彼が船から降りていく。
争いは終わった。星々はまたどこぞへ散り散りとなり、一つの乱が終結したのだ。私はこの船の中で、一人の少年と出会った。いや少年と言うには年をとりすぎていたかもしれない。見かけばかり若いあの青い服の男の後ろ姿をこの目で眺めた。
どんどんと、彼は遠くなる。彼の右手には死神がくっついている。私の右手も似たようなものだ。長い、それこそ長い時間を生きた。出逢えば別れて消えていく。また一歩、男が離れた。
不思議な焦燥感を感じた。何やら胸の奥が騒がしい。男が一歩進むごとに、胸を片手で押さえ込んで唇を噛み締めた。ふと、彼は振り返った。気づけばたまらず、飛び出していた。
行かないで。お願いだから行かないで。声を出していたかもしれない。「おわ、!?」 テッドは慌てて私を抱きとめた。「行かないで!」 とうとう叫んでいた。
互いに、真の紋章を持っている。彼の紋章は、私を喰らうことができない。だからこそ一緒にいる。そんなの馬鹿らしい話じゃないか。だからこそ、ここで別れよう。そう誓ったはずだった。困惑していたはずのテッドは、一呼吸の間をおいて、強く私を抱きしめた。だから私も抱きしめ返した。離れないといけない。遠くに行かないといけない。そうわかっているはずなのにだめだった。
弓を使っているせいか、意外にも大きなテッドの手のひらが、私の髪をなでていた。そう気づいたとき、たまらなく愛しくて、一粒、涙がこぼれた。
長く長く、旅をしていた気分だった。
紋章が、近くにあるせいなのだろうか?
記憶の底からこぼれ落ちた光景が、クリスタルの向こう側で移り変わり、消えていく。時折、パキリと小さな音がした。陰鬱な空と、清澄な空気が妙に噛み合わず、ひどくふらつく。なにか、おかしくなっていた。胸の鼓動が早鐘のように打っていて、ひどく苦しい。「さん」 声を上げた。彼なら何か気づいているかもしれない。そう思って声をあげて、一体何を考えているんだ、と首を振る。何に気づくと言うんだ。
「くん……どうかした?」
休憩しようか、とフリックとハンフリーに声をかけ、彼は私を覗き込んだ。「い、いえ、違います。大丈夫です」「……ひどい顔色だけど」 冷や汗が止まらなかった。
自分でもわからなかった。何度も生きて、死んで、紋章は私のもとに戻ってくる。それだけのはずなのに。すぐさまやってこないのは、どこかにひっかかってしまっているんだろう。ただそれだけのことなのだ。
視界の端に彼が見えた。ような、気がした。クリスタルがきらきらと光って、記憶を揺さぶる。本当に、おかしくなってしまったのだろうか。「すみません、やはり休憩させてください」 眼球を押さえながら呟くと、そうした方がいい、とは頷いた。申し訳ない、と頭を下げながら、少しずつ感情を言葉に変えていく。
以前私が死んだとき、それはウィンディに殺されたようなものだった。彼女の追手から逃亡する際、逃げようのない深手を負い、紋章を渡すくらいならば、とソウルイーターに私を食わせ、自害した。テッドを一人残して死んでしまった。
硬い岩の椅子に腰をかけて、ひとつひとつ、考えていく。竜達の解毒剤には、月下草が必要だ。その月下草には、“運がいいことにも”足を伸ばせばある距離にある、このシークの谷のみに生息している。
「……これは、罠、なのでは」
考えてみればあからさまだ。希望を見せたところで、喉元を喰らいちぎる、そんな女を私は知っている。万一、解毒剤が作られなければ、それはそれでいい。驚異である竜が、ただ眠り続けるだけなのだから。国に対して一つの武力を誇る竜騎士達が瓦解すれば、得をするものは誰なのか。「ウィンディ」 二度言う。私はあの女に殺された。
とっくの昔に、はそれを理解していたようで、特にどうといった反応はなかった。フリックと、ハンフリーも何かを言っていたような気がしたが、妙に周囲の把握が薄くなっている。ふらついた私の様子を不審に思って、誰かに何かを言われたが、首を振った。ただクリスタルの花を潰しながら、崖をのぼった。
だから、予感はしていたのかもしれない。
美しい女がいた。儚げに映るその顔は、忘れることができない。女はふと吹く風に長い髪を揺らしながらやわりとこちらを振り返った。足元には白い花が咲いている。クリスタルの光に反射して、花は薄っすらと青く、ちらちらと星のように輝いている。あれが月下草だろう。
ハンフリーとフリックはただ眉をひそめた。なぜここに、女が? そう言葉に出そうとしたとき、「お前……ウィンディ!」 の声に、すぐさま剣先を彼女に向ける。そんな姿に、ウィンディはカラカラと笑っていた。「まったく。物騒な殿方達ですこと!」 と口元に手を添えてさもおかしなことを見たかのように笑っている。崖の中で、女が一人笑っている。自分不釣り合いな光景だった。
そのとき私は何もすることができなかった。ローブの首元を握りしめた手のひらが硬く、震えていたことに驚いた。息を吸い、吐き出す。あれはただの女だ。力に狂った魔術師だ。そう心の中で言葉を繰り返して、前を見据える。
「、あなたを待っていましたよ。もう解放軍ごっこは飽きたでしょう。今ならあなたの主君であるバルバロッサ様に許しをこうことを助力してあげるわ。だから、その右手の紋章、私に渡してくれるかしら?」
からころと鈴のような声で、女はそう嘯く。「さえずるな!」 気づけば叫んでいた。相変わらず震えた指先でローブを握って、彼女を睨む。「なにかしら、おチビちゃん、あなたに用はないのだけれど」 一人きりのくせに、ウィンディはひどく優雅に首を傾げて、まあまあ、落ち着きなさいな、と赤い口元を歪ませた。「物騒なことはしないわ。ただ、あなたに教えてあげようと思って。彼がそう望んでいるのよ」 ふわり、と青いローブを風に揺らした。
つい先程まで、誰もいなかった。そのはずだった。なのにローブの向こう側には、一人の少年が立っていた。茶色い髪の男の子だ。でもどこか記憶と違う。私が知っている彼よりも、ほんの僅かに背が伸びている。バカみたいに彼のことを何度も思い出して、あれは夢だったんじゃないかと疑うこともあった。生きていてほしい、と願った男だ。テッド、と呟いた声は、と同じだった。
テッドはこちらに一歩踏み出した。かくり。かくり。まるで糸に操られているような。そう思って瞬きをしたが何も見えない。でもにこりと笑った顔は彼のものだ。テッドだった。「、ひどいじゃないか」 でも声は違った。
「一人で逃げてしまうなんて、ひどいじゃないか。なあ、俺のソウルイーターを返してくれ。俺はずっと、300年間それを持って旅をしてきたんだ。それのおかげで、老いることもなく生きながらえることができた。だから、だから返してくれよ」
お願いだ、とついと彼は右手をこちらに差し出す。ぎょっとした。気づいてしまった。「そら、わかったろ、。あんたのお友達がこう言ってるんだ。ちょっとは考えてやりなよ」 私はあんたのためを思って、こう言っているんだよ、と囁く声は、ひどくなまめかしく、まるでその通りだ、と頷いてしまいそうになる。そんなわけない。彼がそんなことを、言うわけないじゃないか。
「ソウルイーターは、かえさないよ」
だからはそう返答した。静かな声だ。カタカタとテッドの体は震えて、わあ! とうそっぱちの涙を流した。「ああ、ひどい男だね! 親友がこう言っているというのに!」 一体彼女はどれほどまでに本気なのだろう。「だたの貴族の坊っちゃんが始めたお遊びにしては、大きくなりすぎたと思うけどねえ! 随分死んだんだろう?」 いや殺したんだろう、とウィンディの言葉が重苦しく響いていく。は眉根を寄せた。ただ、それ以上、なんの返答もしなかった。つとめて、彼は冷静だった。
それに比べて、ウィンディはひどく苛立ったのだろう。思い通りにならない鬱憤に地団駄し、泣き続けるテッドを睨む。「わざわざ私が……したってのに、役に立たない男だね! もうおしまいだ。おしまいにしな! ほら、こんな花も!」 月下草だ。「こんなただの白いだけの、ちっぽけな、いらない花だなんて潰しちまえばいいんだ!」 そうすりゃの目も覚めるだろうよ、とウィンディが、足元の花を踏みにじる。いや、そうしようとした。
「……あんた、何をやってんだい?」 踏みつけたのは、テッドの手のひらだ。テッドは自分自身きょとんとして両手で守るように囲む花を見つめて、彼女を見上げる。「白い花だと言ったから……?」 何を言っているんだろう。
彼自身も疑問だったのだろう。花を守ったままにウィンディを見上げた。そうして、を見た。それから私だ。「俺は、テッドか?」 誰に問いかけるまでもない声だったのだろう。ただ、が告げた。「そうだ。きみはテッドだ」 ソウルイーターがあぎとを震わせた。
うまそうで、うまそうで、とてもうまそうでたまらない。魂を食いちぎって腹にためてやりたい。そうソウルイーターが叫んでいる。どこまでも黒く、遠く、塗りつぶされたここには覚えがある。一度やってきて、そのあと口からこぼれ落ちた。「、久しぶりだな」と、「本当に申し訳ないことをした」と頭を下げた。彼に私は見えていない。
「今はすこしばかり、ソウルイーターの力を借りることができたが、ウィンディの紋章が俺の心の奥底に入り込んで、侵食している。もうどうすることもできない。お前を恨んでいるなんて嘘だよ。むしろ、本当に申し訳ないことをしたと思っている。今から俺がすることを、許してほしいとも」
彼は右手をこちらに向けた。いつもの革袋はない。その代わりに、奇妙な紋章が刻まれている。ブラックルーンだろう。「一生のお願いだ。、お前にはこれを受け取って欲しい」 もちろん、ウィンディの紋章のことじゃない、と言葉を置いた。「そして、渡してくれ」
誰に
恐らく、紋章は空間すべてを飲み込んでいた。彼らの会話をきくことができなかったフリック達は慌てて周囲を見渡し、ウィンディは叫んだ。「テッド、はやくしな! ソウルイーターをさっさと奪い取るんだよ!」 バカバカしい、とテッドは首を振った。彼はあの日の私と同じことをしようとしている。
ふと、考えた。初めは、ただ諦めようとした。好いた男だろうとも、ただそれだけのことで、に宿る紋章を目にしたとき、彼は死んでしまったのだろうと考えた。なのに彼が生きていると気づいたらしっぽを振って喜んで涙を流した。
テッドのことが好きだ。好きという言葉で終わらないほどに、彼のことを大切に想っている。ならば、私は彼を生かすべきなのだろうか。何を壊してでも、どうしてでも、生かすべきなのだろうか。
人は死ぬ。一生分の苦しみを、彼はとっくに味わっていて、死を求めている。そんなことくらい理解している。なのにもう決めていた。理解していた。彼はよっぽどうまく、その紋章を隠したんだろう。私の紋章とブラックルーンを彼の魔力で一緒くたに、ぐるぐる巻きにして隠し通したのだ。ふいに、テッドが生きていると気づいたとき、高く、空に登った魔力の柱を思い出した。一体、なぜ。そのときは疑問ばかりが膨らんだが、ようやくわかった。彼は自身の死を天秤にかけてでも、私の紋章を守ろうとした。渡してなるものかと歯を食いしばった。
本当に。
好きで好きで、たまらない。おかしくなりそうだ。
テッドが呪文を紡ぐ。ブラックルーンに巣食われた体を灰にしてでも、ウィンディの呪縛から逃れようと、わずかばかりのソウルイーターの力を借りようとしている。その言葉に覆いかぶさるようにして喉を震わせる。言わせるものか。「主が命じる……! 我が真なる
時の紋章よ!」
「永久のその任を解放し、いっときの眠りを許す! とく、壊れ落ちろ!!」
崩れ落ちるようなその音は、クリスタルが弾けて消えた音なのかもしれない。
永く永く、付き合ってきた。生まれ落ちては死に、死んでは生まれ変わる。
いつまでも終わらない、そう思ってきた。それが私の呪いだった。
「前世、と言えばいいのでしょうか。この肉体として産まれる前のことです。私は真の紋章の継承者でした。しかし、それも私でした」
ベッドの中で、少年が眠っている。夢で見慣れたはずの彼に違和感があるのは、やはりソウルイーターをに渡している間に、彼の体が少しだけ成長したんだろう。それを見下ろす不思議な感覚に、くすりと笑ってしまう。
ソウルイーターを手に入れることができない、と気づいて悔しげに歯をすりつぶしながら、しっぽを巻いて逃げたウィンディは放っておくことにした。それよりもすべきことがある。月下草はすでにリュウカンに渡しており、その他の材料も揃った。あとは竜が目覚めるのを待つばかりだ。あとはこの少年も。
あのあと、眠り落ちたままのテッドを抱え、空を飛び越え、竜洞へと戻った。今はぎいぎいと椅子をきしませながら、と二人、彼が目覚めることを待っている。「初めはただの掃除婦でした。星でも、なんでもないただの人です。それを何度か繰り返して、気づけば星にもなって、幾度もの乱を人よりも少しだけ多く経験した。ただそれだけ」
紋章が秀でたわけでも、武術に精通したわけでも。そんなことはなにもなかった。ただ生き残った。それだけのことだ。力も知恵もないただの女の右手には、気づけば知らぬ紋章がくっついていた。それから永く時を生きたが、死んでしまえば終わりだと思ったそこにはまた続きがあった。
「私は、何度も私を繰り返しました。その度に幾人もの天魁星を見届けました。ときおり、守り人と呼ばれるようになり、あまりにも多くの争いを見てきたものだから、そのうち、彼らに関わることが面倒になってきました。でも、仕方がありません。私は、そうしなければならないのだから」
一番初めと、終わりの星々を見届ける。それが私の任だった。テッドに出会った頃の私は、終わりがない生に、とっくにやけになっていて、船の屋根裏に忍び込んでさっさと終われとまんじゅうを盗んではかじっていた。
「ソウルイーターに比べれば、私の紋章はちっぽけなものです。なんていったって、時の紋章ですから。真の紋章の保持者は、皆、己の時を止めている。真の紋章とはそういうものです。ですから、ただ不老になり、記憶を繰り返すのみの私の紋章は、なんの意味もない紋章でもあります」
力があれば、呪いがある。その逆説で、呪いがあれば力がある。私の紋章の呪いは、ただ私のみに作用するもので、無力な紋章だ。ただ生きた長さは人とは比べ物にはならないほどだったから、誰かと共にいることは怖かった。どうせいつか、みんな私を追い越して去ってしまう。辛くなる前にと姿を消して生きてきたから、テッドには何度もたしなめられた。
そう、一気にに説明して、ホッと息をついた。天井を見上げる。外が妙に騒がしく、竜騎士達が、ひっきりなしに声をあげている。竜が目覚めた。俺たちの竜が。
は壁にもたれかかった。私のとりとめもない話を彼はすべて受け入れて、おそらく正しく認識している。賢い少年だった。彼の右手には、今もソウルイーターが眠っている。
「それは、まあ、わかったよ。きみが解放軍に参加した理由も。ただきみの、その、時の紋章は砕け落ちた。間違いはないのかい?」
「ええ、かけらも残さず」
ただ、あくまでもいっときの眠りだ。この私が死ねば、またそれはやってくる。なんたって、そういう“呪い”なのだから。「じゃあ、壊れたとは言わない……のかな」「いいえ、壊しました」 首を振った。あのとき、ブラックルーンと時の紋章はまるで一体となってテッドの体を巣食っていた。彼をもとに戻すには、ブラックルーンごと、時の紋章を破壊するしかなかった。
「私が死ねば、また私が生まれるでしょう。ただそれは記憶を受け継いでいるだけで、私ではない。連続性は損なわれるはず。紋章を破壊する、とはそういうことです」
記憶がなくなることはない。それが時の紋章の呪いだからだ。ただ次に生まれるものは、の記憶を持ったただの他人だ。それは私ではない。くすりと笑ってしまった。本当は、こんなに簡単に逃れることができたのに、きっと私は怖かった。なのに今はこんなにも。「ほっとしています」
「この現世では、やっとこさ私は、人として死ぬことができる」
とても晴れ晴れとした気分だった。あまりにも長過ぎた。魂はとっくの昔に疲れ果てて、倒れ込んでいたのだ。気持ちに嘘はない。は苦笑したように私を見下ろして、もう一度椅子に座り込んだ。テッドは目覚めない。よほどダメージがあったのだろう。外傷はない。問題は体の内側だ。
はやく。はやく目を覚ましてほしい。そう願って、何度も彼の顔を見つめた。そうして眺めていたものだから、ぴくりと彼の瞼が震えたとき、飛び上がって喜んだ。「テッド!」 叫ぶ気持ちを抑えきれない。がまた小さく笑いを落としている。
ゆるゆるとテッドの瞳が開いた。そしてぱちりと瞬きの回数が増えた。「……?」 周囲を見渡して、そう言葉を落とす。は肩をすくめた。「テッド、私です、テッド!」 ぴょんぴょんと跳ねて、自分を指差す。そうしたあとで恥ずかしくなって、小さくなった。
テッドはじっと私を直視した。穴が開いてしまいそうだ。思わず下を向いてしまったとき、彼はぽろりと呟いた。
「お前…………誰だ?」
2019-10-18