| 暑い日差しの中で、私は小さく「ううう」と声を上げた。 第00話 探している人がいます。 夏は嫌い。だって暑い。ミンミンとなくセミの音が、ほんの少し風流だと思わないでもないけれど、やっぱり暑いものは暑い。汗で背中にぴったりとくっついてしまったシャツを見るとげんなりするし、私の肌は、ほんの少しでも焼けると、真っ赤に染まってしまう。 けれどもそれ以上に嫌いな理由はあった。 私には、兄が一人いる。正確に言えば、いた。私よりもいくつか年上だった彼は、とっても格好良くて、さらさらとした真っ黒い髪の毛が、私はとても好きだった。 『、兄ちゃんについてきい』と私の腕をひっぱって、私もてとてとと後を付けた。彼はとても不思議な人だった。 私が学校で苛められてわんわん泣いて帰ってくると、私の頭をするりとなで上げて、『なんや、そないなことがあったんか』と何もいわないうちによしよしと私の頭を撫でた。ゆっくりとしたリズムに、とくとくと心臓が動いて、彼の胸の中に収まっているときが、私はとても好きだった。 兄が、私の小さな指先をひっぱって、高い瓦の塀に囲まれた、狭い道を、歩いていた。ミンミンと聞こえる音に、彼の手のひらを握ると手のひらもぐっしょり汗でぬれてしまったが、それでも私は彼に捕まっていた。 頭から降りる太陽が、私たち二人の影を小さくさせている。真上からの光に、髪の毛が熱を含んで暑い。家に帰れば、お母さんが「暑かったやろ」と微笑みながら、よく冷えたジュースを出してくれるに違いない。 お兄ちゃんが、ピタリと足を止めた。道の先をじっと見詰めていて、特に何もないその場所をただただじいっと見詰めている。ミンミンミン。セミの音が塀の中へと反響して、先ほどよりも大きく聞こえたような気がした。 私はとても不思議に思って、お兄ちゃんの手のひらを、ひっぱってみた。「お兄ちゃん、どないしたん」 舌っ足らずな私の声に、お兄ちゃんは「うん」と小さく頷いて、私の手をまたひっぱった。 けれどもそれは、自分たちが先ほど来た方向と同じだ。 「お兄ちゃん、おうち、こっちやで」 「わかっとる。せやけどこっちでええねん」 「なんでぇ。あついの、いやや。こっちにいこうや」 それでもお兄ちゃんは私の手のひらを引っ張った。私は仕方なく彼へとついて行き、名残惜しげに、道の先を見詰めた。真っ直ぐに伸びた道の向こう側は、ゆらゆらとした湯気でかすみ、ミンミンとセミの声を残すだけ。 ふと、おかしな感覚がした。 何かが、いたような気がした。いいや、何も見えない。けれども、今もあの向こう側には、何かがいる気がする。暑い暑いと先ほどまで思っていたはずなのに、何故だろうか、首もとに一筋、冷たい汗がつたう。(なんか、おる) 私は恐くなって、お兄ちゃんの手のひらを、さっき以上に、ぎゅっと握りしめた。もう振り返らない。けれども背中にはぴったりとその何かがくっついているような気がして、小さな私の心臓がドクドクと音を立てる。(なんやの、これ) 「あかん。気づかんふりし」 お兄ちゃんは、そう小さく私へと呟いて、力強く、手のひらを引っ張った。「何もおらん」お兄ちゃんは、大きくそう叫ぶ。「何もおらん!」 、せやろ。とお兄ちゃんは、また叫ぶ。私はうん、うん、と大きく頷いた。そして、胸一杯に、息を吸い込んで 「さん、さん」 近いような、遠いようなそんな中途半端な場所で、誰かの名前を呼んでいる。ってだれだっけ、と考えながら重い瞼を開けると、銀色の髪の毛をしたお人好しのクラスメートが困ったような顔をして、私の肩を揺さぶっていた。 「さん、ホームルーム、終わっちゃったよ」 ぐしぐしと瞼を手の甲でひっかいて、教室を見渡してみると、どこにも、誰もいない事に気づいた。ぼけたような頭に、鳳くんはくすりと笑って、「これ、夏休みのプリントだって」と私に2、3枚のプリントを手渡す。 やっぱりどこかぼけっとしたまま、「ありが、とう」とたどたどしいような言葉を紡いでしまった。 (そっか、夢だったのか) もう一度、はっきりと目が覚めると、「ありがとう、鳳くん」と笑った。すると「え、うん、いや」と妙に口ごもったように声を上げて、「俺、部活あるから」と銀のチョーカーを胸元で揺らせながら、ガタガタあわただしくイスから立ち上がる。 そういえば、彼はテニス部だった。 「ごめん、私起きるの待ってたのかな、部活、遅れない?」 「うん、これくらないなら大丈夫」 「そっか」 「うん」 急いでいるんじゃなかったのか鳳くんは真っ直ぐと立って、座った私の影になるような形で、じっとこっちを見詰めた。カチカチと鳴る秒針の音が聞こえて、「その、」と口ごもったような声を上げたあと、ほんのりと頬を赤くして、じっと私を見る。 「さん、部活、入ってたっけ」 「入ってないよ」 「あ、うん、そっか、じゃあ夏休み、学校に来たりとかは」 「多分、来ないかな」 それだけいうと、鳳くんは見るからにしゅんとしながら、「そっか」ともう一度呟いた。その後、俺、部活に行くね。と終業式にしては大きな鞄を、軽々と背中に背負いながら、扉へと向かう。なんとなく私は、「鳳くん」と呼び止めると、「何?」と柔らかい笑みと共に、振り返った。 「二学期、またね」 ほんの少しの間に、「うん!」と鳳くんは大きく頷いて、扉の向こうへと消えていった。よく分からないけれど、彼はいい人だと思う。いつもワンテンポずれた私に、歩調を合わせて何かと面倒を見てくれるからだ。 (………いつから、夢だったんだろ) 少なくとも私は、担任の先生が、夏休みの宿題についての説明をしていたとき起きていたつもりだ。兄に会いたいなと考えていたら、いつのまにか眠りこけて、夢の中へと入ってしまっていたらしい。 兄が今、どこにいるのか私は知らない。別に彼がどこかへ家出をしてしまったという訳ではなく、随分昔、母が死んでしまったとき、兄とは離ればなれになってしまった。私は母のイトコへと引き取られたけれど、兄がどうなったのかと誰に訊いても、口をつぐんで教えてはくれない。 最後に見た兄は、私が引っ越しのトラックのようなものに乗っていて、その後ろを一生懸命走っている姿だ。綺麗な兄の髪は、バサバサと広がっていて、思わず窓から手を伸ばすと、彼も届くはずのない手を伸ばした。 私はもちろんの事、トラックの中へとひっぱられ、放してくれと暴れている間に、兄はどこからか消えていた。トラックの背後には、ただの道路が延々と延びていた。 (あいたい、な) 兄と最後に会ったのは、夏だった。それから私は夏が嫌いだ。 (やだな、夏休み) それだけ思うと、鳳くんがくれたプリントを鞄の中へと入れ、立ち上がった。誰もいない教室はただただぽつんとしていて、差し込む光が何故だか空しく感じる。 これから、あの暑い日差しの中を通って帰らなければならないのだ。 (………やだな、あの道) 嫌な事が多いな、と笑いそうになってしまったけれど、やっぱりあの道は嫌だった。何かいる。なんとなく、そう思う。兄が「こっちはあかん」といっていた道の先にある、何かがいるような気がする。 おかげで暑い中、わざわざ遠回りして、家に帰らなければならない。 私は小さくため息をつきながら、廊下の窓ガラスのサッシを人差し指でこすりながら歩いた。グラウンドで駆け回る小さな影に、元気だなぁ、とほんの少しげんなりしてしまう。 長い廊下を延々と歩いて、私はある一点で、ピタリとその足を止めた。 何故だろうか、何かが、いる気がする。 振り返っても、その先を見ても、何の姿が見える訳もない。けれども背中のぞくりとした、何かになで回される様な感覚が、襲いかかった。「ひっ」 私は小さく悲鳴をあげて、窓ガラスにへばりついた。外の音がする。オーライ。オーライ。野球部だろうか。 いつの間にか消えていた何かに、私は駆け抜けた。 心臓が、もっと速くとせかす。ガチャガチャと、鞄の中身が悲鳴を上げる。 (お兄ちゃん)と、喉の奥で、叫んで、走った。 そのときはまだ、気づいてはいけないものに気づいてしまっただなんて、分かるはずもなく。 ■ → ホラー連載。何故だか書いている最中、二、三回背後を振り向きました。ぎゃあ! 2008.07.29 |