第25話  真実、一歩





「…………あれ?」

ぱらぱら、と柔らかい光が降っている。麦わら帽子の女の人が、てくてくとマンションのドアから顔を出した。「どこかに行かれるんですか?」 少しだけ不思議になった。彼女はカラスみらいに、綺麗で真っ黒な髪を揺らしてゆっくりと振り向いた。それからにこりと笑った。

大きなバックをからからとひっぱり、彼女は微笑んでいた。私は、勝手に人様のプライベートに問いかけたことが、少しだけ恥ずかしくなって、口元を笑わせたまま、視線を下げた。からから、とタイヤが転がる音が聞こえる。

今みたいな、暑い、夏の日だった。




   ***




恭弥くんのお家の前に立って、インターホンを鳴らそうとしたとき、どこか奇妙に、心の中がずれるような音がした。幾度か迷って、息をついた。それから、指を置いた。ピンポーン、と間の抜けたような音がする。うちのインターホンと同じ音だ。お隣なのだから、当たり前といえば当たり前だ。

誰もいないのだろうか。しばらく待った後、もう一度押した。ピンポーン……。じわじわ、と手のひらに汗がにじんだ。勝手に入っていた肩の力を抜いて、もう一度。これが最後だ。「やっぱり出かけてるのか……」「誰が?」 振り返った。

学ランを肩に羽織った男の子が、じっとこちらを見つめている。少しだけ唾を飲んだ。そうした後に、別に何を悪いことをしていたわけではないし、ここは恭弥くんの家なのだから、びっくりすることもない。あはは、と私は頭をひっかいた。「風邪をひいたってきいたんだけど」「え?」 そういえば、今日獄寺たちとそんな話をしたんだった。どこからか、恭弥くんがその話をきいたんだろう。こんな時間に恭弥くんがマンションにいるだなんて、変な気がしたのだ。

「あ、大丈夫。それはただの勘違いで」

元気、元気、と拳を握った。そう、と恭弥くんはどうでも良さげに視線を逸らして、「なにしてるの?」 もしかすると、ちょっとだけ怪しかったのかもしれない。
少しだけ恥ずかしくなって、へへ、と笑った。「ちょっと、お母さんがいらっしゃるかなって。お話ししたいことがあって」

なのに恭弥くんはぴくりと片目をつりあげた。「誰の母さんだって?」「誰のって」 私のお母さんなわけはない。「恭弥くんの」 言葉と同時に振り上げられた足に、私は体を固くした。ドンッと爆発したような音に、心臓が飛び跳ねた。恭弥くんが、勢い良く鉄の扉を蹴りあげた音だ。私は目を丸くして、そのまま床にへたり込んだ。その隣で、また思いっきりドアが蹴られた。今度は頭をかばって、息を殺して体を丸めた。

二三度、同じ音が響いたのだと思う。それからしばらくして、舌を打った彼の音と、遠ざかる足音がきこえた。恭弥くんはいなくなってしまった。そう思うのに、私はいつまで経っても動けなかった。怖かった。カチカチと体が震えていた。また時間が経つと、彼が私を殴らなかったという事実に気づいた。息を押し込んで、顔を上げた。それから誰もいないことを確認して、ドアに目を向けた。彼は何度もここを蹴り飛ばした。(なんで) なぜだろうか。
(恭弥くんのお母さんは) どこにいるんだろう。


。お前は何者だ?」

ちょん、と小さな赤ん坊が、マンションの手すりに立っている。今度こそ、悲鳴を上げてしまいそうになった。「ちゃおっす」「ちゃ、チャオ……」 座り込んだまま、ヒットマン姿の赤ん坊を見上げた。「雲雀のやつが、妙に慌ててたんでな。面白いってんでつけてみたんだが」 妙な疑問ばかりがあふれるな、とカッコつけた喋り口調に、私はパチパチと瞬いた。今の今まで、じっと隠れて様子を見守っていたということだろうか。

「ちょっと調べさせてもらったぜ。雲雀恭弥の母親はいない。あいつが子どもの頃に失踪した。そんで。お前はその事実を知っているはずなんだが?」 今の行動の理由が、いまいち俺にはわからねえな。

面白げにくるくると手元で銃を遊ぶリボーンに、なんの反論もできなかった。「まあ、そこまで気になるわけでもねぇけどな」 いい加減、ダメツナの様子でも見に行くとするか、とひょいと彼が飛び降りたものだから、私はひゃっと悲鳴を上げた。慌てて立ち上がって、リボーンが落ちた場所を確認すると、彼はぽんぽんと身軽な仕草で木を伝っていつの間にか地面に降り立っている。ホッと息をついた。まあ、最強のヒットマンなのだから、心配するだけ失礼というものだったかもしれない。
(幼い頃に失踪)

知っている気がした。でも知らないような気もした。
ふと、顔を上げた。「日記」 少し前に、私は日記を見つけた。三日坊主で、そんなもの長続きなんてするわけがないのに、私は律儀に日記を書いて、部屋の本棚の中にしまっていた。あんまりにもバカバカしい内容が並んでいたものだから、きちんと中身の確認をしていない。(あれを見たら)
見たから、どうなるって言うんだろう。
でももしかすると。

私が知らない何かが。







○月×日

恭弥くんのお母さんがいなくなった



ぴらり、とページをめくった。




書き置きを残して、お母さんはどこかに消えてしまったらしい。
明日になれば戻ってきてくれると思ったので、今日は恭弥くんと一緒にご飯を食べた。



恭弥くんのお母さんが戻ってこない




恭弥くんのお母さんは、本当にいなくなってしまったらしい。
なんで帰って来てくれないんだろう。




恭弥くんが、お母さんのことを言わなくなった。
だから私も言わない。




お母さんは、誰か他の男の人と消えてしまったんだろうか。
他の人が一緒にいるのを、恭弥くんは嫌がるようになった。




恭弥くんが、学校で怖がられているらしい。




恭弥くんが中学生になった。
一年生だけど、風紀委員長をすることになったと言っていた。
なんとなく、恭弥くんが遠くなったような気がした。




恭弥先輩と呼ぶことにした。
学校で、恭弥くんとは言いづらい。



いつの間にか、いろんなことが変わっていた。








ときどき、日記には後悔の言葉があった。どこに行くんですか、と彼のお母さんにきいたとき、なんでちゃんと最後まで訊かなかったんだろう。変だと思わなかったんだろう。どんどん恭弥くんは、原作の恭弥くんに近づく。これが当たり前で、正しいことなのだろうけども、本当にこれでよかったのかわからない。私はどうしたらよかったんだろう。恭弥くんに好きだと言われた。うれしい。でも自分もそうだと言っていいのかわからない。


めんどくさがりやの私は、日記じゃなくて、月記みたいなものだった。悲しい、怖い。そんな言葉の他に、楽しい、嬉しいという言葉もたくさんあった。恭弥くんがご飯をおいしいと言ってくれた。頭を撫でてくれた。お弁当を作ってもいいと言ってくれた。


ページをめくる度に、私は恭弥くんと一緒にいた。となりで小さな男の子が、ちょっとずつ大きくなる。気がついたら、私の背をこしていて、つん、と尖った顔をして、遠くを見ていた。それがかっこよくて、少しだけ悲しかった。


両手で顔を覆った。喉の奥がつんとして、ひりひりした。玄関の前で、恭弥くんにびっくりして丸まっていたときみたいに、私は部屋の中で小さくなって、嗚咽ばかりを漏らしていた。カチャリ、と鍵が開く音がする。恭弥くんの足音だった。リビングのカーペットに座り込んでいた私の背中で、いつも通りにどかりと椅子に座り込んだ。ぎしり、と彼が身動ぎする音がする。「」 ご飯は、そう彼が問いかけた。でも私はそのまま小さくなるだけだった。

「ごめん」

出た声は、ひどくくしゃくしゃしていた。「別に。がバカなのは、いつものことだし」「ごめんね」 顔を上げた。ぼろぼろに泣いていた。恭弥くんは、少しだけ驚いた顔をした。それからぷいと顔を背けた。けど立ち上がった。ばかだな、といいたげに、くしゃくしゃと恭弥くんは私の頭を撫でた。それからぺちりと、大きな手の甲で、私の頬を撫でた。もう片方の指先を、お互い、少しだけ絡めた。





    ***



「なあ、雲雀?」


バカの声がする。

雲雀恭弥は、じろりと彼を射抜くように睨んだ。相変わらずの野球男は、小さな苦笑を浮かべながら、ぴらぴらと片手を振った。「なんか用?」「いや、用っつーか」 まあちょっと。と親指と人差し指で、僅かな隙間を作る。

「なんつーかさ、このごろ、ちょっとな、気になるっつーか、頭の中がぼやーっとしてるってか」

要領を得ない言葉のまま、山本はぽんとバットを肩に置いた。「野球さ、やらせたいやつがいたんだよ」 すっげえ昔のことだから、あんまよく覚えてねーんだけど、と付け足された言葉を聞いて、どうでもいいとばかりに顔を背けた。

「そいつさー、結構怒りっぽいやつだったんだけどさ、まあ、悪いやつじゃなかったような気がするんだよな」
「それが何?」

僕になんの関係があるわけ、と吐き捨てた言葉に、ぽりぽりと彼は頬をひっかいた。「だから、こう、俺もぼやーっとしてるんだけど」「それはもう聞いた」「俺、一緒に野球やりたかったのな」「だからもう聞いた」

けらけら、と彼は笑う。「雲雀、一緒に野球しねえ?」「寝言は寝てから言ってほしいね。さっさと消えないと、咬み殺すよ」 投げたトンファーを危うげにかわす。「うわっと。んじゃ仕方ねえ。また今度な!」 人の話をきかないやつだ。

「しないよ。消えて」
「しよーぜ、いつかさ」







  

2013/01/25