彼がいなくなった世界の後で



「テッド!」

この頃、奇妙な夢を見る。




テッド、と彼女は笑って、俺の服にくっついた。俺は妙な服を着ていて、彼女のことが好きで好きてたまらないけれど、無視をした。どうでもいい人間のように扱った。けれども彼女はいつも俺にくっついてきて、テッド、テッドと名前を呼ぶ。

ふと、手を伸ばしてしまいそうになった。けれども駄目だ。なんで駄目なのか分からない。でも俺は駄目だ。人を好きになっちゃいけないんだ。なのにどんどん好きになる。逃げたいのに、逃げられない。けれどそんな自分に、少しだけしょうがないと思っている自分もいた。だって、こんなに可愛いんだから。
可愛いんだから。仕方ない。

俺は夢の中で彼女の髪の毛をちょんとつかんで、口元にくっつけた。いけないことだとは知っていた。彼女はぎょっとしたような顔をして、でもちょっとずつ嬉しそうな顔をして、やっぱり俺の名前を呼んで、「…………」 ぱちっと目を覚ました。



布団の中で、ぼんやりと天井を見上げた。
またこの夢だ。が出てくる。俺は何かをずっと我慢してた。何を我慢していたかはわからなかった。頭の後ろに腕を組んで、窓の外から朝の光が漏れている。がごろんと俺の胸元にのっかかっていた。夢の中でも彼女に会うのに、現実だってここにいる。俺は軽くため息をついて、ぽんぽん、と寝ている彼女の頭を撫でた。俺、どんだけ好きなんだよ、と誰にも聞こえない小さな声で、ぽつりとぼやく。

彼女と出会って、一年が経っていた。




ガチャン、とドアを開ける。すると丁度向こう二つのドアが開いた。俺の部屋のドアを挟んで、とかいう新しい住居人がこっちを見ている。「あれ、そこ、きみの部屋じゃないよね?」 多分、わかっているくせに確認してるんだろう。俺はとりあえず無視をすることにした。「うっわー、朝帰り? やらしーなー。ほんっとやらしいなー」「うるせぇよ」 しかし思わず返事をしてしまった。

はにまーっと笑った後、てこてことこっちに寄ってきて、俺がの部屋のドアを閉めて、ついでに鍵もしめている間に、「俺も仲間に入れてほしいなー、うらやましいねーホント」「三人でしろってか。死ねよ」 そんな趣味ねぇよ。

「え? 俺そんなこと一言も言ってないんだけど。うっわーホントやらしー」
「……お前ほんと黙れよ」

このという男も、俺とと同じ大学で、ついでに学年らしい。学部と学科は違うから、キャンパスの中で会ったことはない。人のことは言えないが、三回生のこの時期に移動とは、奇妙なことだ。ついでにいうなら、親父も近くにいるのだから、なんでそっちに行かないんだと訊いてみれば、「成人したし、独り立ちしようと思ってね」とカラカラ笑っていた。金持ちのお坊ちゃんは違うねぇ、とからかい半分に言ってみると、「あれ、なんでわかったの?」ときょとんと瞬きされてしまった。そんな風にあっさり返されてしまったら、なんだかこっちが拍子抜けである。軽く流されてしまったように感じた。



「大学に行かねえのかよ」 さっさとあっちに行け、と言う意味で言ったのに、「うん? ちょっと早く起きただけだからさ。それより君とお話したいなー」 俺はしたくねぇよ。

初日によろしく、とお互い挨拶をしたものの、なんだかいけ好かないというか、相性の悪いやつだった。話しているうちに、どんどん振り回されていく。こういうタイプは苦手だ。

キーホルダーのついた鍵束の中から、自分の部屋の鍵をだそうとしたのだけれど、手袋をしているものだから中々うまくいかない。やりずらいな、と舌打ちをしながら鍵を取り出すと、その後ろでは鞄を抱えたが、じいっと俺の右手を見つめていた。「手袋、とったら?」 そっちの方がやりやすいじゃん。


何故かギクリとした後、ああそうか。と俺は思った。そうしたら楽にできるにきまってる。「おう」と俺は頷いて、右の手袋をはずした。がこっちを興味深げに見たまま、「もう春なのに、邪魔じゃない?」「邪魔だな」 自分でもそう思う。でも、何故かつけてしまう。

「手袋してると、なんか安心すんだよ」

なんだか子どもみたいだけど。
おそらく、は笑うに違いない、と思った。小さな子どもが、赤ん坊のころから持っていたタオルを握りしめて、安心しているような、そんな現象に違いない、と笑うと思った。けれどもちらりと横目で見た彼は、どこか真剣な顔をしていた。俺がパチリと瞬くと、そんな顔はどこかに崩して、「実はそれ、俺もちょっと分かる」 なんでかわかんないけど、あるよね、そういうこと。と笑った。


俺は少しだけ意外な気持ちで、そうだな、と返事をした。そのとき、カチャン、と鍵が開いたものだから、部屋の中に入ろうとしたのだけれど、隣の部屋からバタバタと足音が聞こえたのだ。そしてすぐさま鍵が開く音がして、バタンとドアが開かれる。きょろきょろと顔を覗かせていたが、俺を見て、パッと嬉しそうに笑った後、その後ろのを見て、慌てて頭を下げた。

「あ、おはようございます!」
「うん、おはよう。ところでちゃん、腰とか痛くない? 二十歳の男って、ガツガツしてばっかでやだよねー」
「え、あ、え、え、えう!?」
「おい、相手すんな」

あわあわと狼狽しながら、思わず腰辺りを押さえるを見て、ため息をついた。「セクハラで訴えるぞ」「ちょっとしたコミュニケーションじゃん?」「マジで滅びろ」

あーあ、とため息をついたは、俺とに目を向けて、ふるふると首を振る。「あー、冗談抜きで羨ましいなぁ」 俺も彼女作ろうかなー、とはうんうん唸って、ついでにちらりとを見た。「ちゃん、俺なんてどう?」「お前はバカか」「あ、いや私、もうテッドがいるんで……」「お前も普通に返事をするな」

そっかー、じゃあ残念だけどまた今度ねー。はいーまた今度でー。とほのぼの会話をする二人を見ていると、なんだか頭が痛くなってきた。ツッコミ疲れである。「あ、そろそろ行かないと」と腕時計を確認して、じゃあね、と手を振って階段を降りていくの背中を見送ると、どこかが嬉しそうな顔をしていることに気づいた。「どうした?」「テッドとさん、仲がいいなぁ、って思って」

友達ができるのは、嬉しいねー、とほのぼの笑っている彼女の頭を片手でぐりぐりする。「どこがそう見えるんだっつの」「み、見えるよー」 ぐしゃぐしゃやめてよー、と文句を言う彼女の額にデコピンをして、「そいじゃあ俺、三限からだから、弁当はいらない」「ん、わかった」

じゃ、また夜ね、とパタンとの扉が閉まる前に、思わずひょいっと手を伸ばした。え? と首をかしげる彼女の玄関に入り込んで、後ろ手でドアを閉めた。の顎を掴んで、軽くかがむ。

ぷは、とが息を吐き出した。
何回しても、毎回同じように彼女は息を吐き出して、ちょっとだけ苦しそうにする。「じゃ、また夜に」 返事を待たずに、ドアを開けて、自分の部屋に戻った。


(友達、ねぇ……)

別に、そういう訳じゃないんだけど。
でも、別に、不快感がある訳じゃない。


今度、飯にでも誘ってみようかな、と考えて、冷蔵庫の中身を確認した。