「あちゃあ」
鞄の中をガサゴソとあさっていると、気づいてしまった。


第01話  ちょっとした始まり




は数学があまり好きではない。だからこそ、夏休みの宿題の宿題なんて後回しにしてやろうと考えていて、きちんと鞄に入っているか、確認もしなかった。8月も半分過ぎてしまった今頃の時期に、のろのろと行動を起こしたのは、ちょっとした自業自得だ。

そして盆の時期だというのに、自分には帰る田舎はない。正確にいえば、なくなった。けれども自分を世話してもらっている、義理の両親二人には、帰るべき田舎はある。三等親以内の関係ではないには、まったくもって関係がなく、一緒について帰るべきなのだと思うけれど、なんとなく気兼ねしてしまい、「私は一人でも大丈夫ですから」と一人家に残ってしまった。
そんなとき、ふと数学の宿題をしなきゃな、と気づいて、机に向かっても後の祭り。

(………取りに、行かなきゃ、だめだよねぇ)

何故だろうか、あの終業式のあの日以来、少し学校に行くのが恐い。いつもの、平日の教室のように、誰かがクラスでケラケラと笑うバカ騒ぎをしていてくれるのなら、安心なのだけれど。
(何処かの、部活がいるよね。うん、大丈夫)

そう自分へと言い聞かせ、は重い腰を動かした。





「やだなぁ」

呟いた自分の声は、案外大きく響く。周りの人間が、誰もいないからだ。いつもなら、騒音の中に、勝手に吸い込まれるはずなのに、妙な違和感が、少し気持ち悪い。踏み出した一歩は、じわりと何かに沈み込んでいるような、そんな気持ち悪さ。
みんみんと聞こえる大合唱に耳を打たれて、少しふらついた。首もとから垂れる汗を、手の甲でぬぐう。

くぐった正門の向こう側は、延々と茶色いレンガの道が続くだけだ。足の裏でジャリジャリとこすれて、律儀に制服を着てきた自分が、少しバカのように思う。
誰か友人を、とケータイの番号を入れても、「ごめんね里帰り中」といわれてしまった。
暇なのは、結局自分だけなのだ。

(早く、いこう)

たっ、と足を踏み出した。早く。早く終わらそう。とくとくと、の耳にまで響く心臓の音が非常に生々しく、革靴を履いた足が揺らつくが、いけないと頭を振る。扉を開ける。それだけでいい。
大きく開かれた下足場のガラスのドアに、自身が映し出された。真っ直ぐに伸びて佇む彼女自身。目が合った。
誰と。自分自身と目が合った。特に代わり映えもない、日本人らしい、真っ黒い瞳が、映り込む太陽の中で、薄っぺらく映る。いつも通りだ。
(………気のせいかな)

もう一度、自分自身の瞳を見詰めた。そのとききょろりと瞳が動いた。
は真っ直ぐとガラスを見詰めている。
それなのに、ガラスへと映るは奇妙な方向を見、左右の眼球を正反対にぐるりと回し、再びと目が合ったとき       にんまりと、口元を奇怪に寄せた。


さん?」
「いやあ!」

突然、背後から掛けられた声に、は後ろへとすっころげ、両の手で視界を覆う。突き刺すような光が腕に受け、どくどくとひっくり返るかのように鼓動する心臓が痛い。みんみんみん………先ほどまでの静寂が嘘のように、音が響いた。

「ごめん、さん、そんなにビックリすると思ってなくて俺……っ!」
「なんや鳳ィ、女の子には、もうちょい優しくせなあかんよ」
「お、忍足さん! さん、大丈夫?」


溢れる声に薄く瞳を開け、指の隙間から、なじみの声へと顔を向ける。「………鳳くん?」 薄い絹糸のような、短い髪の毛。うん、と彼はにこりと微笑んで肯定し、その隣には見覚えのない、丸メガネの男の人がいた。彼らはそろいのユニフォームでああ同じテニス部の人か、とはなんとなく想像が付く。

さん、なんでここに?」
「えっ」
「うん、今お盆だから、誰もいないと思ってた」
「だって、鳳くん達は」
「レギュラーだから、俺たち」
「せや、休みはあらへんっちゅう話やね」

聞き覚えのある発音に、思わず驚いて彼を見詰めた。あんまりの勢いで振り向いてしまったためか、男の人はメガネ越しに、きょとんと瞳を落として、「……ん、なんやの?」 ちょっと優しく笑われた。「お、忍足さん!」
思わず鳳は慌てて転んだままのの手のひらを引っ張り上げる。なんとなく、気分が悪かったからだ。

「なんやぁ、鳳」
「違いますから」
「あの」
「なんやぁ、姫さん」
「京都の人ですか?」
「関西やけど、ちゃうよ。なんで?」
「私、京都の出身なんで、それで」

鳳に忍足と呼ばれた彼は、スポーツマンにしては少しだらりと長い髪を右手で後ろへととき、「そんだけやって、鳳」と口元をにやつかせながら鳳を足でつっつく。何がですか、と微かに彼は口をどもらせながら、を見詰めた。「それで、さん、どうしてここに?」
ちょっと情けない話なので何ともいいにくかったのだけれど、まるで飼い主を待つ犬のようにの言葉を待つ鳳の姿に、ちょっとぐさりときた。多分彼なら笑わないし、バカにしないと思う。

「うん、数学の宿題、教室に忘れちゃって、それで」
「そっかぁ」

明るい微笑みを顔にくっつけて、鳳は納得がいったと首を上下に振る。隣で忍足が口を押さえ笑っていた。

「ええと、鳳くんと、」
「忍足やで」
「はい、忍足さんは、部活でしたよね」
「うん」

そうか、盆の間は、滅多な事じゃ部活動なんてしないのか、と少しショックを受けて、だからこんなに学校が静かに見えて、だから、あんな妙なものが見えてしまったんだろう。
全部ただの気のせいに違いない。気のせいだ。じゃないと、あんなのもの      さん?」

首を傾げた鳳が、の顔をのぞき込む。「顔色が悪いよ」といわれた言葉に、そうかな、とぺたぺたと頬を叩いてみたが、よく分からない。あんまりいい気分ではない事は、確かだけど。「あ、あの、さん」

微かに震える鳳の言葉に、特になんの意識もせず、顔を上げた。きょろきょろとあらぬ方向へと視線を移動させる様は、先ほどのガラスを思い出したが、彼の頬は微かに桃色に染まっていて、嫌な気分はしない。なんだろうか。「なに?」

「あの、俺、もうちょっとで部活終わるから、それで」
「うん」
「それで、その」
「うん」
「……えと」
「うん?」
「………俺も、忘れ物しちゃったかも!」
「へ」
「だから、一緒に取りに行こうか!」


妙に語尾に力の入る鳳に、は何度か瞳を瞬かせた。それと部活がもう少しで終わる事と、一体なんの関係があるっていうんだろう。正直不思議でたまらなかったのだけれど、この校舎に、一人で入るのは、少々勇気がいる。鳳の申し出は、少しありがたかった。「うん」
が了承の意を唱えると、鳳はぱっ、と目を輝かせ、「忍足さん、跡部さんに伝えといてくださいね!」

「うん、いやや」
「えっ」
「鳳だけにええ思いさせたないやん」
「お、忍足さぁん」

俺もついてったるわ、と明るい声を上げる彼に、部活の方はいいんだろうか、と少し不安になったけれど、彼らが問題ないといっているのだ。休憩だか、後はミーティングだけだか、そんな所じゃないだろうか。
先ほど、自分が立ちすくんだドアを、忍足はなんなく開け、その中へと足を踏み入れる。むわりと空気が顔へとかかり、閉鎖された空間なのだと思った。鳳も、忍足に続く。

ごくりと、唾を飲み込み、は足を振り上げた。問題ない。気のせいだ、全部、気のせいだ。トンッ、足を置く。もう一歩、トンッ

ぐにゅり。
まるで足全体を、冷蔵庫で詰め込んだ、冷たい冷たい生肉でコーティングされたような感覚に、悲鳴をあげそうになった。けれども、ただの勘違いだ。なんでもないような顔を、忍足も、鳳もしている。きっと全部、自分の気のせいだ。
感じる視線も、全て。

「早く、行きましょう」

は鳳の腕を掴み、進む。微かに彼が頬を染めた事には気づかない。触れる肌と肌がじとりと汗をかき、ぬめる。頬に、一滴の汗が伝った。

ぞわりと体中を舐めるかのような、そんな感覚。体中の毛が逆立つ。だめだ、ここにいちゃいけない。(こっちは、あかん) 不意に、兄の声が聞こえたような気がした。あのときと同じだ。ここは回り道をしなきゃいけない。駄目だ。ここは、駄目だ。

     忍足さん!」

は振り向き、自分と鳳の後ろへと、悠々と歩く彼へと、喉を震わせた。ビクリと微かに彼の肩が動き、メガネがずり下がる。

バタン

忍足よりも、そのさらに後ろへと位置していた、ガラスのドアが、風もない場所で、自然と閉まった。ガラスには三人分の影が映り込んでいた。





  

                         アトガキ

忍足ってどこ出身さ


2008.09.16