人殺しのぼく




腕の中で、子どもが眠っていた。くうくうと静かに寝息を立てている。このところ、しっかりと眠れなかったんだろう。緩みきった顔つきで、ぎゅっと俺の服を握りしめていた。思わず苦笑した。
     フリックさん、ぼくは人を殺しました)

ふと、少年の声が聞こえた気がした。
眉を顰め、言葉の意味を考えようとする。(その前に)

「おい、そこの冬眠中の熊」
「ぐごーぐごー」

わざとらしい寝息を立てやがって、とため息をつくと、熊はもごもごと口を動かしながら、よっこらせと体を起こし、ばりばりと硬い髪の毛をひっかいた。ふりをしているうちに眠くでもなってしまったのか、くあー、と欠伸を一つして目尻の涙を指先でおとす。「おい、うるさくするなよ」「わーってるって」 膝下のを見つめながら、俺はじろりと睨んだ。

「まったく。わざとらしいイビキかきやがって」 今度は聞こえるように嫌味を言った。へへ、とビクトールは口元を笑わせながら、「いや、自分でも名演技だと思ったぜ?」「どうだか。の方がよっぽど上手い」 

お陰で余計なことまで聞かれたと呟くと、ビクトールは僅かに瞳を細めた。そして焚き火の前に両の手のひらを向け、こすり合わせる。「やっぱりお前も気づいてたか」「まあな。正直、数日のうちはまったく気づかなかったが」 
眠っているものだと思っていたのだ。けれども、どうにも違和感があった。眠っているというよりも、死んでいるような。ぞっとして暫く待ってみれば、やっぱり眠っている。瞼を腫らしながら眠そうな顔をしているが、朝にはきちんと起きてくる。「実は俺もだ」「こいつにこんな狸寝入りの才能があるとは思わなかった」

お互い冗談だ。わかっている。
今はは手袋をつけていない。左手の甲にある模様が、うっすらと闇の中に浮かび上がっている。「紋章か」 ビクトールの言葉に頷いた。「ああ、紋章で気配を消していたんだろう。多分、無意識だとは思うが」 

こんなことは初めてだった。との共同生活も、暫くの時間が経っている。意識的に使っていたのであれば、これまでの時で自分が気づかなかった道理がない。「おぼろの紋章……では、ないみたいなんだがな」 自分はさして紋章に明るい訳ではない。少なくとも、ビクトールよりも素養はあるが、それだけだ。あの緑の法衣に身を包んだ少年や、体に百もの紋章を宿していた老人ならば、こちらに満足のいく答えを教えてくれたかもしれないが、所詮こっちは剣を振り回す専門だ。
(いや、魔術師ってのは、偏屈な奴が多いからな。そう素直に教えてくれそうにもないか)

偏屈と言う訳ではないが、こっちの頭の上に、毎回タライを落としてくる恐ろしい少女もいたし、正直過去に知り合った魔術師連中の中でまともに会話を成立させることができたのは、ヘリオンくらいなものだと思っている。それでも、彼女もどこか近寄りがたいものがあった。

「ま、世の中にはモンスターをおびき寄せる紋章もあるんだ。その反対のやつもあるだろうよ」
「俺達がモンスターだって言いたいのか?」
「ちげぇよ。気配を消して、モンスターに気づかれにくくする紋章があってもおかしくないって言いたいだけさ」
「なるほど」

使いこなせるに越したことはないだろうが、大して知識もない自分たちがとやかく言うべきではないだろう。それよりもだ、と俺は膝にある小さな頭をよしよしと撫でた。噂の主は、もごもごと口を動かしている。何かものを食べる夢でも見ているんだろうか。
     人を殺した、か」

一瞬、自分の声が漏れてしまったのかと思った。ビクトールは難しい顔のままを見つめた。まじまじと上から下まで目をおとした後、「勘違いじゃねぇのか」 確かに、信じがたい。いや、倫理や、論理の問題を言っている訳じゃない。どうやって、誰を。は語らなかった。俺も訊こうとは思わなかった。

「勘違いっつーか、自分が殺した訳じゃねーが、自分のせいで死んじまった、とかな」
「さあ、どうだろうな……」

ただ一つ言えることがある。「ビクトール。は、賢い子だ」「数字に強いらしいな、羨ましいこった」「ああ、それもそうだが、それだけじゃないさ」 大して子どもと関わった経験がわる訳ではない。けれども同じ年頃の少年と比べれば、この子は外側と同じように子どもなばかりじゃない。「多分、こいつが言うんなら、そうなんだろう」

少なくとも、本人の中でそう思っているのなら、それは事実だ。ため息を吐いた。やっぱり、自分たちから離すべきだった。言葉を続けた。「そうだったんなら、自分でどうにかするしかないな」

他人が他人の心をどうこうできるものじゃない。もちろん、慮ることはできる。ただそれだけだ。特に人の生き死になど、自分のことでさえもよくわからなくて、矛盾ばかり抱えているものを教えることはできない。自分の中で、彼は決着を付けなければいけない。
珍しく、難しい顔をしているビクトールが顎をひっかいて頷いている。「まあな。ああいうことは、考えたらおしまいだ」

ビクトールの言う通りだった。
“わかる”しかないのだ。言葉ではわからない。気持ちの奥で、何かを掴むしかない。いや、それはただ俺たちのように剣を握るものの考え方であって、矛盾を抱えて、苦しみながら生きていく人間もいる。それもきっと正しい。むしろ、そっちの方が健全だ。マッシュと言う名の軍師の名を思い出した。風の噂で死んだと聞く。彼の刺された傷を見ながら、恐らくそうなるだろうと思った。いや、彼が刺される前から、彼はいつか死ぬだろうとうっすらと考えていた。
     そんな気持ちで表に出れば、人は死ぬしかない

ただそれは、彼自身は、すでに理解していたことだろう。馬鹿のように頭が賢くて、それに苦しんでいる男だった。だからこそ、その道を選んだのだと思う。
けれども俺は彼ほど頭の出来はよくはない。だからこそ、そこまで苦しまずに突っ走ることができる。矛盾に目を瞑ることができる。

「損な性分してるじゃねぇか」

ビクトールは呵々と笑った。お陰で噂の主は、「んむぅ」と身動ぎをする。俺はじろりとビクトールを睨んだ。静かにしろって言ったろうが。
ビクトールは悪い悪い、と片手を振りながら、の顔を覗き込む。「もっと楽に生きりゃいいのに。ガキの頃からこれじゃ、先が思いやられるぜ」「お前と足してニで割ってやりたいよ」「確かにな」「ちょっとは否定しろ」

(潰れなければいい)
心が潰れてしまわなければいい。一番の安全は、自分たちの側から離れることだ。少なくとも、争いの渦中から逃れることはできる。
けれども。「言わねぇのか」

ビクトールの声が面白げに跳ねた。「それとも、無理やり引き離しちまうか?」 俺は苦笑した。「いや」「おんぶに抱っこでやっていくかい」「まさか」

そんなつもりは端からない。ただ約束したのだ。

「俺が、勝手に決めるなって、約束したからな」

泣かれるのは、もう十分だった。



目が覚めたに、俺は訊いた。このまま俺とビクトールはミューズへ向かう。渦中に斬り込む。けれどもお前は来なくていい。燕北の峠の警備の連中に、お前を預けることができる。ちゃんとそこまで送ってやるから、お前は心配しなくてもいい。さて、どうする。

は拳を握って下を向いていた。けれども暫くしてから、「フリックさんたちは、燕北の峠を通るの」と訊いた。いいや、と俺は首を振った。全部を正直に答えることにした。遠回りすることになるから、その分、時間を食うだろうな。
「だったら」とは唇を噛んで、相変わらず腫れた瞼のまま、こっちを見上げた。「一緒に行く。僕は、フリックさん達と一緒に行く」



***


     人を殺した。僕はフリックさんにそう告げた。そういうと、フリックさんは、「そうか」と頷いた。それだけだった。僕の背中をぽんぽんと撫でた。何にも変わらなかった。あれ、と僕は思って、そのまま眠り込んでしまった。

安心した訳じゃない。違う。決して違う。僕が誰かを殺してしまったという事実は、一生変わる訳がない。言葉に出したって、何にも変わることをないことを知ったんだ。
けれども楽にはなった。口にして、初めて認めた。何かがわかった気がした。それが何かは分からなかった。

この世界は、僕の世界と決まりが違う。
そんなことは知っていた。僕の生きていた街だったら、きっと僕はケーサツに捕まらなければならなかっただろう。でもここでは違う。いや、セイエトウボウエイで、元々捕まらなかったかも、と思ったけれど、そこら辺はややこしくなるから無視をした。

きっとフリックさんも、ビクトールさんも、たくさんの人を殺している。彼らの服に、べったりとついていた血がそれを教えてくれている。
そういう世界なんだ。でも、だからって僕が許される訳じゃない。僕は知ってる。こういうの、ムジュンって言うんだ。矛と盾が争って、どっちも俺の方が強いって主張した昔話だ。そういえば、前にフリックさんから聞いたこの世界のお話も、一番最初に剣と盾が争った。それから世界が出来上がった。
     そっか

始めっからこの世界は、ムジュンでできた世界だったんだ。




あれだけ望んでいたことを、僕はフリックさんから聞いた。僕は、聞いた。僕を燕北の砦に連れて行くことで、もっと時間がかかって、フリックさん達の迷惑になってしまう。僕がいても、いなくても、迷惑だった。
フリックさんのことを考えた訳じゃない。僕はきっかけが欲しかった。決断をする、きっかけが欲しかった。
     僕は、呪いと戦う

この覇王の紋章さんは呪いを持っているらしい。他人を拒絶して、孤独になってしまう呪いだ。僕はそれと戦うんだ。「よしっ、そうと決まりゃあ正面突破だ!」 パチンっ、とビクトールさんが両手を叩いた。心持ち嬉しそうな顔をしたまま、「、お前の仕事は俺の背中を突っ走ることだ。お前の後ろにはフリックがいる。いいか、後ろは気にするな。俺の背中だけ目指すんだ。わかったな?」

僕はうんうんと必死で頷いた。これでも毎日リューベの村を往復して体力もついたし、運動だって得意だ。大丈夫だと思って、大丈夫になったことはなかった。だから、僕が大丈夫にするのだ。
ごくっと唾を飲んで、フリックさんを見上げた。フリックさんは頷いて僕の背中を叩いた。ぱっと体が暖かくなった


手袋をつけた左手の下で、紋章さんが笑っている。やれるもんならやってみろ。多分そう言ってる。
チリリ、といつもの電撃よりも、もっと優しい、爪楊枝でひっつくくらいの痛みが指先にやってきた。笑ってるのだ。ハハハ、と紋章さんは笑いをこらえきれずに、僕に対して笑っている。やってみろ、このこわっぱが。

こわっぱと言う意味はよく分からなかったけれど、僕は途端にムカッとして、左手を自分の右手で叩いた。そしたら、何をすると言うように、ビリリと電撃がやってきた。僕は歯を食いしばって耐えた。負けるもんかと思ったのだ。

涙目になりながら自分の左手を見つめる僕を、フリックさんとビクトールさんが不思議気な顔で見ていたけど、気にしない。
     ぜったい、負けるもんか

君なんかに負けるもんか。



  

2011/12/10

Material by Helium : design by I/O :: Back to top ▲