになってしまった。結人は何が起こったか分からない、と言った顔付きで自分のお弁当箱をじっと見つめた。そしてもう一回私を見た。

お前ら何やってるんだ、と周りの生徒が集まって来て、「わあ若菜、弁当最悪じゃんか」と結人の友達がゲラゲラと笑っている。女の子達が、「結人くん、お弁当別けてあげようか」と心配げに声をかけてきた。

私たちは彼らにうんともすんとも言わず、ただ二人して真っ赤な顔をしてお弁当箱を見つめていた。


ほんの少しだけ、私たちの日常が変わったような
そんな気が




     卒業するとき、真田先輩が私の肩をたたいた。おめでとうございます、と私が言ったら、彼女は「うん、おめでとう」と言った。「また会おうね」
大人になったら、多分、また会えるよ。君たちがずっと幸せならね。

先輩の言葉の意味が分かるのは、それから数年先のこと


2011.06.05
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