人殺しのぼく


お母さん。僕は、人を殺しました。
人を殺してしまいました。
僕は、犯罪者になりました。




「…………?」
フリックさんの声が聞こえた。僕はぴくりと体を震わせ、必死に瞼を閉じた。耳元で、ぱちぱちと炎が弾ける音がする。焚き火をしていた。ほっぺたに土がついてごわごわする。僕はフリックさんのマントにくるまって、必死で眠っているふいをした。「フリック、どうした」「いや、が、起きている気がしてな」 んん? とビクトールさんが訝しむような声を出した。それから暫くして、「気のせいだろ。今日は……まあ、色々あったからな」

いろいろ。
ハイランドの軍がやってきて、僕達は、彼らにやられてしまって、フリックさんたちも負けてしまって、砦を逃げ出して。(…………逃げ出して) その前に、色んなことがあったはずだ。ルカと言う名の狂皇子が、ぬらぬらと剣を赤い血で濡らしながら、こっちを見つめていた。怒り狂った瞳で、僕達を見ていた。そしてその足元には、見慣れた少年が転がっていた。(ポールくんは)
炎に巻かれてゆく彼を、僕は最後まで見ることができなかった。もしかしたら、と考えることなんて出来なかった。彼は死んでしまったのだ。いなくなってしまった。(ぼくが、ピリカちゃんを頼んだから)

それだけで、胸が苦しくて、潰されてしまいそうで、何もできなくなった。でも、それだけじゃなかった。僕は思い出さないようにしている。わざと忘れているのだ。忘れられる訳がない。今もあれは、僕の頭の中にはっきりと残っている。片方だけ残った手袋を抱きしめた。左手に意識を向ければ、何か世界が変わってしまったことに気づいた。

     フリックさんの右手に、轟く雷鳴が見える。

雷だ。
僕はこっちの世界にやってきてからつけた知識を、ぐるりと回転させた。これは、フリックさんの右手に、雷の紋章がくっついているということなのだ。ビクトールさんには何もない。僕が気づく範囲では、この近くで紋章を持っている人は、フリックさん以外にはいなかった。
僕は奥歯を噛み締めた。
(あの人の右手には、水の紋章があった)
そして、額には火があった。

あれは、僕がした。僕がしてしまったのだ。理屈ではっきりと説明することはできない。でも、なんとなくなら分かる。僕が世界を拒絶して、姿を消してしまうように、あのとき僕は、あの幽霊のお兄さんが言うように、紋章をいましめた。けれども、ただ静かにしなさいと命令した訳じゃない。力の限り、暴力で黙らせた。雑巾を絞るみたいに、ぎゅうっとねじり切った。そして、彼の体ごと、空間の向こう側へと粉々にちぎれて、消えてしまった。

たぶん、僕はいますぐにでもフリックさんの右手を消すことができる。
そんなこと、する訳ない。でも、それができる自分が怖かった。僕はフリックさんの側にいちゃ駄目だ。そう思う。僕は、いつかあの人みたいにフリックさんを殺してしまう。そんなことになったら、ぼくは(そうだ) 僕は、殺したのだ。あの人間を殺した。死なせてしまった。(サツジンハンだ)

彼はぎゅるりと顔と頭と腕を潰して死んだ。僕を殺そうとしていたハイランド兵は、反対に僕に殺されてしまった。(ぼくは、どうしたら) いいんだろう。
ガチガチと震えそうになる両手を、体の下にひいた。奥歯を必死でかみしめて、息を止めた。(僕は、死体をかくした) フリックさん達から見えないようにと自分の体を動かした。
     バレてないだろうか

僕が人を殺したと、フリックさん達に、バレてしまっていないだろうか。
もし、フリックさん達は知っていて、知らないふりをしていたら。そっと彼らの会話に耳をすませた。でも、そんな話はしていない。大丈夫、きっとだいじょうぶ。知らないはずだ。

そこまで考えて、僕は唐突にハッとした。
僕は何気なく、あのことを     僕の人殺しを     隠してしまおうと考えていたのだ。バレないようにとは、つまりそういうことだ。
でも、それって、いいのだろうか。学校のガラスが割れました。犯人は誰ですか。怒らないから出てきなさい。そう先生に言われて、目を瞑って机に震えていることとは、レベルが違うのだ。悪いことをしたら、ごめんなさいと言わなければならない。でも、この場合も、そうなんだろうか。僕は言いたくない。絶対に言いたくない。ザイアクカンに震えている。そうだ、今、僕の心の中の、半分くらいはそうだ。でももう半分は、フリックさんに嫌われてしまったらどうしようと考えている。

まさか、お前がそんな最低なことをするとは思わなかったよ、と呆れて、嫌われて、どこかへ置き去りにされることが怖くて怖くて仕方がない。(人を殺したら、こうしましょうなんて、誰も教えてくれなかった) 人を殺してはいけませんなんて、言われたこともなかった。だって、そんなの当たり前なことだからだ。それがいけないことであることくらい、みんな生まれてきて、義務みたいに知っていることだ。
それを、僕は何の気なしに破ってしまった。

なんで時間は戻ってくれないんだろう。
二日でも、一日でもいい。それができないなら、数時間でもいいから。
そんな、ほんのちょっとの時間が経ってしまっただけなのに、僕は何か崖下から空を眺めているような気分だった。小さな選択のはずだった。あのとき、僕が砦に戻らなければ、きっとポールくんは死ななかったし、僕が殺した男の人も、死ななかったはずだ。
フリックさんが、ハイランドの軍に負けてしまったときでさえ、少しの時間で人生は変わるのだと思った。でも、今はそれ以上だ。あのときの僕に言ってやりたい。お前はまだ幸せになれるよって。

     この力は、きみを不幸にするだろう。

本当に、そうだった。
力を得ると同時に、こぼれ落ちるものがある。お兄さんは、覇王の紋章さんを抱きしめながら、そう言った。僕は寝そべりながら、土の味を噛み締めた。(もう、十分無くしちゃったよ) これ以上、どうなれって言うんだ。「」と一瞬聞こえた単語に、僕はぴくりと耳を向けた。けれども、僕が怖がっていることじゃないみたいだった。これからどうするのか、そのことをビクトールさんたちは話しあっている。
寝なきゃいけない。
早く寝ないと。どうしたんだろう、とフリックさん達に勘付かれるかもしれない。
でも、眠れそうになかった。



とても浅い眠りだった。
男の人が目の前に立っていた。またこの夢だ。バルバロッサ様? それともルカ?
どっちでもいいから、早く終わってくれないかな、と僕は体育座りをして、目の前の、真っ赤な血で汚れている男の人を見上げた。顔は見ることができない。違う。だらだらと額の髪の生え際辺りから、彼はぬめぬめとした血を流していた。眉をつたって、眉をつたって、頬をうたって、唇をつたって。
彼の顔はまっかっかで、表情なんてわからない。知り合いかどうかさえも分からなかったけれど、ぼんやりと立っていた彼が、ぱくぱくとひどく億劫に唇を動かし始めたとき、僕は気づいた。心臓が大きく唸った。

彼は右腕がなかった。ぱくぱくと口元を動かしながら、じいっと僕を見下ろしていた。僕は視線をそらすことができないで、彼を見つめた。ぽとぽとと、彼の赤い血が僕にふりかかる。ぽつりと、まるで涙みたいに、僕の頬に落っこちた。鉄臭い匂いが口いっぱいに広がる。僕はあらん限りに瞳を開けて、彼と見つめ合った。けれども彼には目がなかった。鼻もなくて、口もなくなっていた。

でも、何か言っている。口がないのに、何かを話している。わからなかった。
奇妙な呼吸音が聞こえる。この声はなんだろうと思った。暫く考えて、この声は、僕の声だと気づいた。ぼたぼたと落ちてくる血の雫を、僕は拭うことすらできないで、彼を見上げた。彼はずぶずぶに崩れ落ちた。僕の足元に、崩れたトマトみたいな肉塊が転がってる。その腐った肉を見て、両手で顔を覆った。悲鳴は上がらなかった。顔を上に向けたまま、声を出す訳でもないのにぽっかりと口を開けた。指と先が痛くなるくらいに、僕は自分の顔を掴んだ。




     目を覚ますと、ひどい気分だった
頭がガンガンする。
寝足りなかったのかもしれない。
僕よりも遅くに寝たはずのフリックさんとビクトールさんは、「おう、おはよう」と僕を見て挨拶をする。そして「ひっでぇ顔だな」とビクトールさんは口の端を上げた。「近くに川がある。顔ぐらい洗ってきな。近くにハイランドのやつらはいねーみたいだけどよ、ちゃっちゃとな」

僕はゆるゆると頷いて、体をふらふらさせながら、朝の冷たい水で顔を洗った。ちょっとずつ目が冴えてくる。あれはただの夢で、多分、僕の良心のカシャクって奴なんだと思う。謝ればよかった。夢の中だって、僕は一生懸命謝ればよかったんだ。ごめんなさい、ごめんなさい、許してください。どうしようもなかったんです、ああするしかなかったんです。
そう言って、必死で謝って、自分の夢の中でだって許しを貰うことができれば、僕の心の中はとてもとても軽くなったと思う。勝手に、気分が明るくなったと思う。
でもできない。
そうだ、謝って許されることじゃないって、僕は知ってるんだ。だから夢の中でさえも、謝ることができなかった。

(なにが、ルカは、わるいひとだ)

ハイランドは、悪い人たちでいっぱいだ。
僕はそう思っていた。だって、ルカはリューベの村の人たちを殺した。一人残らず、ザンギャクな方法で殺した。あんなの、人間ができることとは思わなかった。だからもう、あの人達は人間じゃなくって、何か別の生き物で、さんたちは、きっとちょっとした例外で、それ以外の人たちは、みんな悪い人だからフリックさん達は戦っていてた。
だから僕はそれを応援してて、頑張ってね、頑張ってね、と訳も分からず叫んでたんだ。

でも結局、僕も悪い人だった。
悪い人と僕は同じだった。僕は多分、かっこつけていた。バルバロッサ様に憧れて、それじゃあ僕も、と馬鹿みたいに軽々しい気持ちだったんだ。
気を抜くと、涙が出てしまいそうだった。でも、こんなところで泣いたら、フリックさん達に、何があったかと訊かれるに決まってる。そんなのは嫌だし、困る。僕はこの頃、どうすれば涙が出ないか、我慢をすることができるか、コツを掴んできたのかもしれない。自分の中の胸を意識して、それを無理やりに抑えこんで、水で濡れた手のひらから、ポトポト雫をこぼしながら僕はフリックさん達の元へ戻った。左手には、相変わらず覇王の紋章さんがくっついていた。


「…………、何かあったか?」

戻ると、懐から携帯食を出したフリックさんが、僕の顔を覗きこんだ。「……なにが? なんにもないよ」 心底ギクリとしたのだけれど、フリックさんは「そうか」と頷いた。でもなんだか、まだおかしな、と思っている顔だった。僕は顔を逸した。そんなわけないのに、僕が考えていることを全部が筒抜けになってしまいそうで、怖かった。「ほら、。お前も食べるんだ。ビクトールは、もう一度外の様子を見てきている」

出された干し肉を、僕は受け取った。カチカチしている。学校の給食で何度か出たカンパンなんてめじゃないくらい硬い。でもこっちの世界に来て、何度も食べたものだから、食べ方はわかっている。僕は昨日の焚き火の燃え後を見つめながら、地面にお尻を乗っけた。ひんやりとしている。口の中に唾を溢れさせて、かじりついた。おいしくない、と思う。でも、贅沢は言ってられない。
ふと、これが死体であることに気づいた。
自分の口に入れているものが、元は動物で、これはただの死骸で、昨日、砦に山のように倒れていた彼らと同じだと、気づいてしまった。げえ、と思わず吐き出しそうになって、目の前に生理的な涙が溢れる。フリックさんがぎょっとしてこっちを見た。そして慌てて僕の背中に手を伸ばして、何度も撫でた。

僕は喉から出てくる液体を、必死で止めようとした。大して胃の中に何が入っていた訳じゃない。結局、出してしまった方が楽なんだと気づいた。ぽたぽたと溢れる黄色い液体も出し尽くしたけれど、僕はそれでもまだ苦しいふりをした。フリックさんが、何にも言わずに背中を撫でてくれている。僕は泣いた。吐き出すように泣いた。僕は苦しいから泣いてるんだ。フリックさんに、そう思ってもらうために、気持ち悪いふりをし続けた。


***

大丈夫か、とフリックさんに訊かれた。僕は頷いて、戻ってきたビクトールさんと一緒に、歩き通した。多分フリックさんは、僕が昨日の出来事にショックを受けているだけだと思っている。そうに違いないけど、そうじゃないのだ。決して言えない秘密が、胸の中で重くて重くてたまらなかった。でもこれ以上、足手まといになる訳にはいかなかった。役立たずだと思われることが怖かった。目指しているのはミューズ。大きな街だと言うことは知っているけど、それ以上は知らない。さんとも、そこで落ち合う約束をしている。運良く、ハイランド軍には出会わなかった。

僕らはわざと森に沿うようにして街を目指した。木々は高く生い茂り、足元はじめじめしていて、短い草が生えている。ビクトールさんとフリックさんには頭の中にコンパスがしっかりと入っているみたいで、僕はその後ろを必死で歩いた。きっと僕一人なら、すぐにここがどこか分からなくなって迷ってしまって、大変なことになっていたと思う。

一日歩くと、また焚き火をたいて、ビクトールさんとフリックさんが夜の番をする。僕が眠った(ふりをした)後に、暫く二人でお話しして、交代して見張ってるみたいだった。フリックさんが、こっそりと僕を窺っている気配を感じる。うそ臭い寝息をたてると、彼はほっとしたように息をついた。「これから、どうする?」 フリックさんがビクトールさんに声をかけた。

「リーダーと副リーダーが一番の遅参なんて、お笑い種だ。つっきるっきゃないだろうよ」
を連れてか?」
「そうなるな。手元にいたもんだから、思わずかっさらっちまった責任はとらなきゃなるめぇ」

カラカラとビクトールさんが笑う。「に任せるべきだったな」 フリックさんが、後悔したようにため息をついた。
こそこそとしたお話を聞いていると、何で彼らが、僕が眠った後にお話をし始めたのか、僕は今更ながらに、気づいた。つまりこれは、僕にきかせるとまずい話なのだ。僕がいなかったら、彼ら二人は、もっと早く、素早く動くことができるだろうし、危険な道だって通ることができる。

「……ルカは、疲弊した兵をいたわるなんて発想がないらしいからな。この先楽観はしない方がいいか」「だろーな。ありゃあ痛い目を見たぜ」 ぴゅう、と軽くビクトールさんが口笛を吹いた。「燕北の峠の警備の連中に、預けるって手もある」 何を、なんて、言わなくたっても分かる。

フリックさんは、ビクトールさんの言葉に暫く考えこむように唸った。「ま、どっちにしろ数日は暗い森の中だ。モンスターと戯れながら考えようや」 僕は眠った。眠ったふりを続けることは、体中がくたくたで辛かった。でも眠りたくなかった。夜眠ると、右手のない彼がやってくると思ったからだ。もしくは、ルカが笑っている。そしてバルバロッサ様が雄々しく剣を振り回している。そのどれか。

僕の予想は当たった。それも最悪な形だった。彼と、ルカと、バルバロッサ様がぐちゃぐちゃに混じり合った夢で、僕はその真ん中で膝の間に顔を埋めて、体を小さくさせた。僕は嵐が過ぎ去るのを待った。耳を塞いだ。
(絶対、フリックさんから、離れない)
離れたくない

僕は、ちょっと前までそう思っていた。でも、今は違った。逃げ出したい。この場所から逃げ出したくてたまらない。許して欲しいと思う。全部ほっぽり出して、知らないふりして、ここから消えてしまいたかった。フリックさんが、その燕北の峠に行けって言うんなら、きっと僕は喜んで行くと思う。
フリックさんに言われたからしょうがないんだよ。と自分自身に言い訳ができるからだ。できることなら、無理やりそこに連れて言って欲しい。そしたら、無理やりだったんだから、しょうがないよね。と僕の中の言い訳は、より上手なものになる。僕はとても楽になると思う。

そう考える裏側では、「それ、ほんとにいいの」と問いかける自分がいた。
いいじゃん、僕、もう辛いんだ。小学生なんだよ。あとはもう、大人に任せたっていいと思う。と心のどこかが本音で叫んでる。けれども、僕の中の良心というか、それっぽいものが、「逃げて、押し付けて、お前ってやつは自分の言葉に責任も持てないやつなんだね」 と言った。でももう、心の中の8割ぐらいが、逃げたいって叫んでた。残りの2割は言い訳部分だ。こういやって僕は悩んでいるふりをして、実はもうしっかりと決めている。これだけ悩んだから、しょうがないよね、と後々気持ちが楽になるような作業に入ってる。

フリックさんが、つん、と僕の背中を指先で押すだけで、僕はもう逃げる準備は万端だった。あと一歩だった。僕はざくざくと森の中を進んだ。今だろうか、そろそろだろうか、とフリックさんが命令してくれるのを、僕は待った。けれどもそんなことはなくって、僕とフリックさんと、ビクトールさんは焚き火をつけて、いつも同じように眠った。けれども今日は違った。

、こっちにおいで」

フリックさんが、手のひらをぱたぱたさせた。僕は、きた! と思った。やっとだった。僕はがくがくと首を頷かせた。ゆらゆら揺れる炎に照らされるフリックさんの顔を見つめた。優しい顔をしてた。ビクトールさんが、ぐごーっと熊みたいな寝息をかいている。僕より先に寝るなんて珍しい。疲れてるのかもしれない。

「もっとこっちだ」 と言って、フリックさんは膝の上をぽんぽんと叩いた。僕はおずおず、フリックさんのお膝の中に座り込んだ。フリックさんは、僕のお腹の前に大きな手を合わせる。それから特に会話はなかった。僕は緊張して、足を伸ばして、ばたばたさせた。「、なにか、悩んでるのか?」「えっ」

いきなりだった。
僕が予想していた内容と、全然違った。僕は多分そのとき、ものすごく顔を歪めたのだと思う。フリックさんはきゅっ、と眉間に皺をつくって、「やっぱりそうか」と呟いた。僕は唇を噛んでうつむいた。フリックさんの手のひらが見える。今は手袋は取っているから、丸い爪の形が見える。それに比べて、僕の手のひらは情けないくらいに小さかった。

「なんかあったんなら、言ってみな」と、言いながら、フリックさんはとんとん、と親指同士を叩いた。僕は何も言わなかった。一番卑怯で、子どもっぽい逃げ方をした。だからフリックさんは困って、「じゃあ、俺から訊こうか」と言った。僕は怒られると思った。ぞぞっとして、僕が何をしてしまったか、フリックさんに全部バレてしまったんだと思った。体中がカチンコチンに固まって、血の気がひく、というのは、こういうことなんだろうな、と初めて知った。目の前が何にも見えない。僕はぎしぎしと首を振った。「ち、ちがう」「何がだ?」 フリックさんは心底不思議そうな声を出した。

「フリックさん、ぼく、ちがう」

「ちがうよ、ちがうんだよ」

ぼくじゃないんだ。
ウソっぽい台詞を心の中で繰り返すと、本当に僕は何もしていないような気になってきた。僕は悪くないんだ。そんな風にも思えてきた。フリックさんは、後ろから、ぎゅっと抱きしめた。「ポールか?」 一体何を言われてるか、わからなかった。「ポールのことか」

もう一回言われて、フリックさんは、ポールくんが死んでしまったことで、僕が怖がって、ショックを受けている、と思ってるんだと気づいた。ちがう、と僕は首を振った。ポールくんは確かにいなくなってしまった。あの丸っこくて、ちょっとだけ人懐っこい笑顔が見れなくなってしまったことは、すごく悲しかった。でも違うんだ。今一番怖いと思っていることは、それとはまた別の場所に合って、それを必死に隠そうとしてる僕が、嫌で、怖くて、でも何も言うことができないんだ。

「なら、ルカか」 フリックさんは訊いた。僕はまた首を振った。首を縦に振ればよかった。そう気づいたのは、もうちょっと経ってからだ。「じゃあ、なんでそんな顔してるんだ」 フリックさんはちょっとだけ声を低くさせた。そのときの僕は、まるで責められているように感じた。僕は途端にぼろぼろ涙が出てきた。

悲しくってじゃない。怖くて涙が出た。こうやって泣いてしまうことで、また僕はフリックさんの足手まといになって、邪魔になるんだとわかってるのに、止まらなかった。口元を押さえて、泣き声を必死に我慢させて、フリックさんの膝の上で、小さくなった。でも、ごまかすことなんで出来る訳がなかった。フリックさんは、多分唖然として僕を見ていたのだと思う。
フリックさんは何も知らないんだ。分かる訳ないんだ。僕が勝手に怖がって、不安に思って、こんな風になってしまっているだけなんだ。

フリックさんは息を吐き出した。そして僕の膝の下をつかんで、ぐるんと反転させた。僕は抵抗した。でも駄目だった。フリックさんの正面に座って、鼻水をずるずるいわせて、ぐいぐいと彼の手から逃げようとした。フリックさんは、僕の背中を何度か叩いて、今度は涙と鼻水でずるずるしている僕の顔を、フリックさんの肩につけた。前にもこんなことがあったな、と思ったら、少しだけ楽になった。けれども楽になる自分が許せなかった。

「ほら、。何があったんだ? 言ってくれなきゃわからないだろう。お前、知らないだろ。寝ながらずっと泣いてるんだ。助けてって叫んでる。砦のことが、辛かったんじゃないのか。そうじゃないなら、どうしたんだ。言ってくれ。辛いことがあるんなら、俺も一緒に考えるよ」

ぎくりとした。
僕は、何かを言ってしまっていないだろうか。勢い良く顔を上げて、フリックさんの顔を見つめた。けれどもフリックさんは眉毛をハの字にするばかりで、今度は僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「ん?」 どうした、と言う風に、フリックさんは首を傾げた。

     僕が、何をしてしまったか
言える訳ない。そんな簡単に言えることなら、初めから言っていた。けれども僕は、何かを言わなきゃならない。なんでだという理由を説明しなきゃならない。
ふと、僕は自分の右の手を見た。「なくしちゃった」 僕の声は、震えてた。「え?」とフリックさんがききかえした。僕はさっきよりもはっきりと言った。「手袋、なくしちゃった」

「フリックさんからもらったのに、半分、手袋なくしちゃったぁ」

僕はぼたぼたぼたっと涙をこぼした。声に出したら、どんどん悲しくなって、うわあ、とまた大声で泣いた。けれどもすぐに息を飲み込んだ。僕らは逃げているのに、こんな大声で騒いじゃいけないと思ったのだ。フリックさんは、あっけにとられた顔をしていた。「そ、そんなことなのか?」 そんなわけない。でも、僕の悲しがりようが、すごくリアルだったから、フリックさんも信じてしまいそうになったのかもしれない。

「そんなことじゃないよ!」 僕は静かに叫んで、残った左手の手袋をフリックさんに突きつけた。片方だけになっちゃった。
僕は、本当に悲しかったのだ。もちろん、フリックさんがくれたものを、無くしてしまったということが、すごく悲しかった。でもそれ以上に、幽霊のお兄さんが言ったとおりに、僕は無くしてしまった。またどんどん無くしてしまう。そんな風にヨゲンされてるみたいで、すごくすごく怖かった。

フリックさんはため息をついた。ほんの僅かに口元を上げながら、僕の額をごしごしと親指でなでて、前髪をぐしゃぐしゃにした。「そんなことだよ」 フリックさんは安心したような顔をしてた。

「俺が怒るとでも思ったのか? そんな訳ないだろ。大切にしてくれたんなら嬉しいが、そんなことで気に病まれるんじゃ俺が困るな。だいたい、始めっからにはサイズが合わなかったんだ。ちゃんとしたものを買ってやってなかった俺が悪い」

だから気にするな。とフリックさんはニッと笑った。けれども僕はフリックさんを見つめて、唇を噛んだままだった。「まだあるのか」 フリックさんは優しげな声を出した。僕は頷いた。「よし、言ってみろ」 僕はじっとフリックさんの胸辺りを見つめて、呟いた。ぐるぐるしていた気持ちを吐き出した。

「こわい」

色んなことが怖い。
嫌われることが怖い。
呆れられることが怖い。
死ぬことが怖い。
殺す人が怖い。
殺した自分も怖い。
逃げようとする自分も怖い。「ぜんぶ、怖い」

フリックさんは、じいっと僕を見ていた。そして、ちょっとだけ瞳を伏せた。もう一回、僕の脇の下に手を伸ばしてぐるんと僕の体の方向を変える。僕の背中はフリックさんの胸にくっついて、肩あたりにフリックさんのあごが覗いた。「よし、。いいことを教えてやろう」

そういって、フリックさんは残った左手の手袋をとった。僕はぎくりと体を震わせた。左の手が暴走して、フリックさんを殺してしまわないかと思った。けれども大丈夫だった。相変わらず奇妙な模様がある僕の手の甲を、フリックさんはくるりと回転させた。「小さい手だな」と、フリックさんは、まるで幽霊のお兄さんみたいに笑って呟いた。

両手の手のひらを出して、フリックさんは、一番最初に僕の親指を曲げた。「いち」 次に、人差し指。「に」 中指 「さん」 よん、ごう、左の親指も曲げて、ろく。どんどん数を数えていく。一番最後に、「じゅう」とフリックさんが言うとき、両手をぐーの形にしていた。「俺は、生きてる」 ぽつりとフリックさんが呟いた。

何を言うんだろう、と彼を見上げると、フリックさんはちょっとだけ怒った顔をした。「ほら、も。言うんだよ、俺は?」「い、生きてる」「そうだ」 なんなんだろう。「じゃあもう一回、やってみな」

僕は恐る恐る、今度はぐーを、ぱーに変えていった。最初は左手の親指から。フリックさんがやったものと反対だ。「いち、にい、さん」 どんどん手のひらを数えていく。パーになった両手を見て、僕は呟いた。「おれは、生きてる」「そうだ」 フリックさんは言った。そして暫くした後、「の場合、僕は生きてる、かな」と照れたように言った。

僕は困ってしまって、フリックさんをもう一回見上げた。彼は照れたような顔なままで、「ちょっとした呪文だよ。怖くなったらこれを数えるんだ。そしたらちょっとだけ落ち着く」 確かに、僕は何だか落ち着いていた。今度は、心の中で一人で数えてみた。(おれは、いきてる) そんなこと、知ってる。

「落ち着くだろ?」 フリックさんが、歯を見せて笑っていた。
僕は少しだけ悔しくなって、じっと指を見つめたまま、まるで怒ったように呟いた。「フリックさんも、怖くなるときがあるの」「はは」 笑った。馬鹿にされたと思った。でも違った。「そりゃああるさ。多分、よりもな」

えっ、と僕は小さな声を出してフリックさんを見た。でもフリックさんは笑うばっかりだった。「何回死にかけたと思ってるんだ。より長く生きてる分、怖いことも多かったよ」 フリックさんは、僕の頭越しにパチパチと燃える焚き火を見つめていた。「とりわけ……」 そこまで言った後、唇を噛んだ。「あんな命知らずな相棒を作っちまったもんで、ひどい稼業をしちまってるしな」 

声の調子が、さっきと違っていた。多分、フリックさんは、何かの言葉を飲み込んだんだろうけど、それが何なのかは分からなかった。「そうだな、俺はあいつほど、ビクトールほど命知らずにはなれない。何かを無くすことが怖い。……まだまだ青いんだろうな。青雷のフリックが青いなんて、丁度いいんじゃないか?」

はは、と冗談を言うみたいにフリックさんは笑ったけど、僕には何が面白いのかわからなくて、きょとんとしていた。フリックさんは、そんな僕を見て、一瞬気まず気な顔をして、「ま、とにかく、そういうことだ」 ぽんっと僕の肩を叩いた。「お前は、ちょっと色々気にしすぎる。ビクトールを見てみろ。あいつを見てたら、大抵の悩みはふっとんでくぞ。俺はときどき、あいつが人間の皮をかぶった熊か何かなんじゃないかと思うときがある。背中にチャックでもついてるんじゃないか?」

今度は、僕は笑った。
そして、自分の手のひらに目をやった。
(僕は、何を考えてたんだろ)

自分の中で秘密にして、フリックさんから逃げようとして、それでどうするんだ。結局、それでも僕がしたことは何一つ変わらなくって、多分きっと、もっと苦しくなっていたはずだ。

     君は、孤独の呪いを背負うことになる

本当だ。お兄さんが言ったとおりだ。僕は自分から一人になろうとした。全部を拒絶して、孤独になろうとした。左手の紋章さんが、ちりちりと痛む(わかってるよ) わかってるんだよ、と心の中へ返事をした。紋章さんの所為なんかじゃない。確かに、力を貸してくれたのは覇王の紋章さんだった。でも、それを使ったのは僕で、その後、どうしようかと考えたのも、僕だ。「フリックさん」 僕は、じいっと紋章さんを見つめながら、心の、どっしりとした重しを投げ捨てようとした。

それは、案外勇気のいることだった。唇が震えた。声を出すことが怖かった。「フリックさん」 もう一回呼んだ。ん? と彼は返事をくれた。
喉がカラカラに乾いてる。「フリックさん、ぼくは」 やめろ、とやっぱり心の何かが叫んでいた。
でも、言わなきゃいけないと思った。


「フリックさん、ぼくは、人を殺しました」




  

2011/12/08

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