どっぷりと日が暮れた道を、私は歩いていた。
08
空に映る夜空の中に、ぽつんと大きな月があった。先ほどまでの事を思い起こそうと、私はうっすらと瞳を閉じて、またパチリと開ける。目の前に広がる長い道を歩きながら、近くで流れる川のせせらぎが、耳に響いた。
帰り際、お店のショーウィンドウが、突然割れた。私をのぞく店員のほとんどが帰宅していたためと、道ばたに人通りが少なかった為、けが人はいなかったが、その散々たる状況に、おじさん基店長は、いつもは薄い瞳を大きくパッチリと開けて、一体何が起こったんだと極限まで開かれた口の中からそう呟いていたような気がする。
とにかく、散らばったガラスを集めながら、ガラスに段ボールをガムテープを貼り、誰かに石でも投げられたんじゃないかと警察まで来てしまった。
暗くなって悪いんだけど、もう家に帰りなさいと追い出されながら、あれはただの悪戯ではない事を知っているのは私だけだ。直前に大きく店に溢れた魔力の匂いに、念のためと警戒して遅くまで残っていたっていうのに、まったく情けない。黒い影がひゅっと通ったかと思えば、ぱりん!
(………一体何が起こっているんだろう)
大きな鳥、水の中で渦巻く何か。魔力の匂い。はじめは、微かな異変だった。けれども気づけば、少しずつ、町中に溢れる小さな気配。
例えるならば、眠りについていた何かが、いきなりパチリと目を覚ますのだ。そして、少しずつ、目が覚めた何かの数が増えていく。
「クロウカード」
どこかで聞いた事のあるその響きは、きっと母からだ。今となっては彼女に訊く事は出来ないが、うっすらとその全体は理解している。おそらく、おそらく彼らは、自分の主を捜している。
その主も、あらかた分かってはいるのだが、踏み出すきっかけが見つからない。今日のような事は、確かに困る。困るのだが、私にも私の生活があり、妙な事に首をつっこむ事は、少々不本意だ。
けれども、なけなしの善意が、チクチクと胸に針を刺す。
「………ああ、どうしろっての」
丁度そう私が呟き、額へと手のひらを合わせた時だった。ざっざっ、と聞こえる誰かの足音の顔を上げると、にゅっと大きな、銀色の髪をした青年が、口元にパクリと涼しげな色をしたアイスをくわえていた。
「ふあ」
人語とは到底思えないうめきを、彼は呟くと、片手に持つコンビニの袋の反対の手で、薄茶色に伸びたアイスの棒を持ち、すぽんっ、と口から引っこ抜く。何なんだこの人は、とじっと半目で見詰めていると、「こんばんは」とまったくもって人畜無害な表情で、にこりと微笑まれてしまった。「………こんばん、は?」
まるで知り合いに出会った時の反応のように、手に持つコンビニの袋をさっ、と私の前に持ち上げて、「いる?」
いえ、結構です、とパタパタ手を振りながら、人の良さそうな彼の表情を見て、ああ、と一つ思い出した。
「月城さん」
「うん、さんだったよね」
「はい」
頷いた私に、もう一度彼は笑って、「いる?」とアイスを一本差し出した。普段ならいりません、と断る場面なのだろうが、いつの間にかパッケージから取り出したアイスは、熱されてぽたりと地面に軽い滴を作る。さっさと食べなきゃもったいない。と思って、頂きます、と手を伸ばす。
「さんは、なんで? ぼくはちょっとお腹が減って」
「あ、はい、用事でちょっと。今から家に帰る所なんですが」
「そっか、じゃあ送ろうか」
「や、結構です」
「危ないよ」
「問題ないですから」
「僕が桃矢に怒られちゃう」
何処まで本気なのかよく分からなかったけれど、月城さんは始終にこにこと、ある意味有無のいわさない笑顔とは、こんなものをいうのだろうか、とこっそり考えてしまった。むっつりとした表情で我を通す先輩もそうだが、彼も非常にやりずらい。にこにこさんとむっつりさん。随分面白いペアが組み合わさったものだと思う。
私は半分諦めて、「はぁ、じゃあお願いします」と頭を下げた。これが桃矢先輩だったのなら、申し訳なさすぎる、と考えて、死ぬ気で逃亡していたんだろうけれど、月城さんは、本当に断りにくい。
口の中にアイスを放り込むと、久しぶりの甘い味と冷たくて口の中をちくちくするような感覚に、頭の中がほんの少し痛む。
「月城さんは、先輩と、同じ高校なんですか」
「うん、そう。さんは、友枝小の、付属中学の方なんだよね」
そうですけれど、なんで知っているんだろう、と見上げると、にこりと「桃矢がね、こないだ」 正直、他人の口から自分の事を語られると、背中辺りが、少しむずむずする。
「あ、他に、何かいってましたか、先輩」
「なんで?」
「えと、いつもお世話になったりとかで、なんていうか、気になるっていうか」
しゃり、とアイスを噛みしめると、ソーダ味の酸味が広がった。「そうだなぁ」と考える月城さんを見ながら、ほんの少し、視線が沈んでしまって、「やっぱり、いいです」
気にはなるけれど、なんだか陰口みたいで、やっぱり背中がむずむずする。
「いいの?」
「はい」
「でも気になる」
「え、はい」
「大丈夫、変な事は聞いてないよ」
たぶん、と静かに彼の言葉のお尻に付け加えられた言葉には、聞かないフリをさせてもらったけれど、じゃあ変じゃない事を聞いたのか、とまた聞いてしまいたくなったのを、口の中に突っ込んだアイスと一緒に棒を噛みついて、我慢した。
静かに流れる水の音と一緒に、とすとすとす、と軽い二人分の足音が響く。
「あのね、ぼく、桃矢ってさんの事、すきなんだよ思うよ」
いきなりの言葉に、少し驚いて目をぱくちりとさせていると、ね、と彼は首を傾けた。取りあえず一緒に、はぁ、と頷くと、「だからね」と彼は続ける。
「さくらちゃんとか、すきな子が困ってると、ほっとけないんだよ、桃矢は。だからきっとお世話しちゃうんだと思うよ」
さんは、桃矢にお世話されちゃうの、嫌い?
ふと彼の投げ出された言葉に、嫌いじゃないな、とは思う。嫌じゃないのだ。けれども、苦手だ。ガリ、とほとんど溶けたアイスの棒を、奥歯で噛んだ。
「………嫌いっていうか、申し訳、ないというか」
「申し訳ない?」
「はい、とても。ご迷惑になっているのは、分かってるんですけど」
けれども、私は一人の力では、しゃんと立てる事は出来ないのだ。どうしても、余裕がない。だから先輩も、きっと思わず手を差し伸べてしまうんだと思う。
もっともっと、上手に取り繕う事が出来たらと考えても、やっぱり私には無理で。肉体的には無理でも、さっさと精神的に大人になりたい。
さくらちゃんを、守る桃矢先輩のように。もっともっと、他人にまで手を貸せるような、人間になりたい。
随分沈んだ考えを持っていた時、「こら」と小さく、ぽこんっ、と頭をぐーで殴られた。もちろん月城さんにだ。まったくもって痛くないような、弱々しいパンチというか、タッチに近かったのだろうけれど、予想外の人に予想外の行動をされると、一瞬思考が止まってしまう。ぱちぱちぱち。何回瞬きを繰り返しただろうか。
「いいの、迷惑でも。そこら辺になってくると、年上のメンツってものがあるんだから」
「は、め、メンツ」
「うん、メンツ。後輩には、格好良く見せたいものでしょ」
特に桃矢は、意地っ張りだからね。と、あんまりにもらしい言葉と一緒に、「そんな訳で、年上のメンツとして、もう一個、アイスいるかな?」
がさり、と大きな音をするコンビニの袋を、一番最初と同じように、私の目線の高さまで、彼は持ち上げた。「……おなかいっぱいなので、いらないです」 思わず、くすり、と笑いながら、同じように笑いながら揺れる月城さんの肩を、見詰めた。
ふいに、匂いが立ちこめた。
まるでここら一体をくるりと包み込んだような、甘い魔力の匂いは、ちゃぽんっ、と大きな音がなる水の中から立ちこめる。思わず振り返り、私は駆けだした。半分条件反射のような行動を取って、手に持っていた、アイスの棒は、投げ出していて。
がさり、と大きな音が、背後に響いた。なんだ、と振り返る瞬間、銀色の髪が、驚くほどのスピードで私の隣を駆け抜ける。月城さんだ。彼が、袋を投げ捨てた音。
目の前に、小さな女の子が慌てたように立ちすくんでいた。川につけている手すりを乗り越えるような体勢をとり、「あぶない!」 思わず口から出した声は、何に対してか。
なんの戸惑いもなく、月城さんは、川の中へと飛び込んだ。