はじまりの日




僕は駆け抜けていた。
目線が今よりずっと高くて、手のひらががっちりしていて、左手には     あれ、何も無い。

てっきり、覇王の紋章さんがいるものだと思っていた。けれども何もない。紋章さんはどこにもいなかった。あれ、じゃあどこに? というか、僕は誰だろう。

「進め!」

“ぼく”が声を出した。「進め!」 ぱからっ、ぱからっ、ぱからっ
僕の目の前は揺れている。ガタガタと視界が震えて、ジャンピングしていた。まるで車に乗っているみたいに、視界がびゅんびゅん進んでいく。(馬だ!) 僕は、いいや誰かは、馬に乗っているのだ。それだけで心の中の僕は、尻込みをしてしまって、うわひゃー! と叫んで逃げてしまいそうなのに、“ぼく”はしっかりと手綱を握りしめて、まっすぐに駆けた。

「簒奪者、ゲイル・ルーグナーを! 打ち取れ!!! 帝国を奪い返すのだ!」

腹の底から叫ばれた声は、銅鑼を鳴らしているかのようだ。「応!」とたくさんの男の人達が声を合わせて叫んだ。
誰かは左手で手綱を握って、右手で腰から剣を引きぬいた。「竜王剣は、ここにあり! 義はこちらにある!」

ギラリと光る剣に合わせて、幾重にも答えの声が重なる。ずしりと重いその剣は、意外なことにもしっくりと手のひらに馴染んでいて、僕はその剣を見つめ、ほんの少し瞳を緩めた瞬間、目の前に黒い影が降り立った。僕の前の前に、誰かが飛び出した。彼も茶色い馬に乗っていて、襲い来る兵士に剣をつき出し、首をはねとばした。「ゲオルグ!」 僕は勝手にそう口が動いていて、ニマッと笑った。

首を跳ね飛ばされた兵士は、手綱を持つ手のひらが緩み、ぐしゃっと音を立てながら地面に落下した。馬ばかりが駆け抜け、通りすぎていく。「バルバロッサ様、あんまり前に出られると、軍師共が顔を真っ青にしていますがね」「ハッ」 僕は馬鹿馬鹿しく、鼻で笑った。そしてぐるりと竜王剣を振り回し、第二の敵の胸へとすれ違いざまにつき出し、馬上から引きずり落とした。落ちた兵士は自身の馬にあっけなく胸を踏まれ、叫び声を上げ、絶命した。「後ろに引き下がってばかりの、口ばかりの将に誰が付いてくる!」

勝手に口が笑っていた。ゲオルグは「確かに」と首をすくめて、「古今東西、数多の武将が叫んだ言葉だ。なるほど説得力がある」「だろう?」 ならばしょうがない、と言うふうにゲオルグは口元をほんのちょっぴり上げた。
そのとき、僕は、バルバロッサも嬉しくなった。バルバロッサ様は。


ぼくは?



「…………?」

ぎくり、と僕は肩を震わせた。そして自分の両手を見つめた。フリックさんにもらった、ぶかぶかの手袋だ。何も持っていない。僕は剣を握っていた。そして誰かを刺して殺した。いや、僕じゃない。いや、そんな。「…………おい、?」「ひっ……」 体が小刻みに震えた。振り返ってみた。ポールくんだった。ポールくんはソバカスだらけの顔を心配気にさせて、「熱でもあるのか?」と僕の額に手を当てた。別にねぇなぁ、とううーん、と口元をひねって、腕を組む。

ここはどこだろう、と辺りを見回してみると、僕とポールくんのお部屋だ。こっちが僕の場所だ。両手をもう一度見つめて、ぐーぱーを繰り返してみた。小さい手のひらで、僕の両手両足は、あんなに長くもないし、声だって高い。

ぶるぶると小刻みに体が震えていた。「お、おい、風邪か? 寒いんなら布団の中に入っとけよ」「い、いや、ちがうよ……」 それでも体は震えてた。舌の先も、ぶるっと痙攣して、少し舌っ足らずに僕は答えた。ポールくんは、やっぱり不安そうに僕を見ていたけれど、「それで、どうしたの、何か用事? ポールくん」と何でもないふうに僕は言った。

ハクチュウムというヤツを見ていたのかもしれない。
ポールくんはしばらく伺うような表情をした後、「いや、ビクトールさんが、にってな」「わかった、お部屋に行くよ」「ああ、伝言はもう聞いてるからさ」

ん? と僕が首を傾げると、ポールくんは自身のうなじ辺りをコリコリとかきながら、「地下の掃除をな、ちょっと頼む」 地下の掃除。
ふうん、と僕は適当に頷いた。お掃除なら、何度もしていることだ。地下と言えば、さんがいるところだろう。いつもなら、さんと仲のいいポールくんが行くのに、なんでかな、とちょっとだけ不思議に思ったのだけれど、僕はわかったよ、と言って部屋を出ていこうとした。すると、ポールくんが、少しだけ言いづらそうに喉をならした後、

、牢屋だけどな、今はひとりじゃねーぞ」
「え?」
「夜中のうちにさ、もう一人が侵入したんだ。まあ、お前は寝てて気づかなかったみたいだけどさ」

僕は、ほんのちょっぴり瞳を大きくさせた。





      人を殺した


いいや、僕じゃない。僕以外の人だ。バルバロッサ様が、人を殺したのだ。それも夢の中の話だ。ずしゃっと剣を振り回して、案外簡単に、すっと刃が胸を通り抜けた。
右手を見つめた。なんとなく、バルバロッサ様のマネをしてみる。ぶんっ、と剣を振るマネをした。そして、ぎゅっと手のひらを握って、額に拳をつけた。
怖かった。
なぜか、わからないけど。
僕はただ、怖くて仕方がなかった。





「あ、、おはよー」
「おはようございます、さんと……ぴぎゃー!???」

いやー! と叫びながら、片手に持っていた雑巾を力の限り振りかぶった。丁度格子を握っていたさんの顔あたりに、びちゃっ、と雑巾は飛んで、そのままストンと地面に落ちる。さんは片手で顔面を抱え、「水しぶきが……水しぶきが……」「うわああああん、ごごご、ごめんなさぁーい!!」 

力の限りビックリしたのだ。もう一度言うけど、ビックリしたのだ。
さんの隣では、見覚えのある金髪のお兄さんが腕を組んで座っていた。そして僕をちらりと見つめ、「あ、昨日の」「お兄さん、やっぱり悪い人だったんですね!!」 ウソツキでキツツキだったんですね!?

「あれー、ジョウイ、を知ってるの?」
「いや、昨日ちょっと会っただけで……」

お兄さんは口元をモゴモゴさせていた。彼の名前はジョウイさん、と言うらしい。僕はとりあえず両腕を目の前につき出したまま、ブルブル小刻みに震えつつ、「う、嘘をつくと、エンマさまに舌を抜かれるといいますよっ、お兄さん、明日から舌がなくなっちゃってご飯を食べるのに苦労することになるんですからねっ!」「なんだかナチュラルにグロい事言ってるんだけど、ジョウイ、きみ何したの」「いやあ、まあ、ちょっと……」 ジョウイさんはホッペをカリカリと引っ掻いて、「勘違いだ」とアメリカ人みたいに両手を横に置いて、肩をすくめた。

くん? 勘違いだよ。昨日僕が言っていたことを覚えている?」

ジョウイさんは優しくやんわりと微笑みながら僕を見た。僕は、ピタリと体の動きを止めて、ゆっくりと頷く。     確か、砦の人に恩があって、挨拶にきたとか、言ってたような。「うん、ありがとう。勘違いなんだよ、僕はちょっと挨拶に来ただけなんだけど、何でこうなったのか……気づいたら牢屋の中に入れられちゃっててね。自分でもビックリだ。だからさ、ちょっと牢を開けてくれないか? そっちの責任者の……」 ちらり、と僕を見た。「ビクトールさん?」「そ、ビクトールさんに挨拶がしたいだけだから、開けても君が怒られることはないから、大丈夫!」

大丈夫?
ウーン、と僕は口元をアヒルみたいに尖らせて考えた。「いいですよ」「本当!?」「はい。でも、開けてもいいか、ビクトールさんに確認してからですけど」 っていうか、僕牢屋の鍵なんて持ってないし。
ニコ……ニコニコニコ……とお互い微笑んだまま、僕とジョウイさんは見つめ合った。「チッ」 そして小さくジョウイさんは舌打ちをした。「ややや、やっぱり嘘だったんですね!?」 なんてこった!

さんは僕とジョウイさんを困った顔をして見守っていた。「まあまあ、ジョウイ。結構気のいい人が多いみたいだからさ、ちゃんと話せば分かってくれるよ」「きみはいつもそう言って……ああもうっ、そんな風に簡単に人を信じるもんじゃないよ!」「え、ええー」

そしてなんだか喧嘩まで始めてしまった。
喧嘩というか、ジョウイさんからの一方的なお説教なんだろう。さんが正座をして、粛々と頭を垂らしながら、ジョウイさんは人差し指をピシピシして、「確かに何でもかんでも受け入れてしまうのは君のいいところではあるけれど、それは時と場合によるだろう。まったく、そんなんだから、性格と同じく胃の中までブラックホールなんだ。君がするするナナミのご飯を食べてしまうから、僕までが毎回一緒に生贄になって」「ジョウイはニンジンがダメだもんねぇ」「今! それとこれとは関係ないだろー!」

僕がぶはっと笑うと、ジョウイさんは拳をギュギュッと握りながら、顔を真っ赤にして、ぷいっ、と顔を背けた。
なんだ、やっぱりあんまり怖くない人なのかな、と僕は雑巾を拾うついでにいそいそと牢に近寄った。「ナナミさんって、どなたなんですか?」 さんは、ちらりとジョウイさんを瞳だけで見上げた。ジョウイさんも、さんを確かめるみたいに瞳を落とした。

ほんの少しの間の後、さんは少しだけ口元をゆるめて、「僕の姉だよ。キャロに住んでる」「へぇ……その人、えっと、ハイランドに?」 確か、敵国の名前は、そういう名前だった。フリックさん達が味方をしているのは都市同盟だ。

うん、と頷こうとしたさんの口元をバシッと塞いだのがジョウイさんだ。ジョウイさんはあのとき、砦を見つめていたときのようにケンノンな目付きで僕を見つめて、「きみ、いくつ?」「じゅ、十歳です」「それがなんで、ここにいるんだい」 えっと、と僕は口ごもった。「あの、ちょっと、帰る場所がないから、お世話になってて……」「そうじゃないよ」

だったらどういうことだろう。
「僕らは牢にいる。言うなれば罪人、捕虜だろう。それがなんで、そんな小さな子と対面させる? 僕らは何も漏らす気はないよ。君の上司にでも、そう報告してくれるかな」「えっ、ぼ、ぼく、そんな……」 お掃除しろって言われただけだ。

もぞもぞ雑巾を抱きしめていると、今度はジョウイさんが困った顔をした。「もー、ジョウイったら。後悔するくらいなら、言わなきゃいいのにー。いじめちゃってごめんねー」「い、いえ……」「いっ、いじめてなんかないっ!」

またジョウイさんはほっぺたをカーッと真っ赤にさせて手のひらをバタバタさせていた。牢屋の中で、にこにこ笑うさんと一緒にぶるぶる首を振るジョウイさんはなんとも変な感じで、寧ろちょっぴり面白かった。「ぶふっ」「笑うなっ!」



「で、どうだった?」

拭き掃除のお掃除が終わったので、「ビクトールさーん、終わりましたよー」と声をかけると、そうかそうかー、とビクトールさんはお部屋の中でガハハと笑って、お疲れ、と僕の肩を叩くと同時に、そう聞いてきた。何のことだろう? と僕が首を傾げると、「だから、あいつらなんか言ってたか?」

なんか? 「あの、さんのお友達は、ニンジンが嫌いだそうです」「なんだとっ」 あんなに旨いものを! とビクトールさんは瞳をギョウテンさせた後に、「えーい、今日の飯はニンジンだ! ニンジン三昧にして、ニンジンのよさをとっくと理解させてやるぜっ!」

「…………ビクトールさん、ニンジン、お好きなんですか……?」
「いや。食べれるならなんでも好きだ」
「(大食い熊さん……)」

ビックリするほど見かけ通りです。


「それで? 他には?」「えっと、特には……」 さんに、ナナミさんというお姉さんがいるということを聞いたけれど、さすがにそれは言わなくてもいいだろう。(何でもかんでも、おしゃべりしていいと言う訳ではないからね) ウンウン、と僕は頷く。人様の事情を勝手に言ってしまうのは、よくないことだ。

ビクトールさんは、「そうかー」とボリボリ頭をひっかいた後、にゅっと腕を伸ばして、もにもに、と僕のほっぺたをひっつかみながら、「にゃー、ペロッと事情でも喋っちまうかと思ったんだけどなぁ。平和そうな面してるし」「エエー!!」 ジョウイさんが言った通りの目的だったの!?

「ぼぼぼぼぼひゅっ、まひゃかひょんなひょはっ」

僕、まさかそんなとはっ! と主張してみたのだけれど、お口が伸ばされては喋るものも喋れない。「うひゃうー、はにゃしてくひゃはいー」と暴れると、「ウハハハハ!」 とビクトールさんは爆笑した。ヒデェ。「まあ初めからそんなに期待もしてなかったからな、気にすんな」

ビクトールさんは、やっと大きな両手を放してくれたのだけれど、ホッペがひりひりして痛い。ううう、と両手でホッペをガードしつつ、「それならよかったです……」と僕はそそくさとビクトールさんから距離を置いた。これ以上ぶにぶにされてはたまらない。「おう。まあ、あらかた予想はつくが、中々口を割らねえなぁ。ま、お疲れ。頑張ったな」「はいー」

僕はぺこん、と頭を下げた。そして出ていく途中に、「あー、? ついでにバーバラに、今日の夕飯はニンジン三昧にしてくれって伝えといてくれや」 まさかの本気であった。

僕は殊勝に「はーい……」とお返事をしつつ、夕ごはんがピーマンの緑一色になってしまう様を想像した。それはちょっとしたイジメだった。まさかジョウイさんに、同じ苦痛を味わわせる訳にはいかぬ、と涙が出てきそうになったので、僕は勇気を振り絞り、バーバラさんに、「今日のお夕食は、ちょっぴりだけニンジンを使ってくださいね、ビクトールさんのリクエストですっ」と拳を握った。これで少なくとも、オレンジ一色は阻止できるはずである。

ビクトールさんにバレたら、怒られちゃうかなぁ、とビクビクしていたのだけれど、ビクトールさんは特に気にすることなく、ビールを片手にガハガハ笑っていた。というか、多分忘れているんだろう。僕の勇気を返して欲しい、ちくしょう。



***


「おい、、起きろ!」 その夜、僕はポールくんにたたき起こされた。なんなんだよう、ポールくーん、と起き抜けにへにょへにょした口調で答えると、「砦が燃えてる、ボヤが起こった!」「えっ!!」

僕は一瞬のうちに眠気が覚めて、ばばっと飛び起きた。ポールくんの後ろを駆けながら、嫌な汗がだらだらと流れて止まらなかった。食堂に駆けつけると、すでに全員が起きて、床の真っ黒な燃え後を見つめながら、「なんでまた、こんなとこに……」と首をひねっていた。台所に近い。でも、燃えたのは火の手からほんの少し離れた場所であったらしい。一体どういうことだろう。

「何が燃えたんだ?」
「これです。油がしみた布です」
「…………うん」

フリックさんが、兵士から渡された、今はただのボロカスになってしまった布を、手袋の先に掴んで検分した。火はとっくの昔に鎮火していたらしい。よかった。フリックさんの手元をビクトールさんが覗き込んだとき、「大変です、二階からロープがおりてます!」「地下の二人がいません!」 その報告がやってきたのはおんなじタイミングだった。

     つまり

そんなこと、僕にだってわかったしまった。
二人は火を放って、その隙に二階から逃げたんだ。「やられたな」とフリックさんは苦笑しながら鼻の頭を撫でた。
「それにしても、何でこんなものを……」 フリックさんは、ひょいっとボロ布を見つめる。「中々手が早いな」 ほんの少し感心しているような口調だった。

「ロープ、油の布、火……」とポールくんが真っ青な顔のまま小さく呟やいていた。そしてハッとしたように口元に手を置いた後、フリックさん達の前に飛び出した。「あ、ち、違うんです、フリックさん! それ、多分、俺が……に手伝わしたときに、わ、渡したまんまにしてて……、あ、あいつが悪い訳じゃないんです!」「わかったわかった」

落ち着け、とフリックさんがポールくんの頭をポンポン、と叩いた。ポールくんはほんの少しホッとしたらしい。フリックさんは目尻を緩めたけれど、それは一瞬だ。ビクトールさんがちらりとフリックさんを見た。フリックさんも、ビクトールさんを見た。「ま、別に逃げられてもかまわねーけど……」「ああ、危ないな」
何が危ないっていうんだろう。僕にはまったくわからないけれど、彼らにはわかるものがあるらしい。

「まさかハイランドに戻った訳じゃないだろうが……国境を超えるには、燕北の峠を抜けなきゃならん。あそこには見張りの兵がいるだろう」
「いやぁ、フリック。案外うまくやるんじゃねぇか? 今みたいにな」

ビクトールさんは片眉をくいっと上げて、フリックさんが持つ燃えカスに大きな人差し指をちょんとつついた。
それを見たポールくんが、顔を真っ青にさせて、「待ってください、あ、危ないって何がですか、の奴がですか! あいつ、いいやつですよ、悪い奴じゃないんです、俺があんなもん渡したままにしてたから、思わず逃げちゃっただけで、そんな、本当に……。お願いです、あいつが危険ってんなら助けてやってください、フリックさん!」

まさかいつもならそんなことをする訳がないのだけれど、ポールくんはフリックさんの首元にすがりつくようにブンブンと腕を上下させた。身長が違うものだから、フリックさんの体はピクリともしないけれど、「だ、だから落ち着け」とさすがにちょっぴり焦ったようにポールくんの腕を掴む。「言われなくても、大丈夫だ」「そっ、特にこいつはお人好しだからな」「おいビクトール」

ポールくんは安心した顔をしてフリックさんから離れたけれども、反対にフリックさんは苦い顔をした。「それにしても、ハイランドのどこに行ったかわからんと……」 動くにも動けないな、とつぶやく彼の声を聞いて、あっ、と僕は思い出した。「フリックさん!」

どうした、と言うふうに、フリックさんはほんの少しだけ瞳を開いて僕を見た。「キャロってところに、さんの、お姉さんがいるみたいなんです。だから、もしかしたら、そこに……!」「なるほど、可能性はある」 偉いぞ、とフリックさんは僕の頭をくしゃくしゃにした。

へへ、と僕が笑うと、フリックさんは周りにいる兵士たちに、「俺とビクトールは、しばらくの間砦を離れる。その間、しっかりと留守番しとけよ!」 
はいっ!! とみんなは力強く返事をした。その中には、ゲンゲンくんも、ポールくんも安心した顔をしていた。「さー、散れ散れ! 夜はしっかり寝るもんだ!」とビクトールさんは片手を振って、みんなバラバラに消えていく。

フリックさん達の荷物の準備は、すでにバーバラさんが済ませていたらしい。彼女は大柄な体に似合わないテキパキした動きで、「ほらよっ!」とフリックさんとビクトールさんに袋を一つずつ渡す。「ありがとうよ」とビクトールさんが下手なウィンクをすると、「似合わない仕草をしてる暇があるんなら、さっさと行って、さっさと帰ってきなっ」とバーバラさんはペシッと片手を振ったので、あらら、とビクトールさんはずっこけた。


    そのとき、僕はどうしようもなく不安な気持ちになった。そうだ、こっちに来て、フリックさんがいないときなんて、一番最初、山にこもっていたときくらいなのだ。僕はぎゅっと唇をかんでフリックさんを見上げた。フリックさんはちらりと僕を見た後、片手でぐしぐしと押し付けるみたいに僕の頭を撫でて、「それじゃ、行くか、ビクトール」

「おうよ。さっさと戻ってこねーと、尻を叩かれるしな」
「誰にだいっ!?」
「おおう、なんでもねぇよ!」


それはよかった。とバーバラさんは歯を見せて笑った。僕も笑った。ばいばい、と二人に手を振ると、一瞬フリックさんが振り返った。ばいばい。僕の肩に、バーバラさんの手のひらがのっかっている。「寂しいかい?」 小さな声で、彼女が僕に話しかけた。
僕は正直に、うんと頷きそうになったけれど、ぶるぶると首を横に振った。「ぜんぜん!」「そうかい」 見栄くらい、張りたくなることもある。僕だって、男の子なのだから。

いつもだったら、悲しくて涙が出てしまったかもしれない。
でも、今日は大丈夫だった。「行ってらっしゃい!」 僕は大きな声を出した。フリックさん達に届くかどうか分からなかったけれど、行ってらっしゃい。

どうか、みんなが無事に帰ってきますように。





  

2011/10/09

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