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先輩の長い足がひゅんひゅんと道路を渡っていく。しかしいつまでも米俵になっているわけにはいかない。札を使うまでもない。一本、指を立てた。
「風華招来……!」
体中に薄い風をくるくると巻いて、すっぽ抜けたところで、桃矢先輩の背中を両手で押し出し、勢いのままに一回転する。地面に着地したと同時に右足で勢いよく地面を蹴り上げ、反転した。彼の長いコンパスについていくように並走する。桃矢先輩は、そんな私を見て片眉を上げた。
「いっておきますが、足には自信があります」
「そりゃよかった」
と、返事をしながら、すっかり崩れ落ちてしまった道路を目にして、先輩は迷うことなく他所様の家の塀を飛ぶようによじ登り、ついでとばかりに屋根に飛び乗る。いや人のことは言えないけど。本当に言えないけど。ためらうことなく走り続ける先輩の背中にくっつきながらため息が出た。そっちの方がよっぽど危なっかしいじゃないか。
文字通りに一直線に進んでいたものだから、月峰神社までの道のりも短い。気づけばもうすぐそこだ。「ストップ!」 先輩のシャツを急いで引っ張る。収まらない揺れの中で、小さな姿が空を飛んでいた。さくらちゃんだ。竜のように波打つ地面と相対して、巻き上がる炎を踊らせている。彼女はたしか、火のカードは持っていなかったはず。あれが小狼のものでないのなら、すでに火のクロウカードを手に入れたのだろうか。喜ばしいことだ。と、いうのならば、あれが最後のクロウカードなはず。
先輩と二人、木の枝に飛び乗った。土を相手にするならば、こちらが一番安全だ。
さて、どうしたものか、と彼を見上げる。桃矢先輩はくるくると旋回するさくらちゃんを見つめていた。獣のような、なにか黄色い生き物に乗っている。ここまでくると、行ってどうにかなるものではないだろう。けれども大切な、一人きりの妹だ。「……さくらは、俺には知られたくないだろうしな」 ここで待っている、という意味だろう。
見下ろした木々の向こうに、今現在には似つかわしくない長い黒髪の女の子が必死にこちらに向かっている。知世さんだ。思わず飛び出してしまいそうになった。少女一人が駆け抜けるにはこの場は危なすぎる。たまらず深呼吸をひとつして、体を乗り出す。すると今度は、先輩が私の腕をひいた。振り返ると、神妙な顔をした先輩が行き場を失ったように右手を動かして、少し困っていた。
いつもみたいに、頭をなでたいのだろうか? でもなんだか違う。一瞬、なぜだか抱きしめられるかと思った。でも気の所為だった。先輩は口元を曲げて、私の背中をぽんと叩いた。
言葉はない。けれども、なんとなく言いたいことはわかる。頷いた。
怪我すんなよ
***
会社は全然揺れていないのに、友枝町だけ激しい地震に襲われた。これはとてもおかしな揺れだ。不規則な揺れは、まるで地面が踊っているようで、たまらず家を飛び出していた。急いで彼女の衣装とビデオカメラを紙袋に詰め込んで、息を荒くしながらも街中を走る。どこへ行けばいいのだろう。電話をしてもつながらない。自分に彼女みたいな魔力があればいいのに、と考えたところで仕方がない。
ただただ走り回っていたものだから、なんとなく理解していた。町の中心に向け、徐々に揺れが強まっていく。それなら、もしかするとそこに行けば、さくらちゃんがいるかもしれない ?
そう考えた知世に間違いはない。ただ付け加えるのであれば、それはひどく危険な行為で、中心地に近づけば、それだけリスクも高くなる。わかっていた。でも進んだ。だって彼女も、怖いに決まっているから。魔力があって、クロウカードを持っていて。でもそれは関係ない。さくらちゃんだって、自分と同じ女の子なのだ。
だからはやく行かないと。李くんがいればいい。そしたら少しは安心できる。僅かな寂しさもあるけれど。「知世さん、伏せて!」 そんな風に考え事をしていたからだろうか。あっ、と息を一つする間に、知世めがけて、自身の体よりも大きな瓦礫が転げ落ちた。かばう暇もなかった。震え上がった体を硬直させ、肩にかけた袋の紐を握るだけで、何もできなかった。彼女は、は知世の目前に飛び出した。悲鳴を上げてしまいそうになった。
そしてなにやらひとつ、呪文を唱えた。両手を力強く叩き合わせて、前を見据える。瓦礫は風の壁に押されて四散する。知世には傷一つない。はたはたと今は静かな風が自分の長い黒髪をなでていく。今更ながらに握りしめすぎた手のひらから力を抜いて、そのまま地面にへたりこんだ。「わ、と、知世さん、大丈夫?」 が困ったような声を出して、知世に片手を差し出す。
ふうかしょうらい。
そう彼女は叫んだ。戸惑いながらも手を借りて立ち上がり、「知世さん、ほら」 おいで、とは知世に背を向け座り込んだ。一体何を言われているのかよくわからなかった。「おんぶ、してあげるから」 米俵にはしないよ、と笑っている彼女を見て、まさか、と首を振ってしまう。いくら小学生と中学生とは言っても、女性であると体格にそれほど大きな差があるわけではない。
「い、いえそんな、さん」
「大丈夫だから」
言われるがままに彼女の小さな背に乗ってしまった。なのに驚くほど軽くは知世を持ち上げた。いくらか札の力を借りているが、それが知世にわかるわけがない。ひゅんひゅん飛び上がるスピードに目をしろくろする。「あの、その、さん」「さくらちゃんのところでしょう。わかってるよ」
なぜ彼女が、という疑問の前に、先程聞いた呪文を知世は思い出した。小狼のものと、とてもよく似ている。そうだ、知世は以前、さくらにこう言ったではないか。は不思議な人で、さくらちゃんと知っている人と、とてもよく似ていると。そっくりだ。こうして背負われているとよくわかる。桃矢と、さくらちゃんと同じように。小狼との耳はとてもそっくりで、気づいてしまうとすべてが似通って見えてくる。
「さんは、クロウカードのことを、何かご存知なんですか……?」
問いかけながらも、わかっていた。うん、とは頷いた。「全部知ってるよ」 そのとき、は僅かに逡巡した。もちろん知世は彼女の思案など、知る由もない。隠れて、ひっそり。そのつもりだった。ずっと知世のカメラにも気をつけていたのだ。でもまあいいか、と。どうせ、もう終わりだ。振り込みが消えたところで、もとの生活に戻るだけだ。危なげに走る知世を前にして、知らぬふりなどできなかった。
「一応、父方の姓は、李だから。傍流だけど、これでもクロウの血筋だからね」
端くれ中の端くれだけど、と照れたように笑う少女に、知世は目を丸くした。「いつも可愛い服、作ってるよね。知世さんの手作りだったのかな?」 でも夜に出歩くのはほどほどに、と大人びた口調である少女の背中に、慌てて隠れた。もうすぐ終わってしまうだろうけど、と呟く声は聞こえない。
月峰神社は、すぐそこだった。