彼がいなくなった世界の後で






今日から、引っ越すことになる。

「大丈夫だって、だからじーちゃん、だいじょーぶ。あっちに着いたらもっかい電話する。ん、おう。ん」 カチャン、と公衆電話の受話器を下ろした。でかい家具は据え置きらしいし、荷物だってそんなにない。大学もそろそろ二回生になり、中途半端なタイミングでの引越しだと、自分でも思う。もともと一人暮らしだったのだけれど、元の下宿先の取り壊しが決まり、いつのまにやらホイホイと別の場所に引っ越すことが決まったのだ。

とは言っても、前よりも大学には近いし、丁度タイミングよくバイトの方も終了していたし、懐もいくらか暖かかった。約一年住み慣れた家から離れるのは、多少物悲しいが、しょうがない。電車を乗り継いで、地図を片手にアパートを見上げ、ここだったな、と下見のときの記憶を思い起こした。

大家にもらった鍵を回し、部屋の中に荷物をぶちこんで、あー、とフローリングの上に座り込んだ後、また立ち上がった。コンビニ袋を片手にして、隣の部屋の表札を確認する。片方の部屋は、誰もいなかった。だったらもう片方か、とインターホンを押したら、バタバタ足音が聞こえた後「はいー」と女の子の声が聞こえてドアが開いた。無用心だなオイ。

彼女はきょとんとした顔をして俺を見た。ふと、パチン、と頭の中で音がした気がした。「?」「え?」 なんで知っているの、と瞬いた彼女に、「あ、いや、表札に名前、書いてるし」 目の端の、白いプレートに、黒文字の名前が書かれてある。

「あ、そっか」と彼女はうなずいてはにかんだ、そしてこっちをもう一回見上げて、「……どちら様です?」「隣」 引っ越してきた。と指をさす。そしたら彼女はドアノブから手をどかして、「あ、そうでしたか。えーっと、これからお世話になります」「あ、どもども」

お互い頭を下げた後、俺は手に持っていたコンビニ袋を取り出した。「そんで、お引越しのご挨拶ということで、引越しそばを」「あ、これはご丁寧に」「持ってこようと思ったんだけど、売ってなかったもんで、コンビニ弁当を」

どうぞ、と渡すと、彼女はきょとんとした顔のまま、「ご丁寧に、ありがとうございます……?」と首を傾げた。「いえいえ」 彼女はコンビニ弁当を受け取って、なんとなくお互い微妙な間があったあと、、さん? は、俺をまじまじと見た。「新入生?」「いや、それプラス1。あのー、すぐそこの大学の」「あ、私も同じです」

年齢がってことだろうか。大学がってことだろうか。ちょっと考えたけれど、多分両方がってことだろう。同い年だったら、別に呼び捨てタメ語でもいいか、ともともとタメ語だったけれど考えていた。ここらへんで、お互いの会話も途切れてしまったので、俺はそれじゃあ、と頭を下げた。「これからよろしく」 まあ、適当な感じで。「はい」と彼女も笑って、「よろしくお願いします」

近所付き合いは別に好きでもなんでもない。隣が一人しかいないんなら、それに越したことはない。じゃーな、と今度こそ手を振って、俺は自分の家のドアを開けた。隣が同い年の、同じ学校の女の子。本当のことを言うと、多少嬉しく思わないでもなかったけれど、めんどくささが勝つような気がした。何か作ろうかと思ったけれど、近場の店の場所もわからず冷蔵庫も空っぽだったので、一個余った引越しそば代わりのコンビニ弁当をもぐもぐ食べて、その日はそのまま眠った。学校は、まだ暫く休みだった。





「一人暮らしのルールと言うものを、伝授してさあしあげますッ!!」


何故か俺の部屋の前には、が仁王立ちをして立っていた。朝っぱらからチャイムが押されて、扉を開けたらこれである。「アアー?」と俺は首をかしげてあくびをした。はどこか自慢気な表情で、腕を組んで胸をはって、「まずは、ゴミ別けですッ! うちの地域では、汚れたビニール袋は燃えるゴミでもかまわなくってですね、プラスチック容器はきちんと水洗いして別に……」 うむうむ、うむうむ、と確認していたは、うむ? と首を傾げた。「えっと……全然、問題、ないですね……」「いや、大家から聞いてたし」

自治体のチラシももらったし。と既に冷蔵庫の横に張られているチラシを指さすと、少しだけあわあわした後、「お、お料理は! 店屋物ばっかりじゃダメなんですよ!」と拳を握っているので、ついこの間見つけたスーパーから買ってきた食材を並べている冷蔵庫の扉を開いてみせた。ぐぐっ、と彼女は言いよどんで、「きちんとお掃除しないと……」 と、そこまで言ったあと、きょろきょろと部屋の中を見渡す。「綺麗ですね……」 私の部屋より、ともにょもにょ言っているセリフは聞かなかったことにしてやった。まあ、引っ越してきて数日しか経ってないし。


へたへたと座り込んだ彼女に、俺は膝に手をついて、「……お前、なんなの?」 意味分かんねーんだけど。
うおおおう、と彼女は再び小さくなった。そして体育座りをして膝の間に顔をうずめる。「あの、一人暮らしが、初めてだと、中々大変だろうと、その、私は大変だったので、いらぬおせっかいをしようかと……」「よくわかってんじゃねーか」 っていうか俺、別に一人暮らしは初めてじゃねーし。

は耳まで真っ赤にして、何にもいわなくなった。体育座りをした格好のまま、ずるずると玄関に逃げていく。おーい……と思わずため息をついた。でもまあいいか、と呼び止めた。「なあ、俺、ここらへんの道とか、まだよくわかってないんだけど」

大学周辺とは言っても、あまり探索はしたことがない。やっとこさ近場のコンビニと、スーパーの道はわかってきた。はパッと顔を上げた。「案内してくんね」との前で、彼女と同じふうに座り込んで顔を覗くと、うんうん、と彼女は何回も頷いて、パッと笑った。




「はいっ、あっちがですね、コンビニでして、すぐそこに、本屋がありましてッ」
「そりゃ知ってる」
「ハッ。でしたらあっちの方にはビデオ屋さんとか、あと家具屋さんとか」
「ふーん。安い店とか、近場のバイト場とかねーの。募集中んとこ」
「えっと、それだったら!」

ビシッとは指をさして、通りがかりのスーパーに指をさす。こんなところにも店があったらしい。後で覗こうか、と考えていたら、は両手をパタパタさせて、「私、ここでバイト中ですけど、新しい人、募集、してますよっ!」「あー、さっき通ったコンビニ、張り紙してたなぁ」「じ、自分で訊いたのに……!?」

はいはい。お前、ここでバイトしてんだな、と適当に頷いて、ぽてぽてと二人で歩いた。大学の春休みは長いけれど、バイトを見つけて、金をかせいで、じーちゃんに電話をしてと繰り返していると、あっという間に過ぎていった。授業前にアパートを出ると、柵越しの一階に、彼女の頭が見えた。ぼんやりそれを見下ろしていたら、彼女はこっちに気づいて、パタパタ両手を振ってきたので、俺も片手を振り返した。あーあ、とあくびをしながら郵便受けを見て、学校に向かう。学部の知り合いと話しながら、授業を受けて、バイトに行った。テストは相変わらずめんどくさい。



「うーあーあーあー!!」

全力疾走した。
校内でのベンチで、を発見した。俺はぎょっとする彼女の肩を思いっきりつかんで、「いいか、、いいか、俺はいない俺は通らなかった、いや通った! あっちに行った! あっちに行ったとそう伝えろ!!」とガクガク彼女をゆすぶった後、即座にベンチの背に足をのせ、ひょいっと後ろの木の幹にしがみつき、するすると登っていく。枝の上から下を見れば、男のくせに濃い茶髪の長いポニーテールをした一つ年上の男が、「テッドくーん、テッドくーん!」と弁当を片手に叫んでいる。おいやめろ。マジでやめろ。

あいつはベンチの上に座っているを発見して、「ねえきみ、テッドくんを見なかったかい!?」 名前言っても分かるわけねーだろ。いや分かるけど。お前と初対面だろ。知らない仲だろ。
がぽかんとしてアルドを見ていることに気づいたのか、アルドは「あ、いやテッドくんというのはね、茶髪の二回生の少年で、えーっと青い服が好みで」 おい俺の好みとか語るのやめろ。

「あ、えっと、その人なら……あっち、に?」 と少しだけ言いづらそうに、は校舎向こうへと指をさした。「そうかい、ありがとう!」とアルドは爽やかな笑みを浮かべながら、「テッドくーん!」とまたまた恥ずかしく人の名前を叫びながら消えていく。は暫くアルドの背中を見送っていると、「あの、テッドさん……?」 こっちを見上げた。

俺はするする木から降りて、着地した。

「同じ学科の先輩だよ。いっつも一緒に飯食おう食おうってうるせーから逃げてんだ」
「えー、別に一緒に食べるくらいしたら……」
「嫌だよ、めんどくせ」

あーあ、じゃあ、食いに行くとすっか、と校内のコンビニで買った袋をがさがさ持って、中の弁当を確認すると、も同じく膝の上に弁当を出した。こっちは手作りらしい。ふとなんとなく目が合うと、はこくりと首を傾げた。「じゃあ、一緒に食べます?」

俺は暫く考えた後、「そーすっか」とわざと適当なふうに返事をして、ドサッとベンチの上に座り込んだ。お互い無言でもぐもぐ飯を食べて、そういえば、ゴミの出し方が変わるらしい、とか、あそこのスーパーは火曜日が安い、とか、そんなどうでもいい話をしながら昼休みを過ごした。




外の空気は寒いけど、店の中に入れば暖かい。俺はマクラーを外して手に持って、ピッ、ピッ、ピッ、ピッと買い物にレジを通す。財布を出しながら、首元にプレートをかけたに、「なあ、まけろよ」「無茶言わんでください」 スーパーでどうやっておまけしろってんですか。と彼女は無表情でレジをカタカタ打つ。「3561円のお買い上げになります」「はいよ」 4000円からのお預かりになります、と定型の言葉を言って、「じゃあおまけで袋多めに一枚あげます」 いらねーよ、と言おうとしたけど、やっぱりいるなと思って多めにもらっといた。

ふとそのとき、「アッ」とが小さな声をあげた。向かいのレジを見て、ぺこりと頭を下げる。なんだ? と思ってみてみると、40代後半くらいの親父がレジに立っていた。あっちもに気づいて、軽く会釈をして、また財布に目をむけた。

「知り合いか?」「あ、大学のゼミの先生ですよ」 もう一回確認してみる。ひょろりとしているように見えるが、案外そんなこともない。頬はちょっとこけている。背筋をピンと伸ばした姿を見て、たしかに学校で何度か見たような気がする。「テオ先生です」 ふーん、と俺は生返事をしておつりを受け取った。

、お前いつ終わんだよ」
「えーっと……」

8時、と呟いた彼女のセリフを聞いて、じゃあもうちょっとか。と腕の時計を見た。「じゃ、待っといてやるよ」 しょうがねーなー、と恩着せがましくいうと、はくすくすと笑ってはいはい、と片手を動かして、次の客のレジを通した。俺は一枚多めにもらった袋をひらひらさせて、同じく隣で食品を袋につめる、テオ先生を見た。どっかで見た気がする。まあだから、学校で見たんだろう。そうだろうか?
あんまりにも俺がジッと見つめていたものだから、彼とパチリと目が合った。俺は少しだけ気まずくなって目を逸らした。急いで袋を持ち上げ、とっくに暗くなってしまった空を見上げる。「さっむ……」

そういえば、マフラーを忘れてた、とぐるぐる巻いた。




「クリスマス、近いですねぇ」と隣でが白い息を吐いている。「お祝いします?」「べつに。家にいたときは、じーちゃんと色々したけど」 ツリーを作ったりとか、ケーキ食べたりとか。

「じゃあ、今年はクリスマスに、実家に帰らないんですか?」
「なんでクリスマスに合わせて帰るんだよ。正月には帰るけどさ」
「ああ、そっか……」

私も、クリスマスはアパートですねぇ、とはー、とまた白い息を出す。手袋は忘れてしまったのか、赤い指先を口元につけた。俺は左手にスーパーの袋を持って、右手でちょいと彼女の手を握った。びく、とがびっくりしたようにこっちを見たから、そのまま目を逸らした。お互い暫く無言で、「じゃあ、一緒にお祝いしましょうか」 一人じゃ、寂しいですよねぇ、とが言っている。そうだな、と俺は小さな声で呟いた。そうですね、と彼女は言った。
ふと、アパートの前に着いたとき、アパートから見覚えのある女性が出てきたものだから、俺達は慌てて手を外して距離を置いた。

長い茶髪の女性は、俺達を見て頭を下げた。思わず俺も頭を下げる。同じアパートの人だと知ってはいるけど、名前は知らない。「オデッサさん、ですよ」と彼女が通り過ぎて、が俺の心情を理解したように教えてくれた。確か、そんな名前だった気がする。玄関に並んだポストに名前が書いてあった。
「彼氏さんがいるそうなんですが、今はちょっと離れたところにいるので、遠距離恋愛中なんだそうです」「いや、別にそれはどうでもいいんだけど」

なんで女ってのは、こういうどうでもいいことに興味を持っちゃうのかね、との手をもう一回握ると、彼女もぎゅっと俺の手を握った。





春も夏も過ぎて、冬になって、俺の部屋で、ぱんぱかぱーん、両手を叩いている。ぱちぱちぱち。ぱち、ぱち、ぱち……「楽しいか? それ」 一人で拍手して。
あんまり……とはしょぼくれながら、「どうぞ、ケーキでございます」と白い箱を献上してきた。「うむ」と俺はうけとって、今度は俺が反対に、「どうぞ、チキンナゲットでございます」「うむむ」

しょぼいと言えばしょぼいが、別にそんな盛大に祝いたい訳でもないし。テーブルの上に置いて、まだ、腹は減ってないなあ、とお互いテレビの前に移動して、ポチッとボタンをつけた。どこもクリスマス色に溢れてた。はピタッと俺の体に密着して座った。近いんですけど。「さん、近いんですけど」「ん」 ん、じゃねーよ。

「すっごい今更なんですけど、ここ、俺の部屋なんすよ」「はい」「密室ですよ」「うい」 適当に返事すんな。「男の部屋に、クリスマスにいるんですよー」

お互い顔を見合わせないで、じいっとテレビを見た。はまたピタッと俺にくっついた。「食べちゃいましょうか」、と思わず言ってしまった。別に、机の上のケーキのことじゃない。はやっぱり返事をしなかった。あーあ、と俺はため息をついた。「お前、他の奴にもこんなことしてんのかね」 なんとなく、声を漏らしたら、「違う」と短い返答が聞こえる。「テッドさんだけ」 こういうときだけ返事するし。あーあ。

そうかい。と俺は返事して、床の上に座布団をしいて座って、また暫くテレビを見続けた。がこてんと俺の肩に頭をつけていた。長い長いため息をはいて、パンッと膝を叩く。「おっしゃ、腹減った、食べるぞ」 テーブルの上に移動するように立ち上がると、「おうっ」とも拳を握った。

で、なにから食べるよ、ケーキは最後だよな、とテーブルの上のごちそう(と、言ってもいいレベルか知らんが)を見ながら、冷蔵庫の蓋を開ける。麦茶しかない。まあいいだろ、と取り出したとき、椅子についていたが、ぽそりと何かを呟いた。「テッドさん」

あん? と俺は顔をしかめた。が真っ赤な顔をしていた。名前を呼ばれた訳じゃないことはわかった。ぼとん、と手から麦茶をおっことしてしまった。ごろごろ床の上に転がる麦茶のボトルを拾いながら、俺もじわじわと顔を赤くしていった。何から食べるよ。テッドさんから。「お前ね」 まったく、お前ね。

「本気で言ってんの」 うん、とは赤面したまま頷いた。「ああそうかい」と俺は投げやりに近づいた。の椅子の背もたれに手を置いて、座ったままの彼女にぐんと顔を近づける。少しだけ考えた。多分俺は難しい顔をしていた。は俺をみないで、じいっとテーブルを見つめていた。「こっち見ろよ」 ちらりと彼女がこっちを見た。

「味見くらい、先にしたって問題ないだろ」

言葉の意味を、少しの時間を使って噛み砕いた彼女は、小さく頷いた。彼女の髪をかき上げると、うなじまで赤くなっていた。俺は腰をかがめて、何度かにキスをした。一回した後、もう一回。二回、三回。時間はいくらでもあったから、今度は隣の椅子に座って、彼女を抱きしめてキスをし続けた。

ぷは、とが苦しそうに口を離す。けれども俺がもう一回、と顔を近づけたら、彼女はぶるぶる首を振って、ぽすんと俺の胸の中に頭を置いた。俺はちょっとだけ息を吐き出して、天井を見つめながら、ぽんぽん、と彼女の頭を叩いた。

テッドさん、とが小さく呟いてる。「お前さ、テッドさんっての、そろそろやめろよ」 いつまで敬語なんだよ。
は恐る恐る顔を上げて、困ったような顔をした。それから小さく、テッド、と呟いた。よしよし、と彼女を撫でているとき、バキバキバキ、と何かが頭の中で崩れた。ひどくしびれた。「なあ、、前にも、同じこと……」 なかったっけ、と最後まで言葉を言うことができなかった。

苦しい。右手だ、右手が、と彼女を抱きしめる右手を見た。けれどもそこには何もなかった。挙動不審に顔を動かす俺を、は不思議そうに見つめた。
俺は彼女を食べてしまうと思った。右手が彼女を食べてしまう。でも右手はそこにない。なんで、なんで、と思ったとき、ふと、彼女の死に顔が見えた。






ごろん、と彼女が横たわっている。少しずつ、何かが消えていく。俺は震えて、彼女の名前を読んだ。彼女は、ちょっとだけ瞳を開けた。怪我をしている訳ではなかった。けれども、何かが足りなかった。俺が食べてしまったから。右手が食べてしまったから。「」声をかけた。大丈夫、と彼女の口が動いている。そんな訳なかった。だって、今から彼女は死んでしまうから。「」 名前を呼んだつもりだった。けれども俺の声は涙混じりで、きちんと彼女の名を呼ぶことができなかった。

彼女はだいじょうぶ、ともう一回言った。そうして、ゆっくりと瞳を閉じた。俺は彼女を抱きしめた。手のひらが震えた。食べてしまった。
食べてしまった。
俺が彼女を食べてしまった。


気づくと、を力いっぱいに抱きしめていた。「テッドさん? テッドさん? ……テッド?」 が、俺の名前を呼んでいる。どうしたの、と言っている。俺は返事をしなかった。ただ力いっぱい彼女を抱きしめた。「ごめんな」と呟いた。ぼろり、と一つ涙がこぼれたら、ぼろぼろと留めなく全部が流れていった。

はただ、不思議気に、心配気に、俺を見た。俺は何を言うこともできなかったし、何を言えばいいかもわからなかった。だから、ずっとごめんなと謝った。彼女はぽんぽん、と俺の背中に手を回して、大丈夫だよ、と言い続けた。テッド、大丈夫だよ。
怖くなんてないよ。







「テッドー! ニュースニュース!」


が嬉しそうに、ドアの前でパタパタと手を振っている。なんだよ、と俺は軽くあくびをして、ズボンの中に手をつっこんだ。「もー、なにしてるのー」とは呆れたように俺の背中を叩いて、くちゃくちゃの髪の毛を手ぐしでなおしてくれる。「なんなんだよ……朝っぱらから……」「だから、ニュース!」

「テッドの部屋のお隣にね、新しい人が来るんだって!」

まじかよ、と俺は呟いた。驚きじゃない。めんどくさい気持ちから。隣の家の住人が増えるだなんて、めんどくさい。「ああそうかよ……」と力なく声を落とすと、は俺の反応に不満だったらしく、む、と眉を顰めた後、「ニュースはそれだけじゃありません。実は!」 ビシッと人差し指を立てる。「新しく来る子は、テオ先生の息子さんなんだって!」

テオ先生。
暫く前に、スーパーで見かけたあの人だ。「いつ」「え?」「いつ来るんだ」 俺の返事に、ふふん、とが嬉しげな声を出す。「実は、今日からなのです」

俺はバタバタと部屋のドアを飛び出した。
二階の柵に手をかけると、一台の車が入り口の前にやってくる。その中から、あのテオという男と、金髪の男と、黒髪の少年が出てきた。俺はジッと彼らを見下ろした。「坊ちゃん、一人暮らしだなんて、本当に大丈夫なんですか、やっぱり今のまま、一緒に暮らしましょうよ」と金髪の男が不安げに声を出して、「今更何言ってるんだよ」と坊ちゃんと呼ばれた少年がカラカラと笑っている。

いつの間にか隣にいたが、首をひねりながら俺を見ていた。
けれども俺は、少年を見下ろし続けた。

ふと、その少年が、こちらを見上げた。ぱきり、と胸の奥で、何かの音がする。じっと俺達は見つめ合った。テオと、金髪の青年の青年が彼につられてこちらを見る。隣でがちょっとだけ気まず気にあわあわしていた。

何故かわからない。
なんでなのか、自分でも本当にわからない。
けれども俺は、彼にでっかい声をかけていた。
そうか、お前もこっちに来たのか。そう心の中でつぶやいていた。

     おつかれ!」

少年は、きょとん、と瞬いて、首を傾げた。そしてああ、と納得したように頷いて、「引越しが?」 多分、そう言ったんだろう。声は聞こえなかった。ぱくりと動いた口から、そう判断しただけだ。

「きみは?」

そう言って、少年は問いかけた。「テッド!」 俺は答えた。「テッドだ! こいつは!」 が慌てたように頭を下げた。「そう、俺は!」
坊ちゃん、こんなところで大きな声を出しちゃいけませんよ、とまるで母親のように金髪の青年が言っている。そうだね、グレミオ、と彼が、は苦笑した。けれども最後とばかりにこっちに顔を上げた。「テッド、これから、よろしく!」

ああ、と俺は頷いた。
力の限り頷いた。

おつかれ。
お前も、やっとこっちに来たんだな。



おつかれ、





(彼がいなくなった世界の後で)