彼がいなくなった世界の後で




「あーあ……」と、俺は目元の眼鏡をカチャカチャしながら、手元のノートを見つつ、かりかりとシャープペンシルを動かした。めんどくさい。やってられない。しかしながらやらなければならない。
半年に一回。年に二回。
やってくるテストの猛威に振り回されながら、暗記系は、めんどくせえなぁ、とぶつぶつ言葉を漏らした。やってられない。

ガチャガチャ、と玄関で鍵が入る音がする。別に振り返りもしなかった。多分、相手が誰かわかってるし。カチャン、と鍵が回って、ドアが開いた。とんとんとん、と軽い足音がする。「テッドー?」 いるー?

「おーう」、と自身の彼女に返事をするように、背中をむいたまま、はたはたと片手を動かした。が近づく音がする。「あれ、勉強してるの?」「おうよ」 くるり、と振り返ったら、彼女がギョッとした顔をした。なんだ? と眉をひそめたら、ビシッの顔を指さして、「テッド、眼鏡!」「ああ?」

ああ、と鼻の頭の部分を親指で押し上げた。「授業中だけな。知らなかったっけ?」 ぶんぶんぶん、とは思いっきり首を振って、物珍しげにまじまじとこっちを見る。パタパタと四足でやって来て、じいっと押しかかるように見ている。近い。お前、キスするぞ、と顔を動かそうとしたのだけれど、眼鏡が邪魔だと、外そうとしたら、「あ、だ、だめ、だめ」と両手で俺の手のひらを押し付けられた。なんなんだよ。

ぐいぐい眼鏡が鼻の頭に当たって、なんだか気持ちが萎えてきた。そのくせに、は興味津々という顔でこっちを見ている。「え、テッド、目、悪いの?」「いや、別にそこまでは……つーかお前、くいつくなぁ」 そんなに気になるのかよ、とため息をつくと、今度は直接つるに手を伸ばしてきた。おい、やめろ。

ガチャン、と扉が開く音がする。「おーいテッドー? ちゃーん?」 だ。「はーい」 なんで俺の部屋なのに、お前が返事するんだよ、と思いつつ、ごそごそ離れるを見て、俺はもう一度テーブルの上のノートに目を向けた。

のすのすとためらうことなく入ってきたは、俺の顔を見て、うおお、と指をさした、そして、「テッド、眼鏡!」 とおんなじ反応してるし。「え、テッド、目、悪かったっけ?」「だから同じこと訊くな」「えー」 何のこと。ときょときょとしながら、は俺を挟んでと反対の位置に座る。俺は若干の気まずさを覚えながらくるくるとペンを回して、ちらりと左右の男女に目を向けた。

「……お前ら、試験勉強はいいのかよ」
「えっと、私は今回レポートばっかりだったから」

テストはあんまりないんだー、とにこにこ笑うに、そりゃよかったな、と声をかけて、あんまり気が進まないなと反対の男を見る。は妙に堂々とした態度をとって、ぐいっと胸元に親指を押し当てた。「聞きたい? 聞きたいかい?」「いや別に」 、だったら晩飯作ってくれよ、と声をかけると、「いやいやいやいや」「……お前な、何なんだよ」 言いたいならさっさと言え。

はかりかりと黒髪をひっかいて、「いや、俺ね」と照れなのか自慢なのか分からない顔つきで、「二回生のときにさ、めちゃくちゃに授業を入れまくっちゃって、単位はもうほとんど取っちゃったから、あとは必修しかないんだよねぇ」

ははは、と両手を合わせて笑っている。そりゃよかったな、と思わず呟いて、くるくるペンを回した。アホというか、賢いというか。「えっ、さん、すごいですねー」「でしょー? でっしょー?」「でもそれ、ちょっと暇ですねぇ」「ああうん、まあ……」

ちょっとって言うか、結構暇かな……とポリポリほっぺたを引っ掻いている。暇なのか。バイトにでも行け。「っていうか、こっちの邪魔すんなよ」 さっさと出てけ、とパタパタ手のひらを振ると、「そうだねぇ、テッドの邪魔だものねぇ」とは腕を組んで、うんうんと頷いた。そして、パッと立ち上がったと思うと、の腕をひっつかんで、
「という訳でちゃん、俺達はテッドの邪魔をしないように、隣に行こうか!」
「え? え、え?」
「じゃあそういうことで! ちゃんは借りるよ!」
「え、あの、ちょっと」

ばいばいきーん! と敬礼をして、どうしたもんだとこっちを見るを引き連れ、はガチャン、とドアを閉めた。思わず俺は頭を抱えた。突っ込みたい箇所はよくよくあるものの、「ばいばいきんってなんだ……」 お前それ、去り際のセリフで、本当に後悔しないのか。

まあ、別に出て行ってくれるならそれでいい。こっちも勉強に集中できるというものである。
俺はカチャリと眼鏡を動かし、気づけば勝手にため息をついていた。カリカリ、とシャーペンを動かす。文字を書き写す。カリカリ。くるくる。シャーペンを回した。くるくる。くるくるくる。「…………」 気づけば、眉間に皺がよっていた。

額が妙にひきつる。ぐりぐり、と親指で圧迫させて、もう一回、とノートを覗いたとき、隣から声が聞こえた。『さあ、ちゃん……恥ずかしがらずに……きみの全部を見せてくれよ……』 の声である。俺は無言でコメカミに人差し指を当てた。どう考えても、わざと言っている。たとえ、部屋の壁が薄かろうとも、これだけはっきり聞こえるのはおかしい。こっちに向けて、大声でしゃべっているんだろう。他の住人にも迷惑だろうが。

え、あの、さん……? と困惑気味のの声が、かすかに聞こえる。俺は勝手に瞳をすがめて、手のひらの裏で頬を支えながら、ぴくり、と瞼を震わせた。『ほら……いいね、恥ずかしがっているきみもいい。でも、これはゲームだ、きみは負けたんだ。きちんと俺に……そう、俺に、全部を見せてごらん……』 だからわざとである。どう考えても、わざと言っている。「…………」

ちゃああああん!!!!!』

激しく、ノートを壁に叩きつけた。


ついでに眼鏡もテーブルに叩きつけて、おもくそに立ち上がり、蹴るように扉を叩いて隣のの家に押しこむ。靴を脱ぎ散らかし、部屋の真ん中に座り合って、こっちをあれ? と言う風に見つめている二人のうち一人が、ひょいっと片手を上げた。「テッドもする? トランプ! っていうかダウト!」「ざぶとんかよおおおおおお」

お約束だと理解していたが、想像以上にお約束だった。ちゃーん、俺、ちゃんとダウトって言ったんだから、きみの手札を見せてよー、恥ずかしがらずにー、ほらほらー、と言うの首を後ろから締め上げて、「っていうか、二人でするゲームじゃねえだろおおおおお」

あ、いやテッド、ほら私、ポーカーとかわかんないからさんが合わせてくれたんだよ、ほらほらテッド! とどうどうとこっちに手を振るの隣に、俺はため息をついて座り込んだ。「まったく、何を勘違いしたんだよ、いやらしい男だなきみは」「何も勘違いしてねーよ。ただお前のべたべたさにツッコミを入れたくてたまんなかったんだよ」 想像以上なベタベタである。

「テッド、お勉強は?」とがちらりとこっちを見てきた。うう、と俺は唸った。ちらり、と隣でニヤニヤする男を見る。は手元のトランプをぱさりと広げてみせながら、「テッドくんもするかい? トランプ」 わざとらしい口調だ。

俺は考えた。考えて、考えて。「ざぶとん以外な。三人でも、どう考えてもつまんねーだろ」「了解」 じゃ、何にしようか、とカチャカチャとカーペットの上に散らかったトランプを集めるを横目で見ながら、こそりとが耳打ちする。「テッド、お勉強、いいの?」「ばーか」 ビシッと額にでこぴんした。「普段から真面目にやってっから、ちょっとくらいいーんだよ」

びっくりしたように額を押さえるは、パチパチと瞬きをして、「そっかぁ」「おう」 まあ、問題ないだろう。「はいはいちょっと。俺を無視しないでほらほら、何にする?」 カシャカシャと手際よくトランプをシャッフルさせるに、はーい、とが手を上げた。

「あの、大富豪!」
「三人だろ? じゃあババ抜き」
「いやテッド、大富豪もババ抜きも三人じゃ同レベルだと思うけど。寧ろここは、ジジ抜きで」
「俺に抜けろってか。ふざけんな!!!」


「あの、なんでテッドが怒ってるの……?」とこっちをきょとんと見るを見て、たしかに、と思った。何故俺はキレたのか。「ま、とにかくジジ抜きにしようじゃない」 抜くトランプは、これに決めたー、と言いながら、トランプケースに一枚のカードを入れるを見つつ、ううん、と俺は頭をひねった。「なんだかムカツク名前なんだよな、ジジ抜きって」「だからなんで、テッドが怒るの」

テッド、おじいちゃんじゃないでしょう。と言った彼女のセリフを聞いて、そうなんだよなあ、なんでだろうなぁ、と俺はうんうん唸りながらから配られたカードをもらって、うーんと首をかしげながら、手札を確認した。
まったく、わからん。
しかしむかつく。