はじまりの日




     一体、どうしてこんなことになってしまったんだろう



「はやく!! 逃げるんだよ! 荷物は必要最低限! 絶対によくばるんじゃないよ! よくばって、一番大切な命をおっことしても、あたしゃあ面倒みきれんからね!!」

バーバラさんとレオナさんを中心にして、砦の中の人たちは慌ただしく動き回っていた。はやく、はやくと砦から蜘蛛の子を散らすようにたくさんの人が逃げていく。(どうして) フリックさん達は、負けてしまった。遠くで上がる合図の狼煙に、バーバラさん達は顔を真っ青にした。けれどもすぐさま体制を立て直し、声を張り上げて駆ける。

僕は必死でお金の箱を取り出した。お金の計算管理は僕の仕事だった。僕がちゃんとしないといけない。お金は必要だ。最低限、最低限、と繰り返しながら、僕は夢中に自分の靴下の中にお札をつっこんだ。ここなら絶対なくさない。指が震えていた。怖くて怖くてたまらなかった。フリックさんが、負けた。絶対変だ。すごく変だ。それだけ何度も考えて、僕は手のひらを動かした。でも、負けてしまったものは、負けてしまったのだ。


    出陣するとき、フリックさんは僕の頭を撫でた。
「いいかぁ、あの“獅子の旗”にかけても、この砦を守り抜くぞ!!」というビクトールさんの言葉に、あれって熊じゃなかったの? ライオンなの? と首を傾げるみんなを見ながら、フリックさんはちょっとだけ複雑そうな顔をしていた。そしてそれをごまかすように、「さぁ、いくぞ!!!」 おうッ! と傭兵の人たちは声を振り絞った。
挨拶が終わって、僕がフリックさんに駆け寄って、彼を見上げると、フリックさんはニッと口元を笑わせながら僕の頭を撫でた。不安なんて、どっかに飛ばしちまえ。そう言うみたいに、最後にポンッと僕の頭をはじいたのだ。

「フリック、その子は?」
「ああ、アップル。ちょっとした拾い子だよ。名前は

アップルと呼ばれた、賢そうな顔をしたお姉さんが、メガネの向こう側でほんの少しだけ瞳を大きくさせた。「偶然だろ? それにしたってよく似てる」「よくある名前だと思うけれど」 僕はよくある名前らしい。
ちょっと困った後、ぺこりと頭を下げると、アップルさんは少しだけ笑った。そしてすぐに、厳しい顔をして、前を見据えた。
戦いが、始まるのだ。




    あれから、全然経っていないのに。

(ぼくが)
僕が、もっと。

お金を詰め込みながら、フリックさんと話してから、まるで何日も、何週間も経ってしまったように感じた。僕は結局、なんにもできなかった。何をしていいのかもわからなかった。(がんばろーね!) ナナミさんの声が聞こえる。むっくー! と僕の頭をペシペシしたムクムクくん。頑張ったのは、きっとあの人達で、ぼくじゃない。
ぎゅっと唇をかんだ。


(おにいちゃん……)

ふと、声が聞こえた。
僕は顔を上げて、天井を見つめる。気のせいだろうか。気のせいかもしれない。もう一回、耳をすましてみる。わからない。小さな女の子の声が聞こえた気がした。思い当たる子は、一人しかいない。僕はゴクッと唾を飲んだ。
     がんばろーね!
ゆっくりと、息を吐き出す。左手がチリチリとする。

僕は腰をかがめて、バーバラさん達の間を抜けだした。大丈夫、ちょっとしたら戻る。大丈夫。(ピリカちゃん) ぼくは、がんばらないといけない。




「…………ピリカ、ちゃん…………?」
ピリカちゃん、と僕は何度も呟いた。一歩足を踏みしめるために、ぎしぎしと廊下に音が鳴り響く。さっきまで、下でバタバタと音が聞こえていたのに、今はしんとしている。ときどき兵士さんとすれ違うけれど、みんな僕のことに目もくれないで、駆け抜けていく。「ピリカちゃん」 いないの? 一つ一つ、扉を開けて確認した。いない。やっぱり、気のせいだったのかもしれない。でも、もしかしたらということがあるじゃないか。それで何にもできなかったら、僕はこんどこそ死にたくなる気持ちになると思う。

「ピリカちゃん……!」

大きく、声を出した。「!?」 ふと聞こえた声に、僕は振り返った。そばかすを散らした顔に、ぼたぼたと汗を垂らしたポールくんが、階段を駆け上がる。「なにやってんだよ、おまえさんは!!」 僕はぎくりと肩を震わせた。

「あの、ぴ、ぴりか、ちゃんが……」
「ピリカ? ああ、ジョウイが連れてきた子かい」
「うん。ピリカちゃんの、声が、した気がして……」

ポールくんは難しい顔をした。そしてわかった、と頷いて、僕の肩の手のひらを置いた。「わかった、俺が探すからよ。は下に行け。バーバラさんが探してたぞ。はやく逃げろ」「で、でも、ぼく……」 人任せにして、自分だけ安全な場所にいることが卑怯なことくらい、わかっていた。今、僕はすごく怖い。でも、ポールくんだって、同じくらいに怖いはずなのだ。

ポールくんは、ギッと眉を釣り上げた。丸っこい顔に似合わない表情だった。「はやく行け!!」 ポールくんの怒声に、体が飛び上がった。「言うことをきけ! ばか! はやく!」 背中を押されて、僕は一二歩踏み出した。振り返ったたら、ポールくんが怒ったような顔をした。僕は慌てて駈け出した。

転がるように階段をかけ降りると、もう誰もいない。砦の外に出てしまったんだ。それと入れ違いのように、何人かの兵士さん達が戻って来る。多分外で戦っていた人だ。ジョウキョウは混乱していた。僕はバッと扉の外へ出て、走った。心臓がドクドクしていた。逃げたい。逃げなきゃ。怖い。こんなところにいたくない。やだ、こわい。にげよう、にげて、にげて、はやく、にげて、(どうするんだよ)

どうするんだよ。
ギリギリと、左手が何かに締め付けられる。覇王の紋章さんが、何かを言っている。僕は息を吐き出した。(あのとき) リューベの村が、滅ぼされてしまったとき、僕は何もできなかった。また、何もできない。しょうがない、力がないから。しょうがない、でも、(本当に……?)

僕一人が生き残ったのは偶然じゃない。そんなこと、とっくの昔に気づいていた。覇王の紋章さんのおかげだった。僕は何かを“拒絶”した。あのとき僕は、自分一人が助かろうと、必死だった。他のことには目が向けられなかった。でも、今度は違う。ピリカちゃんは、ポールくんはと頭の中がいっぱいで、なにより僕は体を自由に動かしている。何もできないなんてことはない。何かができる。絶対に何かができる。


     バルバロッサさま


馬に乗り、刀を振り回し、たくさんの人を守って、導いていた。僕もできる、きっとあんな風になれる。なんてったって、(覇王の紋章さんがいるから) ぜったい、だいじょうぶ!


たくさんの人が、砦の中になだれ込んだ。僕は慌てて周りの草木の中に隠れ、息を顰める。傭兵隊の人たちじゃない。新しくミューズからやってきた人たちでもない。彼らは真っ赤な血を体中に塗りたくって、ぷんぷんと鉄臭い匂いをばらまいていた。(ポールくん)

どうすればいいのか。僕はフリックさんからもらったぶかぶかの手袋越しに、左手を見つめた。どくん、どくん、とまるでもう一個の心臓がそこにあるみたいだった。どくん、どくん。(紋章さん) 力を貸してください。
僕は心の中から、そう念じた。ぎゅっと瞳を瞑る。何度も何度も、心の中でお願いをした。でも駄目だった。僕は諦めたように瞳を開けた。どうしてだろう。この間は、紋章さんが何かをしてくれた。だから僕は誰にも見つかることなく、生き残ることができたのに、今は何がいけないのだろう。

僕はひそめた声で、左手に語りかけた。「覇王の紋章さん、おねがいです、僕は、ポールくんとピリカちゃんを助けたいんです。おねがいです、おねがいです、力を貸してください。ぼくじゃ駄目なんです、おねがいです……!」 心の底からの言葉だった。言い終わった後、近くで足音が聞こえた。僕は頭を抱えて、小さくなった。

息をひそめる。心臓の音が大きくて、外に溢れ出してしまうんじゃないかと不安になるくらいだった。ぎゅっと瞳を瞑る。こわい。泣きそうになった。でも泣かない、と僕は唇を噛み締めた。ふと、周りの空気が暖かくなって、僕は驚いて顔を上げた。


お兄さんが僕を抱え込むように守ってくれていた。


何度も会った、変な幽霊のお兄さんだ。抱え込むと言っても、彼は僕の体をさわることが出来ないらしかった。ただ、それでも、心の中がほっとした。お兄さんは、かっこいい顔を、やんわりと微笑ませた。さ、逃げるんだ。そういう風に、遠くに指をさす。多分、そっちの方に行けば、僕はアンゼンに逃げられるのだと思う。でも僕は必死で首を振った。嫌です、逃げない。今度は逃げない。そう思って、じっと幽霊さんと見つめ合った。

幽霊のお兄さんは、困ったように苦笑した。そして僕の左手に、ゆっくりと手のひらを差し出した。そして僕の手をさわるほんの少し前に、ピタリと手のひらを止めた。


  きみは、力を望むかい


ふと、声が聞こえた。
僕は驚いて、彼を見上げた。


   逃げても構わないんだよ


お兄さんは、悲しそうな顔をした。僕は一生懸命首を振った。構うとか、構わないとか。そういう意味じゃないんだ。違うんだ。僕が嫌なんだ。
僕はお兄さんの目を、じっと見つめた。お兄さんはやんわり微笑んで、うんと頷いた。そして茶色い手袋をつけた左手で、僕の左手をぎゅっと握った。
握った。
(あれ)

      お兄さん、幽霊さんじゃなかったの


不思議に思ってお兄さんを見上げた瞬間、どくん、と大きく心臓がなった。周りの視界と自分の境界線がぶれて、「うあ」と僕は短く声を上げた。今度はさっきよりも大きくぶれた。どんどんぶれが大きくなる。「ひあ」 大きくなる。大きくなる。僕はぎょっと目を見開いた。
僕はどこかに飛んだ。






幽霊のお兄さんは、覇王の紋章さんを両手に持っていた。いつも夢で見る、丸い円球で、変な模様が、中でくるくるとゆっくり回っている。お兄さんはほんの少し瞳を細めて、優しげな表情をした。

「覇王とは孤独であり、拒絶の道だ。あのとき、リューベの村が滅んでしまったとき、きみは自身を世界から拒絶し、隔離した。この紋章は世界を拒絶し、他の紋章をいましめる力がある。この力は、きみを不幸にするだろう。力を得ると同時に、こぼれ落ちるものがある」

くる、くるくる。紋章さんが回っている。

「君は、孤独の呪いを背負うことになる」

のろい。
僕は一瞬体を固くさせた。全然意味がわからなかったからだ。
お兄さんはそんな僕のキモチに気づいたのか、苦笑した。「あれ、怖くなっちゃった?」「こ、こわくないよ」「怖いのは、仕方ないと思うなぁ」 でも、それでも一歩踏み出すのが、かっこいいんだよね。ニッと彼は白い歯を見せた。「大丈夫、今のきみはかっこいいよ」

お兄さんは左手を出した。僕はお兄さんのそれに合わせるように手のひらを伸ばした。「小さい手だなぁ」と、お兄さんは笑った。
お兄さんが抱き抱えていた覇王の紋章さんが、彼の手の中で、少しずつ小さくなり、ふんわりと宙に浮く。そしてゆっくりと僕の手のひらの中に吸い込まれていった。
ほんとうに、よかったんだろうか。

やっぱり少しだけ後悔する自分がいた。
息を吐き出した。
お兄さんは、やっぱり笑ったままだった。「そうだね。君は多分、これからたくさん後悔するよ。でも、一つだけ約束しよう。未来のきみは      今よりずっと、かっこいいんだから」


さ、いきなさい。

そう言って、背中を押された。行きなさいだろうか。それとも、生きなさいだろうか。
わからない。
     瞼をあけると、僕は地面の上で転がっていた。


口元についていた砂をぬぐって、ゆっくりと立ち上がった。手袋越しの左手を見つめる。「きょ、拒絶する……」 恐る恐るつぶやくと、ぎゅっと体が締め付けられるように苦しくなる。あのときと同じだ。だめだ、だめだ、と僕は首を振った。こうじゃない。少しずつ、体が楽になる。そうだ、これくらい。パッと、紋章が弾けた。「つ、つかえた……」

覇王の紋章さんが、ちゃんとこっちを見てくれた。
僕は頷いて、茂みから体を起こした。そして砦の中に侵入する。足元に、倒れている人がいた。「……ひっ」 知り合いじゃない。けれど、傭兵隊の格好をした人だった。片手が落ちている。ぼたぼた血がこぼれている。けれどもその人は、瞳を開けてどこかを見たまま、動かなくなっていた。
僕は唇をかんで、その人の横を通り過ぎた。ぎゅっとフリックさんからもらった手袋を、お腹の前で抱きしめる。
怖くなんてない。

      怖くても、それでも一歩踏み出すのが、かっこいいんだよね。

幽霊のお兄さんの言葉を思い出した。
そんなことない、怖くない。怖くない。紋章さんがいるから、僕は怖くなんて、ぜんぜんない。
深呼吸を繰り返した。むせ返るような血の匂いが、体中の中にあふれた。でも僕はジッと前を見据えて、体を低くしながら階段をそっと降りた。その途中でも、倒れている人がいた。今度は傭兵の人じゃなかった。

上はもう、いっぱい探したから、次は下だ。ピリカちゃん達は、きっと下にいる。「紋章さん」 僕を守ってください。僕を守ってください。
僕は死んでいる人を見下ろした。そしておそるおそる、手のひらを伸ばした。彼にさわる少し前に、ぎゅ、と手のひらを握った。でも勢い良く、彼が握りしめていた剣をとった。重くって、大きい。でも、(バルバロッサ様が、持っていたのと同じ)

なんとなく、体の感覚が覚えている。
僕がバルバロッサ様になって、ひゅんひゅん振り回していた、あの“竜王剣”と、形が似ていた気がした。もちろん、竜王剣の方が、装飾が立派で、かっこ良かったけど、僕は少しだけ安心したキモチになった。
      僕だって、一人でも何かできる

そう思う。

剣をずるずると引きずるように持ちながら、僕は牢の中を見回した。いない。「ピリカちゃん……ポールくん……」声を出した。「ピリカちゃん、ポールくん!」 少しだけ大きな、声を出した。そのとき、大きな足音が聞こえた。
傭兵隊の人だ、とほっとしたけれどもそんな訳ない。傭兵隊の人は、こんなに乱暴な足音を出さない。僕は震える足を叱咤して、音に向き合った。隠れてる暇なんてなかった。

その人はべとべとに赤い血を鎧に染み込ませて、僕を見下ろした。王国軍の人だということくらい、一目で分かった。そして、僕を殺そうとしていることも、すぐに分かった。リューベの村の、あのルカという人と同じだった。「きょ、きょぜつ……」 だめだ、今紋章さんに頼っても、もう手遅れだ。

僕は震える手のひらで剣を構えた。目を瞑って、「やあ!!」と振り出した。けれどもあっけなく剣は弾かれて、一緒に僕自身も蹴り飛ばされ、壁に叩きつけられた。「い、」 いたい。でも駄目だ。ハッとして体を転がす。その場所に剣が叩き落ちた。ためらいなんてなかった。もし僕がそこに入れば、体のどこかをなくしてしまうか、それとも、そんなことを気にする必要もない体になってしまうかのどちらかだった。

「ひ、あ、うあ」 僕は四本足で、獣みたいにして逃げた。その逃げた場所に、また剣が叩き落された。階段に、階段に行って、外に行けば。考えた。けど、ほんの少しの距離が、まるで無限に遠く感じた。じゃあ、彼の横を通りすぎて、反対に逃げれば。瞬間、僕は真っ二つになる想像ができた。
(どうすれば)

どうすればいいんだろう。わからない。紋章さんがいれば大丈夫。そう思ったのに。駄目だ、すごく駄目だ。僕は死んでしまう。そんなの嫌だ。(      紋章さん!) 体が、ぶわりと震えたように感じた。

僕は何かを“見て”いた。
目で“見た”のではない。
体で“見た”
左手で“見た”
世界がピタリと止まった。ぐるぐると、向かい来る彼の右手に、炎が見えた。そして額には水が見える。なんだろう、と思った。水と炎が見えるなんて変だ。本当に火が燃えていた訳でも、水が宙に浮いていた訳でもない。でもそうだと思ったのだ。

「きょ、拒絶する!!」 僕は、彼の右手に向かって叫んだ。彼は、何だ? とでも言うように一瞬僕を見つめた。その瞬間、彼の右手はぐるりと渦を描き、吹き飛んだ。何もなくなった。「えっ」と、そのときになって初めて、彼は短く声を漏らした。それと同時に、まるで忘れていたとでもいうように、勢い良く血が吹き出した。

王国軍の兵士は声をくぐもらせ、体をねじ曲げた。
今だ、と僕は思った。
今しかない。
今しか、勝てない。



「炎を、拒絶する……!!」

僕は叫んだ。
そして、彼の頭は吹き飛んだ。


ぶじゅっ、と音がした。まるで肉まんの、きゅっと丸くなっている頭みたいに一瞬ぐるりと渦を巻いて、彼の頭は消え去った。冗談のように、頭と右手がなくて、バランスの悪い格好をした体がこっちを見下ろした。ぶしゃあ、と血が吹き出した瞬間、彼の体は仰向けに倒れた。「え?」 僕は瞬いた。「え?」 僕は、わかっていたはずなのに。


右手がなくなってしまったのだ。
それなら、頭のものもなくなってしまうに決まっている。
わかっていたのに、僕はなんのためらいもなく殺してしまった。(そうだ) 殺してしまった。
嘘だ、と思った。嘘じゃなかった。全然嘘じゃなかった。なーんちゃって、うそうそ、ビックリした? なんて言って死体は起き上がらない。紋章さんが殺した。違う、僕が、(僕が殺した)

     怖くないと思った
それも嘘だ。
僕は怖くて怖くて仕方がなかった。
でも、覇王の紋章さんが、全部なんとかしてくれると思ったのだ。
僕じゃなくて、彼が、僕の代わりに頑張ってくれると思ったのだ。
(かっこいい?)

嘘だ。

僕は殺してしまった死体を見下ろした。がたがたと小刻みに体が震えた。外から怖いんじゃない。内から怖いのだ。僕が怖いのだ。(つ、つかまっちゃう……) 誰に? わからない。ここは僕がいる世界じゃない。(でも、人を殺してしまったことは、じじつで) 野菜泥棒なんて目じゃない。僕は本当の犯罪者になった。なったんだろうか? あんまりにも簡単に死んでしまって、僕は殺したという気さえどんどん薄くなっていくように感じた。それがまた怖くなった。

とにかく、逃げないといけない。階段に駆け上ろうとした。けれどもそのとき、見覚えのある二人とすれ違った。「……!?」「ふ、ふりっく、さ」
フリックさんとビクトールさんは、体を赤く染めていた。彼らの血じゃない。僕は体を震わせた。「お前、こんなとこで何してんだ」 たくさんの槍を抱えたビクトールさんが、一瞬きょとんと瞳を瞬いた。

僕は彼らから死体を隠すように、死体と彼らの間に立った。彼らは死体には気づかなかった。そのことにほっとした自分が、すごく、すごく、悔しかった。
、とにかくすぐに逃げろ、いやもう遅いか……俺たちはちょっとやることがある。少しの間、待っててくれ」 僕はフリックさんの言葉に、うんと頷いた。声を出すことが怖かった。

フリックさんとビクトールさんは、部屋の端にあるボイラーを暫くいじった後、抱えていた槍を、勢い良く踊るボイラーの炎の中に放り込んだ。そして僕の近くにいたビクトールさんが、ひょいと僕を抱えて、「逃げるぞ!!」「えっ!!?」

パッと彼らは階段を駆け上がる。それと同時に、みるみるうちに砦は炎に飲み込まれていく。「とりあえず確認だ。自爆に仲間を巻き込んじゃ、目覚めが悪いからな!」 じばく。僕はビクトールさんに抱きかかえられながら、ぎょっとした。彼らは一体何をしたんだろう。

二階で何かがぶつかり合う音がする。すでにしんとした砦の中で、その音はひどく目立った。ビクトールさんとフリックさんは目を合わせ、また階段を駆け上がり、勢い良く扉を開けた。すぐさまその中にフリックさんは滑り込み、ビクトールさんが叫ぶ。「こっちだ!!! はやくこい!」

ピリカちゃんを抱えたフリックさんの向こうから、さんとジョウイさんが素早く逃げる。「貴様らァ……!」 喉の奥から声を震わせる男性を、僕は知っている。(ルカ……!) わるいひと。わるいひとだ。

ピリカちゃんを見て、ほっとした後、僕はそのわるい人のそばで、ポールくんが寝っ転がっていることに気づいた。けれども、彼は寝ている訳じゃなかった。炎にあぶられて、それでもピクリとも彼は動かなかった。(あ) うそだ。
うそだ。

うそだ。僕らは逃げた。フリックさんと、ビクトールさんと、僕ら6人は炎の中から逃げ出した。「ミューズで落ち合うぞ! 死ぬな!」 ビクトールさんの声を聞いて、ジョウイさん達はピリカちゃんを連れて森の中に消えていく。僕はビクトールさんに抱きかかえられたまま、フリックさんと森の中を抜けた。そのとき、ふと片腕が軽いことに気づいた。「あ」 右の手袋がない。

大人用で、サイズが大きかったから、どこかにすっぽぬけてしまったんだ。「あ……」 どうしよう。なくしてしまった。「て、手袋が……!」「はあ? 何言ってんだ」「ビクトールさん、手袋を、忘れちゃった……!」

戻らないと、と叫んだとき、「馬鹿か!」とひそめられた声で怒鳴られた。「てめぇの命とどっちが重いか考えろ! おっことしたのがそれでよかっただろうが!」

僕はぎゅっと、何も無い右手を握った。
     よくばるんじゃないよ、とバーバラさんが言っていた。
必要最低限のものだけ、持っていくんだ。

僕は確かに、一番大切なものを落とすことはなかった。
けれども、他人の、一番大切なものを、ぼくは


僕はビクトールさんに抱えられたまま、砦を振り返った。遠く、あかあかとした炎が燃えている。暗い闇の中で、燃えている。
(この力は、きみを不幸にするだろう。力を得ると同時に、こぼれ落ちるものがある)


砦が消えて行く。
僕が、一番最初になくしたものは、手袋だった。
けれども他にも、色んなものをなくした。


たくさんのものが、消えた



  

2011/11/14

書いてて何かを思い出すなと思ったんですが、ブリーチの織姫とは関係ないです >拒絶する
第二章終了

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