私は暗闇の中、走っていた。
違う、正確にいおう。私達は、走っていた。
はっ、と短くついた息は予想以上に大きな音として辺りに響いた。ほんの少し空気を肺の中に取り込んだだけなのに、まるでちくりちくりと体の中を、ちょっとずつ針で刺されたかのように痛い。口元から流れる真っ赤な液体は、暗闇で見えなかった。(……嘘。私達は夜道に慣れている)(けれど、見ないふりをした)
「、まだ走れるか」
暗闇の中でも一瞬キラリと光る金色に近い茶の髪をちらりと見つめて、ハッともう一度、息を短くついた。くくっ、と軽く洩れる笑みに、幾分か高めの声の少年はきっと不審気に眉を寄せたに違いない。
「ごめんね、もう無理だ」
少年に引っ張られるかのように足を引きずって動かしていた。す、と自分の腹へと手を伸ばす。ぬっとりと滑るような液体がべとべととまとわりついて、大きな穴が開いてしまっている。どうせ前を向いて走る少年には見えないのだろうけど、私は笑った。
少年の左手がするすると青いヴェールをまとった。暗くてぼんやりとした何本も何本も覆い被さるように闇を作る木々が、ほんの少しの輪郭を映す。
「だめ」
「………」
「だめ!」
今できる精一杯の声を絞り出して、私の右手を引っ張る彼の左手を、ぎゅっと掴んだ。知ってるのよ、私。アナタ、水の紋章はあと一回しか使えないんでしょう。
だめよ、自分の為にとっておかなきゃ。
足下がふらつく。右足と左足が何かに躓いては彼が引っ張る。
もう限界だ。(分かってる)
おおきな、おおきな魔力が、私たちを追う。
小さなネズミを隅っこへと追いやるように、少しずつ、少しずつ(バカバカ、しい)
「………ねぇ、私、もうダメなの」
「ダメじゃ、ない」
「ダメ。ずっとこの体を使ってきたんだもの。それぐらい、わかるわ」
「大丈夫だ、この森を抜ければ、」
「…………もう、話す事も、辛いの」
それでも、私と少年は、足を動かす事をやめなかった。私が躓く。彼がひっぱる。何度も、何度も、繰り返し。
「ねぇ、きいて」と、コフリと口元からほんの少しの真っ赤な液体を流して、私はいった。
「おねがい、その紋章で私をたべて」
アナタ一人なら、逃げ切られる
バカいうな。ひゅんっと過ぎ去る風と一緒に声が聞こえた。低く低く、喉の奥の方からすりだしたような、私よりもずっとずっと軽い怪我なはずの彼の方が辛そうに。
バカバカしくも笑いがこみ上げてきた。ねぇ、なんてバカバカしいのと。けれど、
(この、紋章は、アイツらに、渡せない)
「お願い、私の紋章ごと、たべて」
金色の髪を大きく揺らせて、彼は私を振り返った。
これ以上いうなとパクパク動こうとする私の唇をぐっと引き寄せて、色気もなにもないような口づけだ。鉄の味がする。
はっと短い息と一緒に彼の胸元へとそえていた手をぐっと伸ばして、睨んだ。
同じように澄んだ茶色の瞳が、ぎゅ、と私を見詰めた。
(逃げなきゃ、駄目よ)
泥だらけになってしまった頬をぬぐうように、ゆっくりとゆっくりと彼の目元へと手を伸ばす。するり。撫でた頬はとても、柔らかかった。
「…ねぇ、私がこんなこと出来るの、知らなかったでしょう?」 彼に呟く訳もなく、私だけに、聞こえるように。
真っ黒の中に、真っ黒な光が、溢れた。
ぐるぐると彼と私の周りに、ひっそりと大きく真っ黒に。ただでさえ大きな目を、零れそうなぐらい大きく開けている彼を見て、クスリと、私はまた笑う。「知らなかった、でしょ?」
「ソウルイーター。さぁ、食べなさい。私の命と、この紋章を」
やわらかく、やわらかく、彼の頬をするり、するりと撫でた。ほんの少しずつなくなっていく指先の感覚を確かめるように、するり、するり。
「やめろ……っ!」
「…だめ、やめてあげない」
するり、するり。まるで彼の頬を撫でるごとに、光が大きくなっているような錯覚を受けた。するり。感覚がなくなっていく。足のつま先から、ほんの少しずつ。する、り。ほんの少しずつ、動きが、鈍くなる。
「やめろ、やめてくれよ!」
「お願いよ、絶対のお願いよ。この紋章を、彼奴らに渡さないで。あなたの紋章と、私の紋章。どっちも、渡しちゃ、だめだからね」
するり、するり。
「………!」
真っ直ぐに、彼は腕を私へと伸ばす。「お願いだから、これ以上俺に背負わせないでくれ」 ほんの少しの語尾がゆるんだ言葉に、ああもしかして泣いているのかしら、と思って、するりするりと撫でていていた手のひらを、彼の瞳へと持って行こうとした。けれども残念な事に、もう、私の手は動かないどころか、真っ黒に、そまりあがっていたのだ。その中に、ただ一つ見える事が出来るのは、右手に持つあざ。それだけ。
もう一度、聞こえた。「、いかないで、くれ」
ごめんなさいなんて、いわないわ。
(私の呪いも、一緒に)
「お願いよ。絶対。一生の、お願いなんだからね、テッド」
ああなんて、長い一生、だったのかしら
はっと、目を覚ました。
小さなボロ布を腰にかけて、大きな木の下でパチパチと踊る炎を見つめた。真っ黒に光る空の色は、妙に心の中が、ざわざわする。
ただ一つ。真っ黒に染め上げられた空の色に、ただ一つ。小さな、小さな光が瞬いた(……ちがう、生まれた) 真っ赤に朗々と光る星の名前を、私は知っている。
「思い、出した」
炎の中でうっすらと見える自分に右手の甲をじっと見つめた。肌の色がそっくりと映し出されるソレは、今まで見飽きるほどに共にあったソレではない。
「
思い出した」
夢の中よりも幾分も小さな私の背。
そうか、私の名前は、っていうのね。ぼんやりと、手の甲を見つめて思う。
私の魂は、くわれてしまった、はずなのに。
(こうして生まれ変わってしまっただなんて)
星が、また輝いた。
今よりずっと昔から、私が見守る事を義務づけられた星。始まりを知る、唯一の人間。(………天魁星)(私は、未だに、運命に縛りつけられているのかしら?)
彼は今どこにいるのだろう。そして、あの紋章は。
「…………ウィンディ、あんたには絶対、渡さない…」
パチリ、と炎がはじける、音がした。
2007.10.24
2008.08.23 一部修正