3
あの人の名前は、テオさんと言うらしい。
「う、うひひひ……」
自分でもちょっと女としてどうなの? と思いたくなるような笑みを口元に張り付けて、何度も何度も宿帳に書かれた名前を見つめた。あの後結局、お金を払いに来たテオさんに頭を下げて記帳してもらったのだ。とっても綺麗で流暢な文字で、私なんかよりもずっとずっと上手な文字だ。ちょっと恥ずかしい。「うふふふー……」 にやにやした。テオさん。テオさん。かっこいい。お似合いだ。
(テオさんかー……)
何故だかニヤニヤとした笑みをしながら、様が私の周りをぐるぐると回っていた。
「…………あの、様?」
「あ、様付けとかいらないから気にしないで」
「いえその、軍主様ですし……」
っていうか、状況的に気になりますし。
テオさんのベッドメイキングをしている最中、彼は何やら嬉しそうにウフフ、と笑っていた。「きみの名前、って言うんだよね?」「そう、ですけど……あのう?」「いやあ、この頃よく一緒にいるのをお見かけするような気がしてネッ!」
様との会話を優先すればいいのか、それともお仕事の方を頑張らなければいけないのか。ほんの少し判断に困ってヒルダさんへと視線を向けると、彼女はくすくすと苦笑して手のひらを振った。お仕事は後でいいわ、と言っているように見えた。
なので私は様に向き直って、「あのう?」と見えない話の流れに首を傾げてみる。この頃よく一緒にいるのをお見かけする。誰のことだろう……と考えた後に、ハッとした。紫と緑のバンダナの、ときどきぽろりとこぼす、ゆったりとした笑顔がカッコイイ男の人を思い出した。まさかテオさんのことだろうか。
確かに、一緒にいると言えないこともない。というか、一方的に私があの人にぐるぐると付きまとっているのだ。テオさんはきっと優しい人だから、迷惑だとか言いだせないんだろうなと自覚している。と、いうか、様にまで伝わってしまうほど、私の鬱陶しい行為はこの城に広まっているんだろうか。「ちちちちちちちがうんです!」 何が違うんだ、と思いながら、私は両手でバタバタと両手を振った。かなり必死で振った。様がぽかんとした顔をしていた。
「けっけけ、けっして、やましい気持ちがッ! ある訳ではッ!!」
「え? っていうかさん落ちついて?」
どうどう、と彼は私の肩をたたいた。落ちつけ、そう言われる度に、頭の中が真っ白になっていく。「えーと、よくわかんないんだけど、僕、怒ってる訳じゃないよ? あの人と仲がいい人が出来たってんなら、寧ろすごく嬉しいし」様は、片手で自分の顎をしゃくる。「っていうか」
「何でそんなに動揺してるの? もしかしてさん、ラブな方で好きだったりしちゃうの?」
「うぶあはァッ!!」
「おお! まさかの図星」
あらまあ、と両のほっぺに様は手のひらを置く。
激しいダメージが胸を貫いた。穴があれば、いますぐそこに入ってしまいたい。けれども残念ながら、現在はあるのはメイキング中のテオさんのベッドだけだ。この中に入ってしまったら私は変態決定だ。嫌すぎる。「そぉかぁ!」 さんは、とてもとても嬉しそうにニカッと笑ってうんうん頷いた。なんなんだろうか。ばれてしまった。
彼は大きくなった声を、一応周りの目を気にするようにちらちらと窺った後、こっそり私に呟いた。
「さん、やっぱりさんのこと、好きなんだね!」
「え? どちら様のことですか?」
「アレッ!?」
ガクッと様は肩を落とした。そんな彼を見て、え? テオさんのことじゃなかったんですか? あれ、違うんですか!? と目を点にする様に問いかけると、様はしょんぼりと頭をうなだれ、頭を振った。「テオってだれだー!」「て、テオさんはテオさんですよー!」 だれだー! ともう一回叫ぶ様を見て、あれ、なんで様はテオさんの名前を知らないのだろうか? と思わず首を傾げてしまった。不思議である。
俺はあれから何度も宿屋を利用するようになった。最初の方は渋い顔をしていただけれど、今となっては諦めたような表情をしている。少々申し訳なくも思うが、別に宿屋のお代に困るほど、お金に困っている訳ではないし、ましてやここの宿の値段はとても良心的だ。
何度もここへと顔を出すうちに、一人の女の子と仲良くなった。いや、仲良くなったと思うのは、俺の思いすごしかもしれない。最初の方は、なぜか彼女は始終カクカクとしたからくり人形のような動きだったけれど、次第に人間的な動きをするようになってきた。いや、もともと人間なんだけど。こう形容せざるを得ないので困る。
まあとにかく、彼女の名前も知った。と言うらしい。直接聞いた訳ではなく、そう宿屋の主人から呼ばれていた。彼女は俺をテオと呼ぶ。父さんの名前だ。どうしたものか、と考えてみたのだけれど、さすがに本名を名乗ることは憚られたのだ。良くも悪くも、俺の名前は噂の種の一つである。テオさん、とにこにこ笑いながら呼ばれると、少しだけ複雑な気持ちになる。他の名前にすればよかったかもしれないな、と思った。
「てっておひゃんっ、お腹など減ってはおりませぬでしょうか!」
「ん? そうだね、減ってるかな」
「おおおおそれでしたのならば、これを、どうぞォ……!」
彼女はさっと盆の上のおにぎりを俺へと差し出した。俺はありがとう、と言って受け取る。そしてお代を出そうとしたら、「めっそうもありませぬ! ありませぬ!」と言いながら、さんは脱兎で逃げていった。ところで、ておひゃんって、滑舌が悪いのだろうかとか、何故武士口調なのだろうかと色々と聞きたいことがあったのだけれど、そっと胸にしまっておいた。時々彼女はとても変だ。けれども少し面白い。
俺はくすくす笑いながら、おにぎりを片手にのそのそと城内を歩き、芝生の上に腰を置いた。そして彼女に貰ったおにぎりにかぶりついた。 背中に突き刺さる視線が痛い。
おにぎりをもぐもぐと口の中にほおばり、左手についた手の塩をなめたあとに手袋をつけなおす。そして振り向いた。隠れているつもりなのか木の影に体を半分だけ覗かせた、をじっと見つめた。「……きみは一体、何をしているんだい?」「さん……おかわいそうに……」「ちょっと待ってくれ、多少イラッとした。意味がわからない」
「かわいそうに……」とは再び繰り返しながら、すすす……と木の影に体を全て隠す。いや、意味がわからないから。ちょっと出てきてくれよ、気になって仕方がないだろう。
「、出てきなさい」
「アッ……僕はあれですから、今は一本の木となっていますから、お気になさらず」
「出て来いって言ってるだろう今すぐこの場で大声を出してシュウを呼んだところで、俺はまったくもって一向に構わない」
「やあさん、今日はいい天気ですね!」
サッと滑り込むようには俺の隣に正座をした。やっぱりこいつ、今日もシュウの目を盗んでこんなところで妙な行動をしていたのか。思わず俺はため息をついた。それでもまあ、締めるべきところは締めているだろうから、俺がなんとか言う話じゃないか、と苦笑する。自分もそこまで真面目なリーダーだとは言えなかっただろうし。マッシュには苦労をかけた。
隣に座るは、始終そわそわちらちらと視線を逃がしていた。何やら俺と目を合わせたくないらしい。さて、何を隠し事をしているんだろうかね、と俺は膝に肘をつき、隣の若い軍主を見つめる。
「で、あれだよね、きみ、この頃俺とさんのことを覗き見してるみたいだけど、何か言いたいことでもあるのかな?」
「アウッ!? まさか気づいて、あなどれない……!」
「いや、きみ尾行は下手だから。ちょっと自覚した方がいい。常に体半分見えてたから」
「フフッ……お気付きになるとは、さすがですね!」
「何唐突に格好つけてるんだ」
はフフフ、と顎に手をつけた後、「ばれちゃぁ仕方がありません。それでは今日はこの辺で!」「まてい」 ぐいっと彼の襟を引っ張る。は「アウッ! この前と同じパターン!」とバタバタ両手を暴れさせながら、再び芝生の上へと小さくなって正座をした。そんなに言いたくないと言うのならば、仕方がない。俺から切りだしてやろうじゃないか。
「、俺はこの間実家に帰った後、クレオやらパーンに、果てしなくいい表情で出迎えられたんだ。わかるかい?」
「え……、はあ」
「彼らが言うには、俺にいい人が出来たんだそうだ。その名前はという女の子で、宿屋の手伝いをしているそうでね。奇遇にも、俺はそんな女の子を一人しか知らない。おめでとうございます坊ちゃんと、屋敷はとても素敵な騒ぎだったよ」
「……よかったじゃないですかー!」
は激しく視線をしどろもどろと動かしながらやっとのことで口を動かし、祝いの言葉を口にする。俺はその姿を胡乱な眼で見つめ、「そうだね。それが事実ならね。で、。きみは一体何がしたいんだい?」とにっこりとほほ笑んだ。あうー! と声にもならない声で、は自分の頭の上に両手を乗せ、申し訳なさげに小さくなる。
どう考えても、彼らにそんなデマを伝えたのはこの男しかいない。一体何を考えてそんなことを言ったのか。怒ってはいない。ただ純粋に不思議で、呆れていた。はしょんぼりとうなだれた後、「ごめんなさい!」と勢いよく頭を下げ、白状した。
「僕……てっきり、さんはさんのことが好きなんじゃないかなぁ、って思いまして。それで嬉しくって思わず、クレオさんに口を滑らせてしまって」
「うん?」
首を傾げた。はばたばたと両手を忙しなく動かしながら、「い、いやその、なんだか僕、さんには幸せになって欲しいって言うか、あー、その失礼ながらッ、なんだか他人事と思えないようなッ!」と言葉にならない気持ちを必死で叫ぶ。「ああ、わかった」と俺は片手を振った。その気持ちはなんとなくわかる。真の紋章を持つ者同士とは、家族でも親友でも仲間でもないくせに、ふと、胸の中で言いきれない気持ちを抱くときがある。
「まあ、きみのいいたいことは分かった。でもその……俺が、さんをそうだなんて、突飛すぎだろう」
「そうなんですか?」
「そうだ。俺は、こいつを持ってるからね」
ぎゅっと強く、右手を握った。好きな人間は作りたくはないと思う。なるべく、自分に近寄って欲しくないとも願っている。 少なくとも、表面上は。
は大きな瞳をくるくると動かして、「でもさん、さんと話してるとき、すごく楽しそうですよ?」「え?」 思わず、自分の口元を触った。瞳を大きく開けたまま、と向かい合った。は相変わらず不思議そうな顔をしたまま、「え? 好きなんじゃないんですか?」
そんなこと、知らないよ。
「こら、あんまり大人をからかうなよ」
「あいた」
ピンッと左手でのデコへとでこぴんを打つ。見かけは彼と変わらないように見えるだろうが、こっちは彼よりも三つも四つも年上で、とっくの昔に成人している。「ぐうう……利き手じゃないというのにこの威力ゥ……」とはデコを押さえたまま、涙目になりうずくまる。ハハハ、と俺は笑った。大人をからかった罰である。「それに、俺がどうというよりも、そういうのはさんに失礼だろう。もしかしたらいい人がいるかもしれない」
そうだ、時々妙な動きになるが、笑えば可愛らしいし、よく働く。気を向けられている男は一人や二人じゃないだろう。それに彼女は俺にとって妹のような年齢だ。そういう対象として捉えるのは変だろう。「まあそうですね」とは赤くなったデコをぺちぺちと触りながら顔をあげた。「てっきり、さんもさんのことを結構よく思ってるんじゃないかなあ、って思ってたんですけど、勘違いだったみたいです」 さんも、の『も』、というところが気になるが黙っておく。
「さん、さんとは別に好きな男の人がいるみたいで」
「え」
唐突に思考が固まった。
ははは、とに対して苦笑をしていた表情のまま、ピタリと時間が止まった気がした。は暫く自分のデコをさすっていたものの、腕を組んだまま固まった俺を見て、うん? と訝しげに俺を見た。「あれ、さん?」「いや、その、まあ、なんでも」「目が泳いでますけど。激しく怪しいんですけど」「いや、。そろそろ、戻った方がいい。その、まあ、あれだ、シュウが、おかんむりじゃないかな?」「あのさん、ものすごくカタコトなんですけど」
おおーい、おおーい、とが俺の目の前でパタパタと手のひらを振った。俺はさっと顔を逸らした。横目で見てみると、は首を傾げた後に、「まあいいか」と言って立ち上がる。「さすがにそろそろシュウのところに行って怒られてきます。それじゃあさん」それだけ言って歩き始めようとしたに向かって、「ちょっと待ってくれ、」と呼びとめる。は振り返った。「はい?」
「その……たしかかな?」
「何がです? まあ確実にシュウはぶちぎれてると思いますけど。今から僕はお説教タイム確実ですけど」
「いや、そういうのはいいから。そのー、ほら、あれだ」
「どれでしょう」
「さんの」
俺は喉から声を絞り出して、人差し指をくるりと回した。はほんの少しだけ眉をひそめて、じっと俺を見た。「本人から聞きましたよ」
そうか、と俺は頷いた。そうなのか、となんとなく何度も頷いた。「ああ、うんわかった。ありがとう」「はあ。って言っても、僕も名前を聞いた程度でして。それも聞き覚えがない名前なんですよね。うちの城の人間じゃないのかなー?」
うーん、とは首を傾げていたけれども、俺はもうなんとなく、どうでもいいような気がしてきた。自分でも不思議なくらい気分が暗い。この後、またさんに会うのかと思うと、何故だか重苦しい気持ちになってきた。わからない。思わず重いため息をついた。「、本当にそろそろ帰った方がいいよ。説教の時間が一時間は伸びる」「あ、はい。行きます行きます……あ、そうか、もしかしたら宿屋によく泊まる人なのかも」
なんとなく俺は、耳をふさぎたい気持ちになった。背中を向けて歩いていくが、唐突に振り返った。「さん、知ってます? さんの好きな人、テオさんって言うそうなんですけど」
俺はの顔を見つめて、ぱちくりと瞬きを繰り返した。もちろん、「知ってる」「え、ほんとですかー。やっぱりよく宿に泊まる人なんだ」「ああ、うん、そう、そうかな? そう、言え、い、言えないことも……ない、かな?」「さんなんかまたカタコトになってますけど」
気の所為気の所為、と俺はぱたぱた両手を振った。そして「悪い、用事があるから」とに早口で伝えると、彼の返事を聞くことなく、早歩きでその場を去った。どこに向かえばいいのか、自分でもよくわかっていない。顔を右手で覆った。そうだ、とりあえず、一人になれる場所だ。ここはよくない。とてもよくない。
多分、今の俺は、とても真っ赤な顔をしている気がする。手袋越しに、手が熱い。とても恥ずかしい気分だ。こんなところ、誰にも恥ずかしくて見せられる訳ないじゃないか。
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2011.05.13
あの人の名前は、テオさんと言うらしい。
「う、うひひひ……」
自分でもちょっと女としてどうなの? と思いたくなるような笑みを口元に張り付けて、何度も何度も宿帳に書かれた名前を見つめた。あの後結局、お金を払いに来たテオさんに頭を下げて記帳してもらったのだ。とっても綺麗で流暢な文字で、私なんかよりもずっとずっと上手な文字だ。ちょっと恥ずかしい。「うふふふー……」 にやにやした。テオさん。テオさん。かっこいい。お似合いだ。
(テオさんかー……)
何故だかニヤニヤとした笑みをしながら、様が私の周りをぐるぐると回っていた。
「…………あの、様?」
「あ、様付けとかいらないから気にしないで」
「いえその、軍主様ですし……」
っていうか、状況的に気になりますし。
テオさんのベッドメイキングをしている最中、彼は何やら嬉しそうにウフフ、と笑っていた。「きみの名前、って言うんだよね?」「そう、ですけど……あのう?」「いやあ、この頃よく一緒にいるのをお見かけするような気がしてネッ!」
様との会話を優先すればいいのか、それともお仕事の方を頑張らなければいけないのか。ほんの少し判断に困ってヒルダさんへと視線を向けると、彼女はくすくすと苦笑して手のひらを振った。お仕事は後でいいわ、と言っているように見えた。
なので私は様に向き直って、「あのう?」と見えない話の流れに首を傾げてみる。この頃よく一緒にいるのをお見かけする。誰のことだろう……と考えた後に、ハッとした。紫と緑のバンダナの、ときどきぽろりとこぼす、ゆったりとした笑顔がカッコイイ男の人を思い出した。まさかテオさんのことだろうか。
確かに、一緒にいると言えないこともない。というか、一方的に私があの人にぐるぐると付きまとっているのだ。テオさんはきっと優しい人だから、迷惑だとか言いだせないんだろうなと自覚している。と、いうか、様にまで伝わってしまうほど、私の鬱陶しい行為はこの城に広まっているんだろうか。「ちちちちちちちがうんです!」 何が違うんだ、と思いながら、私は両手でバタバタと両手を振った。かなり必死で振った。様がぽかんとした顔をしていた。
「けっけけ、けっして、やましい気持ちがッ! ある訳ではッ!!」
「え? っていうかさん落ちついて?」
どうどう、と彼は私の肩をたたいた。落ちつけ、そう言われる度に、頭の中が真っ白になっていく。「えーと、よくわかんないんだけど、僕、怒ってる訳じゃないよ? あの人と仲がいい人が出来たってんなら、寧ろすごく嬉しいし」様は、片手で自分の顎をしゃくる。「っていうか」
「何でそんなに動揺してるの? もしかしてさん、ラブな方で好きだったりしちゃうの?」
「うぶあはァッ!!」
「おお! まさかの図星」
あらまあ、と両のほっぺに様は手のひらを置く。
激しいダメージが胸を貫いた。穴があれば、いますぐそこに入ってしまいたい。けれども残念ながら、現在はあるのはメイキング中のテオさんのベッドだけだ。この中に入ってしまったら私は変態決定だ。嫌すぎる。「そぉかぁ!」 さんは、とてもとても嬉しそうにニカッと笑ってうんうん頷いた。なんなんだろうか。ばれてしまった。
彼は大きくなった声を、一応周りの目を気にするようにちらちらと窺った後、こっそり私に呟いた。
「さん、やっぱりさんのこと、好きなんだね!」
「え? どちら様のことですか?」
「アレッ!?」
ガクッと様は肩を落とした。そんな彼を見て、え? テオさんのことじゃなかったんですか? あれ、違うんですか!? と目を点にする様に問いかけると、様はしょんぼりと頭をうなだれ、頭を振った。「テオってだれだー!」「て、テオさんはテオさんですよー!」 だれだー! ともう一回叫ぶ様を見て、あれ、なんで様はテオさんの名前を知らないのだろうか? と思わず首を傾げてしまった。不思議である。
俺はあれから何度も宿屋を利用するようになった。最初の方は渋い顔をしていただけれど、今となっては諦めたような表情をしている。少々申し訳なくも思うが、別に宿屋のお代に困るほど、お金に困っている訳ではないし、ましてやここの宿の値段はとても良心的だ。
何度もここへと顔を出すうちに、一人の女の子と仲良くなった。いや、仲良くなったと思うのは、俺の思いすごしかもしれない。最初の方は、なぜか彼女は始終カクカクとしたからくり人形のような動きだったけれど、次第に人間的な動きをするようになってきた。いや、もともと人間なんだけど。こう形容せざるを得ないので困る。
まあとにかく、彼女の名前も知った。と言うらしい。直接聞いた訳ではなく、そう宿屋の主人から呼ばれていた。彼女は俺をテオと呼ぶ。父さんの名前だ。どうしたものか、と考えてみたのだけれど、さすがに本名を名乗ることは憚られたのだ。良くも悪くも、俺の名前は噂の種の一つである。テオさん、とにこにこ笑いながら呼ばれると、少しだけ複雑な気持ちになる。他の名前にすればよかったかもしれないな、と思った。
「てっておひゃんっ、お腹など減ってはおりませぬでしょうか!」
「ん? そうだね、減ってるかな」
「おおおおそれでしたのならば、これを、どうぞォ……!」
彼女はさっと盆の上のおにぎりを俺へと差し出した。俺はありがとう、と言って受け取る。そしてお代を出そうとしたら、「めっそうもありませぬ! ありませぬ!」と言いながら、さんは脱兎で逃げていった。ところで、ておひゃんって、滑舌が悪いのだろうかとか、何故武士口調なのだろうかと色々と聞きたいことがあったのだけれど、そっと胸にしまっておいた。時々彼女はとても変だ。けれども少し面白い。
俺はくすくす笑いながら、おにぎりを片手にのそのそと城内を歩き、芝生の上に腰を置いた。そして彼女に貰ったおにぎりにかぶりついた。
おにぎりをもぐもぐと口の中にほおばり、左手についた手の塩をなめたあとに手袋をつけなおす。そして振り向いた。隠れているつもりなのか木の影に体を半分だけ覗かせた、をじっと見つめた。「……きみは一体、何をしているんだい?」「さん……おかわいそうに……」「ちょっと待ってくれ、多少イラッとした。意味がわからない」
「かわいそうに……」とは再び繰り返しながら、すすす……と木の影に体を全て隠す。いや、意味がわからないから。ちょっと出てきてくれよ、気になって仕方がないだろう。
「、出てきなさい」
「アッ……僕はあれですから、今は一本の木となっていますから、お気になさらず」
「出て来いって言ってるだろう今すぐこの場で大声を出してシュウを呼んだところで、俺はまったくもって一向に構わない」
「やあさん、今日はいい天気ですね!」
サッと滑り込むようには俺の隣に正座をした。やっぱりこいつ、今日もシュウの目を盗んでこんなところで妙な行動をしていたのか。思わず俺はため息をついた。それでもまあ、締めるべきところは締めているだろうから、俺がなんとか言う話じゃないか、と苦笑する。自分もそこまで真面目なリーダーだとは言えなかっただろうし。マッシュには苦労をかけた。
隣に座るは、始終そわそわちらちらと視線を逃がしていた。何やら俺と目を合わせたくないらしい。さて、何を隠し事をしているんだろうかね、と俺は膝に肘をつき、隣の若い軍主を見つめる。
「で、あれだよね、きみ、この頃俺とさんのことを覗き見してるみたいだけど、何か言いたいことでもあるのかな?」
「アウッ!? まさか気づいて、あなどれない……!」
「いや、きみ尾行は下手だから。ちょっと自覚した方がいい。常に体半分見えてたから」
「フフッ……お気付きになるとは、さすがですね!」
「何唐突に格好つけてるんだ」
はフフフ、と顎に手をつけた後、「ばれちゃぁ仕方がありません。それでは今日はこの辺で!」「まてい」 ぐいっと彼の襟を引っ張る。は「アウッ! この前と同じパターン!」とバタバタ両手を暴れさせながら、再び芝生の上へと小さくなって正座をした。そんなに言いたくないと言うのならば、仕方がない。俺から切りだしてやろうじゃないか。
「、俺はこの間実家に帰った後、クレオやらパーンに、果てしなくいい表情で出迎えられたんだ。わかるかい?」
「え……、はあ」
「彼らが言うには、俺にいい人が出来たんだそうだ。その名前はという女の子で、宿屋の手伝いをしているそうでね。奇遇にも、俺はそんな女の子を一人しか知らない。おめでとうございます坊ちゃんと、屋敷はとても素敵な騒ぎだったよ」
「……よかったじゃないですかー!」
は激しく視線をしどろもどろと動かしながらやっとのことで口を動かし、祝いの言葉を口にする。俺はその姿を胡乱な眼で見つめ、「そうだね。それが事実ならね。で、。きみは一体何がしたいんだい?」とにっこりとほほ笑んだ。あうー! と声にもならない声で、は自分の頭の上に両手を乗せ、申し訳なさげに小さくなる。
どう考えても、彼らにそんなデマを伝えたのはこの男しかいない。一体何を考えてそんなことを言ったのか。怒ってはいない。ただ純粋に不思議で、呆れていた。はしょんぼりとうなだれた後、「ごめんなさい!」と勢いよく頭を下げ、白状した。
「僕……てっきり、さんはさんのことが好きなんじゃないかなぁ、って思いまして。それで嬉しくって思わず、クレオさんに口を滑らせてしまって」
「うん?」
首を傾げた。はばたばたと両手を忙しなく動かしながら、「い、いやその、なんだか僕、さんには幸せになって欲しいって言うか、あー、その失礼ながらッ、なんだか他人事と思えないようなッ!」と言葉にならない気持ちを必死で叫ぶ。「ああ、わかった」と俺は片手を振った。その気持ちはなんとなくわかる。真の紋章を持つ者同士とは、家族でも親友でも仲間でもないくせに、ふと、胸の中で言いきれない気持ちを抱くときがある。
「まあ、きみのいいたいことは分かった。でもその……俺が、さんをそうだなんて、突飛すぎだろう」
「そうなんですか?」
「そうだ。俺は、こいつを持ってるからね」
ぎゅっと強く、右手を握った。好きな人間は作りたくはないと思う。なるべく、自分に近寄って欲しくないとも願っている。
は大きな瞳をくるくると動かして、「でもさん、さんと話してるとき、すごく楽しそうですよ?」「え?」 思わず、自分の口元を触った。瞳を大きく開けたまま、と向かい合った。は相変わらず不思議そうな顔をしたまま、「え? 好きなんじゃないんですか?」
「こら、あんまり大人をからかうなよ」
「あいた」
ピンッと左手でのデコへとでこぴんを打つ。見かけは彼と変わらないように見えるだろうが、こっちは彼よりも三つも四つも年上で、とっくの昔に成人している。「ぐうう……利き手じゃないというのにこの威力ゥ……」とはデコを押さえたまま、涙目になりうずくまる。ハハハ、と俺は笑った。大人をからかった罰である。「それに、俺がどうというよりも、そういうのはさんに失礼だろう。もしかしたらいい人がいるかもしれない」
そうだ、時々妙な動きになるが、笑えば可愛らしいし、よく働く。気を向けられている男は一人や二人じゃないだろう。それに彼女は俺にとって妹のような年齢だ。そういう対象として捉えるのは変だろう。「まあそうですね」とは赤くなったデコをぺちぺちと触りながら顔をあげた。「てっきり、さんもさんのことを結構よく思ってるんじゃないかなあ、って思ってたんですけど、勘違いだったみたいです」 さんも、の『も』、というところが気になるが黙っておく。
「さん、さんとは別に好きな男の人がいるみたいで」
「え」
唐突に思考が固まった。
ははは、とに対して苦笑をしていた表情のまま、ピタリと時間が止まった気がした。は暫く自分のデコをさすっていたものの、腕を組んだまま固まった俺を見て、うん? と訝しげに俺を見た。「あれ、さん?」「いや、その、まあ、なんでも」「目が泳いでますけど。激しく怪しいんですけど」「いや、。そろそろ、戻った方がいい。その、まあ、あれだ、シュウが、おかんむりじゃないかな?」「あのさん、ものすごくカタコトなんですけど」
おおーい、おおーい、とが俺の目の前でパタパタと手のひらを振った。俺はさっと顔を逸らした。横目で見てみると、は首を傾げた後に、「まあいいか」と言って立ち上がる。「さすがにそろそろシュウのところに行って怒られてきます。それじゃあさん」それだけ言って歩き始めようとしたに向かって、「ちょっと待ってくれ、」と呼びとめる。は振り返った。「はい?」
「その……たしかかな?」
「何がです? まあ確実にシュウはぶちぎれてると思いますけど。今から僕はお説教タイム確実ですけど」
「いや、そういうのはいいから。そのー、ほら、あれだ」
「どれでしょう」
「さんの」
俺は喉から声を絞り出して、人差し指をくるりと回した。はほんの少しだけ眉をひそめて、じっと俺を見た。「本人から聞きましたよ」
そうか、と俺は頷いた。そうなのか、となんとなく何度も頷いた。「ああ、うんわかった。ありがとう」「はあ。って言っても、僕も名前を聞いた程度でして。それも聞き覚えがない名前なんですよね。うちの城の人間じゃないのかなー?」
うーん、とは首を傾げていたけれども、俺はもうなんとなく、どうでもいいような気がしてきた。自分でも不思議なくらい気分が暗い。この後、またさんに会うのかと思うと、何故だか重苦しい気持ちになってきた。わからない。思わず重いため息をついた。「、本当にそろそろ帰った方がいいよ。説教の時間が一時間は伸びる」「あ、はい。行きます行きます……あ、そうか、もしかしたら宿屋によく泊まる人なのかも」
なんとなく俺は、耳をふさぎたい気持ちになった。背中を向けて歩いていくが、唐突に振り返った。「さん、知ってます? さんの好きな人、テオさんって言うそうなんですけど」
俺はの顔を見つめて、ぱちくりと瞬きを繰り返した。もちろん、「知ってる」「え、ほんとですかー。やっぱりよく宿に泊まる人なんだ」「ああ、うん、そう、そうかな? そう、言え、い、言えないことも……ない、かな?」「さんなんかまたカタコトになってますけど」
気の所為気の所為、と俺はぱたぱた両手を振った。そして「悪い、用事があるから」とに早口で伝えると、彼の返事を聞くことなく、早歩きでその場を去った。どこに向かえばいいのか、自分でもよくわかっていない。顔を右手で覆った。そうだ、とりあえず、一人になれる場所だ。ここはよくない。とてもよくない。
多分、今の俺は、とても真っ赤な顔をしている気がする。手袋越しに、手が熱い。とても恥ずかしい気分だ。こんなところ、誰にも恥ずかしくて見せられる訳ないじゃないか。
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2011.05.13