5
様はどこかへ消えたと聞いた。彼はその小さな背中に、たくさんのものを背負ってくれた。彼が幸せならいいと思う。あとは私たちのお仕事だ。争いは終わった。同盟軍が勝利した。けれどもやるべきことはてんこ盛りで、浮かれてばかりではいられない。
(……テオさん、どこに行っちゃったんだろう)
いいや、その言い方は変だ。あの人はほんの少しお手伝いをしているだけだと聞いた。消えたというよりは、戻ったと言うべきだろう。私は宿屋だけでは終わらず、城のお掃除や畑仕事も手伝って、毎日がぐるぐる過ぎていく。そんな中で、ふと、バンダナの青年を探している。似ている人を見つめて、あっと思うのも一瞬で、全然似ていない別人ばっかりだ。
目の前が、少しだけ涙で滲んだ。(別に、そんな仲がいいとか、そういう訳じゃなかったけれど……)ときどき、話をするお客さんだっただけだけど。(最後の挨拶くらい、したかったな) 泣いてしまいそうだ。いや、泣いている。
私は地面に座りこんだ。ぽろぽろこぼれる滴が地面に丸いあとをつけて、そこだけ色が変わっている。(……どうしよう、かなしい)こんなことしている場合じゃないよと分かっているのに、息ができない。
目の前に、誰かが立っている。その人は息をのみ込んだ。どう考えたって通行の邪魔だ。私はのそのそと立ちあがってどこかへ逃げ去ってしまおうとしたとき、「…………大丈夫?」聞きなれた声が聞こえた。びっくりして顔をあげた。すると彼もびっくりしたように、瞳を大きくさせた。
テオさんの、そんな表情を見るのは初めてだった。彼はいつもにこにこしていた表情を崩して、慌てたように何度も瞬きをさせた後に、きょろきょろと視線を移動させて、私の腕を左手で掴んだ。こっちに来い、というように丁度周りから視界になる建物の隅っこへ移動させ、ぽんぽん、と正面から私の肩を優しく叩いた後、座らせる。「どこか、痛いところでもあるのかな?」 そう言って優しい声を出した。
私はぶるぶると首を横に振った後、この顔をなんとかしようと服で両目をこする。ごわごわして痛い。そうして改めてテオさんを見上げると、彼の右腕にぐるぐると白い包帯が巻かれていることに気付いた。「て、テオさん、けが、が」そう言って手を伸ばすと、彼はハッとしたように腕を上げた。そしてそのままの体勢で私と見つめあった後、腕を背中へと移動し、やんわりとわざとらしいくらいに微笑む。「まあ、俺も人間だから。怪我をすることくらいあるさ。さん、気分が悪いのかな、もう大丈夫?」
私ははいともいいえとも言えないような、首を斜めにさせてテオさんを見上げた。「テオさん、その、どこに……行ってらしたんですか?」「家に帰っていたよ」「ご実家ですか?」「うん」「どちらの、ご実家ですか?」「それを俺がきみに言う必要があるのかな?」 にっこりとテオさんは微笑みながら私を見下ろした。
私はぼんやりと彼を見上げた。そして何度も瞬きをして、少しずつ顔を下へと向けた。「そ、で、すよね……」 ですよね。そう言いながら、なんだか語尾が緩んできて、喉が痛くなってきて、またぽろりと涙がこぼれてしまった。こういうときに泣くのはよくない。とても卑怯な気がする、と一生懸命両目をこすった。けれども中々涙が止まらない。止まらないどころか、どんどん呼吸が苦しくなっていく。とうとう、両手を顔につけたまま、動けなくなってしまった。鳴き声を我慢しようとするのに、喉から出てくる嗚咽が止まらない。我慢と鳴き声のせめぎ合いで、ひくひくと嫌な音が響いた。
ほんの少し向こうには、たくさんの人がいて、それぞれみんなお仕事を頑張っている。なんだろう、この体たらくは。こことそこと、同じ世界とは思えない。テオさんは、ただ静かに私を見下ろしていた。怖くて、彼の顔なんて見れる訳がない。なんだこの面倒くさい女は、と思われていそうだ。私は思う。こんな自分はとても面倒くさい。とても迷惑をかけている。謝るくらいなら、さっさと泣きやめばいいと分かっているけれど、私はごめんなさい、と言おうと顔をあげた。心臓を押さえつけて、テオさんを見た。すると彼は、とても苦しそうに顔をゆがめていて、ぱくりと口元を動かした。「やめてくれ」
よくわからない、と思って彼を見続けていると、ふいに、テオさんが私に覆いかぶさった。何故だか右手は背中へと回したまま、ぎゅっと左手で私を抱きしめている。「やめてくれ、最後にする気だったんだ。最後にしなきゃならないんだ。お願いだから、泣かないでくれ」 勘弁してくれよ、と彼は喉から声をすりだした。
どうしたんだろう、彼は何を言いたいんだろう。私はぎゅっとテオさんの服を握りしめた。「テオさん、待って、おねがい、嫌です。最後なんて嫌です。私、私、テオさんのこと好きです」 思わず言ってしまった。けれどもテオさんは私の肩に顔をうずもらせながら、「そんなこと、とっくに知ってるよ」と吐き出した。「えっ。し、知られていましたかっ」「知っていましたよ。丸わかりだよ。俺だって、さんのこと大好きだ」
えっ、と馬鹿みたいに繰り返して喉から声が出てしまった。テオさんの抱きしめる力が、少しだけ強くなって痛い。
「さんが、一生懸命なところが好きだ。かわいいと思う。すぐ慌てるところも好きだ。すごく普通で、平凡で、でも可愛くて。俺も、こんな風に生まれたかった。さんと幸せになりたかった。でもごめん」
テオさんが、言葉を区切った。
「俺、本当はテオなんて名前じゃない。テオは父親の名前だ。さんと一緒に生きることはできない。一緒にいたら、多分俺はさんを殺すと思う」
「え? こ、ころ……?」
「ごめん。本当に、どうにもならないことなんだ」
「テオさん? え、いや、テオさんじゃなくて、その、……え?」
「混乱させたね」
ごめんね、とテオさんはゆっくりと腕の力を抜いた。そして座った私に合わせるように膝を立てて座ると、左手でよしよし、と私の頭をなでた。彼は手のひらの動きを止めて、少しだけ考えるそぶりを見せた後、唐突に、ちゅっと私のほっぺたにキスをした。「ひいっ」と声を上げる暇もなく、彼は静かに私の耳に呟いた。「いつか迎えに行く」 だから待ってて。
そう言った後、いいや、と彼は首を振った。「もしかしたら、もう一生、君とは会わないかもしれない。期待なんてしないで欲しい。俺が、あいつに勝つことができたら。君を殺さない自信が持てたら、迎えに行く。 それでもいい?」
あいつとは何のことなのか。なんで、テオさんは、本名を教えてくれないのかとか、殺すとか、殺さないとか、なんのことなんだろうとか。
私は色んなことを、一瞬のうちに考えた。けれども返事に関しては、何も考えなかった。頷く以外の返事なんて初めからない。「はい、待ってます。期待なんてしません。でも、待ってます!」 嘘だ、期待なんて、するに決まっている。でも、そう言わなきゃ、彼は安心しない。
テオさんは、ふっと微かに微笑んだ。そしてもう一回私の肩口に頭を乗せて、「いつか、俺の名前を名乗らせて欲しい」 そう言って、ぺろりと私の耳をなめた。「ぎゃー!!」
私は両手でテオさんに舐められた耳を両手で抱えて後ずさった。テオさんが、ケラケラと笑っていた。「逃げないでよ」とテオさんがずるずると膝立ちのまま追ってくる。思いっきりぶんぶんと首を振るのに、テオさんは容赦なく私を組み敷いた。そして、よしよし、と左手の外側で私の頬を撫でた後、「いつか、またね」と言った。
またね
約束は、守られることはなかった。
世界は、紋章の力で溢れている。
「…………おばあちゃん?」
幸せは、手のひらからこぼれ落ちた。
← ■ →
2011.05.16
様はどこかへ消えたと聞いた。彼はその小さな背中に、たくさんのものを背負ってくれた。彼が幸せならいいと思う。あとは私たちのお仕事だ。争いは終わった。同盟軍が勝利した。けれどもやるべきことはてんこ盛りで、浮かれてばかりではいられない。
(……テオさん、どこに行っちゃったんだろう)
いいや、その言い方は変だ。あの人はほんの少しお手伝いをしているだけだと聞いた。消えたというよりは、戻ったと言うべきだろう。私は宿屋だけでは終わらず、城のお掃除や畑仕事も手伝って、毎日がぐるぐる過ぎていく。そんな中で、ふと、バンダナの青年を探している。似ている人を見つめて、あっと思うのも一瞬で、全然似ていない別人ばっかりだ。
目の前が、少しだけ涙で滲んだ。(別に、そんな仲がいいとか、そういう訳じゃなかったけれど……)ときどき、話をするお客さんだっただけだけど。(最後の挨拶くらい、したかったな) 泣いてしまいそうだ。いや、泣いている。
私は地面に座りこんだ。ぽろぽろこぼれる滴が地面に丸いあとをつけて、そこだけ色が変わっている。(……どうしよう、かなしい)こんなことしている場合じゃないよと分かっているのに、息ができない。
目の前に、誰かが立っている。その人は息をのみ込んだ。どう考えたって通行の邪魔だ。私はのそのそと立ちあがってどこかへ逃げ去ってしまおうとしたとき、「…………大丈夫?」聞きなれた声が聞こえた。びっくりして顔をあげた。すると彼もびっくりしたように、瞳を大きくさせた。
テオさんの、そんな表情を見るのは初めてだった。彼はいつもにこにこしていた表情を崩して、慌てたように何度も瞬きをさせた後に、きょろきょろと視線を移動させて、私の腕を左手で掴んだ。こっちに来い、というように丁度周りから視界になる建物の隅っこへ移動させ、ぽんぽん、と正面から私の肩を優しく叩いた後、座らせる。「どこか、痛いところでもあるのかな?」 そう言って優しい声を出した。
私はぶるぶると首を横に振った後、この顔をなんとかしようと服で両目をこする。ごわごわして痛い。そうして改めてテオさんを見上げると、彼の右腕にぐるぐると白い包帯が巻かれていることに気付いた。「て、テオさん、けが、が」そう言って手を伸ばすと、彼はハッとしたように腕を上げた。そしてそのままの体勢で私と見つめあった後、腕を背中へと移動し、やんわりとわざとらしいくらいに微笑む。「まあ、俺も人間だから。怪我をすることくらいあるさ。さん、気分が悪いのかな、もう大丈夫?」
私ははいともいいえとも言えないような、首を斜めにさせてテオさんを見上げた。「テオさん、その、どこに……行ってらしたんですか?」「家に帰っていたよ」「ご実家ですか?」「うん」「どちらの、ご実家ですか?」「それを俺がきみに言う必要があるのかな?」 にっこりとテオさんは微笑みながら私を見下ろした。
私はぼんやりと彼を見上げた。そして何度も瞬きをして、少しずつ顔を下へと向けた。「そ、で、すよね……」 ですよね。そう言いながら、なんだか語尾が緩んできて、喉が痛くなってきて、またぽろりと涙がこぼれてしまった。こういうときに泣くのはよくない。とても卑怯な気がする、と一生懸命両目をこすった。けれども中々涙が止まらない。止まらないどころか、どんどん呼吸が苦しくなっていく。とうとう、両手を顔につけたまま、動けなくなってしまった。鳴き声を我慢しようとするのに、喉から出てくる嗚咽が止まらない。我慢と鳴き声のせめぎ合いで、ひくひくと嫌な音が響いた。
ほんの少し向こうには、たくさんの人がいて、それぞれみんなお仕事を頑張っている。なんだろう、この体たらくは。こことそこと、同じ世界とは思えない。テオさんは、ただ静かに私を見下ろしていた。怖くて、彼の顔なんて見れる訳がない。なんだこの面倒くさい女は、と思われていそうだ。私は思う。こんな自分はとても面倒くさい。とても迷惑をかけている。謝るくらいなら、さっさと泣きやめばいいと分かっているけれど、私はごめんなさい、と言おうと顔をあげた。心臓を押さえつけて、テオさんを見た。すると彼は、とても苦しそうに顔をゆがめていて、ぱくりと口元を動かした。「やめてくれ」
よくわからない、と思って彼を見続けていると、ふいに、テオさんが私に覆いかぶさった。何故だか右手は背中へと回したまま、ぎゅっと左手で私を抱きしめている。「やめてくれ、最後にする気だったんだ。最後にしなきゃならないんだ。お願いだから、泣かないでくれ」 勘弁してくれよ、と彼は喉から声をすりだした。
どうしたんだろう、彼は何を言いたいんだろう。私はぎゅっとテオさんの服を握りしめた。「テオさん、待って、おねがい、嫌です。最後なんて嫌です。私、私、テオさんのこと好きです」 思わず言ってしまった。けれどもテオさんは私の肩に顔をうずもらせながら、「そんなこと、とっくに知ってるよ」と吐き出した。「えっ。し、知られていましたかっ」「知っていましたよ。丸わかりだよ。俺だって、さんのこと大好きだ」
えっ、と馬鹿みたいに繰り返して喉から声が出てしまった。テオさんの抱きしめる力が、少しだけ強くなって痛い。
「さんが、一生懸命なところが好きだ。かわいいと思う。すぐ慌てるところも好きだ。すごく普通で、平凡で、でも可愛くて。俺も、こんな風に生まれたかった。さんと幸せになりたかった。でもごめん」
テオさんが、言葉を区切った。
「俺、本当はテオなんて名前じゃない。テオは父親の名前だ。さんと一緒に生きることはできない。一緒にいたら、多分俺はさんを殺すと思う」
「え? こ、ころ……?」
「ごめん。本当に、どうにもならないことなんだ」
「テオさん? え、いや、テオさんじゃなくて、その、……え?」
「混乱させたね」
ごめんね、とテオさんはゆっくりと腕の力を抜いた。そして座った私に合わせるように膝を立てて座ると、左手でよしよし、と私の頭をなでた。彼は手のひらの動きを止めて、少しだけ考えるそぶりを見せた後、唐突に、ちゅっと私のほっぺたにキスをした。「ひいっ」と声を上げる暇もなく、彼は静かに私の耳に呟いた。「いつか迎えに行く」 だから待ってて。
そう言った後、いいや、と彼は首を振った。「もしかしたら、もう一生、君とは会わないかもしれない。期待なんてしないで欲しい。俺が、あいつに勝つことができたら。君を殺さない自信が持てたら、迎えに行く。
あいつとは何のことなのか。なんで、テオさんは、本名を教えてくれないのかとか、殺すとか、殺さないとか、なんのことなんだろうとか。
私は色んなことを、一瞬のうちに考えた。けれども返事に関しては、何も考えなかった。頷く以外の返事なんて初めからない。「はい、待ってます。期待なんてしません。でも、待ってます!」 嘘だ、期待なんて、するに決まっている。でも、そう言わなきゃ、彼は安心しない。
テオさんは、ふっと微かに微笑んだ。そしてもう一回私の肩口に頭を乗せて、「いつか、俺の名前を名乗らせて欲しい」 そう言って、ぺろりと私の耳をなめた。「ぎゃー!!」
私は両手でテオさんに舐められた耳を両手で抱えて後ずさった。テオさんが、ケラケラと笑っていた。「逃げないでよ」とテオさんがずるずると膝立ちのまま追ってくる。思いっきりぶんぶんと首を振るのに、テオさんは容赦なく私を組み敷いた。そして、よしよし、と左手の外側で私の頬を撫でた後、「いつか、またね」と言った。
約束は、守られることはなかった。
世界は、紋章の力で溢れている。
「…………おばあちゃん?」
幸せは、手のひらからこぼれ落ちた。
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2011.05.16