人殺しのぼく




風が通り過ぎた
僕すぐ横を、弓矢が通り抜ける。ひゅんっと耳の横で聞こえた声に、僕は体の底を震わせた。けれども僕は、まっすぐに走った。ビクトールさんと約束したように、彼の背中だけを目指して、まっすぐにまっすぐに走り抜けた。
怖くなんかない。怖くなんてないんだ。そう思えば、本当に怖くなくなる気がした。嘘だ。怖い。僕は口の端から息を吐き出した。転がる指を踏みにじって、僕は進んだ。まっすぐに進んだ。後ろにはフリックさんがいる。怖くない。怖くない。
胸の中の心臓の音を、僕はすぐ側で聞いた。わー! と叫んだ。力の限り叫びながら、僕と、ビクトールさんと、フリックさんは街路を転がるように駆け抜け、どっぷりと暮れた夜、ミューズにたどり着いた。






よくもまあ、生きていたものだと思う。
正直、僕はそう思った。体中は血と汗でべとべとだったし、お腹も減っていたし、辺りも真っ暗で何も見えない。そうだ、これが当たり前なんだ。僕の世界がたくさんの明かりに包まれていて、当たり前みたいに夜でも、ものを見ることができたけれど、本当はこれが可笑しいんだ。
フリックさんたちは城門を叩き、警備の兵たちが、ぎょっとしたように彼らを見た。僕は正直、限界だった。警備の人たちが、慌てて門を開けようとしたときには、足元をふらふらさせて、フリックさんにもたれかかった。フリックさんも、特に何を言う訳でなく、僕を抱え上げた。僕はフリックさんの首にコアラみたいにひっかかって、そのまま眠った。一度、ベッドの上で起こされたような気がしたのだけれど、「しょうがないな」と誰かが喋った。僕はそのまま眠って、目を覚ますと、覚えのない服を着ていた。知らないベッドの上で、暫く固まった。そうした後に、「ふ、ふ、ふ、ふりっくさーん!」

僕は部屋から飛び出て、ころころと階段を転がり落ちた。どどん、どどごん、どどん、と盛大に音を響かせて、床に寝そべりながら目の前を観察する。
知らない人ばっかりだ。
けれどもその中に、フリックさんとビクトールさんが、テーブルにくっついていた。「おう、起きたか」 機嫌のいい顔をしたビクトールさんが、朝っぱらからビールを片手にして、がはは、と笑った。

僕は途端に恥ずかしくなって、顔を真っ赤にしながらフリックさんたちのテーブルへと向かった。席はないみたいだ。僕が視線をきょろきょろしていると、フリックさんがお膝の上をぽんぽん、と叩いた。僕はよいしょ、とフリックさんの膝の間に座って、足をバタバタさせる。ビクトールさんがなんだか締まらない顔をしながら、口元に泡をつけて、「そのカンガルーも、見慣れてきたもんだなぁ……」と呆れたような声を出した。

ビクトールさんが言っている意味はなんとなく分かった。だからさすがに、ほんのちょっとだけ恥ずかしくなって、椅子がないんだから、しょうがないよ、とごまかすように自分に言い聞かせた後、「ビクトールさん、朝からお酒はよくないんだよ」と話を逸らそうと、バタバタとテーブルを片手で叩いた。
すると僕の台詞を聞いたビクトールさんは、ブバッとビールを吹き出して、ガハハ、と大声で笑った。何故かフリックさんも小刻みに震えている。なんでだろう。不思議に思ってフリックさんを見上げると、「、今はもう夕方だ」「……え?」

え? え? えええ?
窓がないものだから、そんなの分からない。「だって、ぼく、寝たのは夜になってからで」「ああ」 そうだ、とフリックさんは頷く。「それだけ長い間、寝てたってことさ」
俺たちは、ちょいと市庁舎の方に行ってきて、やっと一服してるところだよ。ゴクゴクとビールを飲むビクトールさんの声を聞いて、僕は真っ青になった。つまり、僕は、(ビクトールさんと、フリックさんがお仕事をしてるとき) 一人でぐーすか、ベッドの上でおねんねしてたという訳だ。

わあああ、と頭を抱えようとしたとき、ぐー、と僕のお腹が叫んだ。フリックさんはくすくすと笑って片手を上げる。「すみません、ちょっと」 お姉さんを呼んだ後、僕に向かって、「、何が食べたい?」
いらない、と拗ねてつぶやきそうになった。でもそういう訳にはいかない。「スパゲッティー」「はいはい」
ま、お前はまだ小さいんだから、しょうがないさ、というフリックさんの慰めの台詞に答えたのは、僕のお腹の音だった。
僕は顔を真っ赤にしてテーブルに突っ伏した。頭の上からは、フリックさんとビクトールさんの笑い声が聞こえる。

そして、ようやくそのときになって、僕は長く息を吐き出した。やってきたんだ。ミューズに、僕達はやってきたんだ。
ちゃんと、来ることができたんだ。


***


一番最初に到着したのは、バーバラさん達だった。バーバラさんの肩にはムクムクくんが乗っかっていて、フリックさん達に向かって、「ムックー!!」と敬礼した。よくやった、とビクトールさんはムクムクくんの手を握った。ムクムクくんは嬉しそうにして今度は僕の頭の上に飛び乗った。「ムクムクくん、無事だったんだね!」 あったりまえだろ、と言うように、ムクムクくんは真っ赤なマントをなびかせる。可愛い瞳のアンチキショウは、中々に頼り甲斐のあるアニキだった。

バーバラさんは、僕を見つけて一瞬ほっぺたをふくらませた。ものすごく怒った顔をした後に、すぐさま泣き出しそうになって、僕を力の限り抱きしめた。「どこに行ったかと思ってたよ!」 わ、わ、わ、と僕はビックリした。そしてまた、じわりと涙腺が緩んでしまいそうになった。
「心配かけて、ごめんなさい」と小さな声でつぶやいて、僕もバーバラさんに抱きついた。「本当にね!」とバーバラさんは怒った。ものすごく怒った。そうした後で、「本当によかった」と僕の頭を何度も撫でて抱きしめた。


たくさんの人が、ミューズへとやってきた。僕が知っている人もいるし、知らない人もいる。リキマル、と名乗った男の人がノシっ、ノシッと大股で僕の横を通りすぎて、山盛りのご飯を片手に去っていった。ちょっとそれは、持ちすぎだろうと思った。

たくさん人がいれば、お金の問題はいつでも苦しい。
ミューズの市長さんに大部分を助けてもらっているらしいけれど、大きな顔ができないし、いつでもお金は不安だった。僕は砦を逃げてきたときに靴下の中に詰め込んでいたお札を、ビクトールさん達へと渡した。するとビクトールさんは目をぎょっとさせて、そうした後にぐしゃぐしゃと力いっぱい僕の頭を撫でた。「よくやった!」 僕はすごく嬉しかった。ほめられた、ほめてくれたんだ、と嬉しくて嬉しくてたまらなくなった。こっちに来ても、僕は会計のお仕事を手伝った。そしてレオナさんと一緒に酒場のお手伝いもした。

そうやって、色んな人を見て、色んなお仕事をしていくうちに、僕はたくさんのことを考えた。
ここは、決して安全な場所ではないということ。
すぐそばには、ルカの軍が、僕達を待ち構えていて、ぽたぽたよだれを垂らして、僕達を狙っているのだということ。

それから、僕はこれからどうすればいいのか。
何をやればいいのか。
呪いと戦うって、どうすればいいんだろう。

あれから数日経った後に、僕は一つ、決意した。フリックさん達は、市庁舎という場所へ行ったり、仲間集めに奔走していることが多い。夜になって、鬱憤を晴らすみたいにお酒を飲んで、僕はその横でうろちょろする。ビクトールさんほど飲んではいないフリックさんは、僕を見つめて、どうした? と首をかしげた。僕は覚悟した。両手をぎゅっと握りしめた。そして、



     剣を習いたい?」


フリックさんは、困ったように首をかしげた。
それを言うことは、とても勇気がいることだった。
とてもとても、恥ずかしかった。お前に、人に刃を向ける覚悟はないだろうと言われれば、そうだと頷くしかなかったし、やっぱり、バルバロッサ様に憧れている気持ちがまったくないと言えば、嘘にもなる。そしてとても強い二人に、僕なんかがお願いします、と頭を下げることは、舐めているんじゃないか、と思われると思ったのだ。
でも、これしかないと思った。
僕は、逃げてばっかりじゃいけないんだ。フリックさん達の側にいることを決めたのなら、僕は何にもできないままじゃいけないと思った。いや、別にいいんだ。何も戦う力があることそれだけが、彼らの手助けになる訳じゃない。バーバラさんとレオナさんがそうじゃないか。でも駄目だ、僕は覇王の紋章さんがついている。もし、フリックさんが危なくなったら、僕自身が死んでしまいそうになったら。僕はきっと、迷わず紋章さんの力を借りると思う。僕はすごくすごく臆病者なんだ。他人の命と、自分の命を天秤にかけたら、すぐに自分の命をとる臆病者だ。

それは、駄目なことじゃない。けれども、決していいことではないと思った。
もし、そのとき、多少なりとも剣を扱うことができれば。
そうすれば、僕は紋章さんの力を借りずに済むかもしれない。それが僕がずっとずっと考えて出てきた、あんまりも子どもすぎる答えだった。

フリックさんは押し黙った。ビクトールさんは、赤ら顔のままグビグビとビールを飲み込んでいる。僕は本気だった。すくなくとも、そんな気持ちでフリックさんを見つめていた。フリックさんは、僕をはかりかねているように見えた。それから暫くの間があったあと、ビクトールさんが、「いいんじゃねぇか?」と呟いた。僕とフリックさんは、ハッとしてビクトールさんをみつめた。

「おっと違うぜ、オッケーって意味じゃねぇ。賭けをしたらいいんじゃねぇかって言ったんだ。賭けの方法はフリックが選べばいい。なに、フリック、お前と一騎打ちをしたろう。そういうこった。今から習いたいって坊主に一騎打ちは酷だろ? だから賭けだ。せめて運を味方につけた方の勝ちってことにすんだよ」

どれだけ運が悪いお前でも、賭けの方法が選べるんだったら有利なはずだろ? とたらふくお酒を飲んでいるはずなのに、ビクトールさんは流暢に舌を回してフリックさんを見た。フリックさんは、「そうだな」と頷いた。僕はパアッと顔を輝かせて、「フリックさん、ほんと!?」「ああ。でも、賭けの内容は、文句を言わないこと」「うん、うん、僕、絶対文句なんて言わないよ!」

駄目でもともとだったのだ。0パーセントがほんのちょっと、可能性が上がった。ビクトールさん、ありがとう! と僕は頭を下げた。「ビクトールさん、ぼく、今度からビクトールさんのこと、心の中でこっそり熊さんって言わないね! せめてちょっと可愛くして、プーさんって呼ぶね!」「あんまり嬉しくねぇっていうか、そりゃいったい誰のことだ」


次の日、フリックさんの空いている時間に僕とフリックさんは外へ出かけた。なんだかんだと行って、ゆっくりと外を見てまわるのは、これが初めてだ。僕はゴクッと唾を飲み込んだ。
     外国みたいだ)

こういうたとえを使うのは、ちょっとおかしいと思う。けれども、そう言うしかない。僕はてっきり、こっちの世界はリューベの村のような田舎の村みたいな場所ばっかりだと思っていた。けれどもここは違う。広い道路には人が行き交い、建物の一つ一つがたまらなく大きい。いや、その大きい、デザインを合わせた建物は、一つで複数のお店が入っていた。デパートみたいなものなのかな、と思ったけれど、僕が知っている場所とは縦の高さが違う。なんだか変な気分だ。

? ふらふらするんじゃない。迷子になるぞ」「はーい」 僕はフリックさんの後ろにくっついて、入ったのは変なお店だった。そこに僕が足を踏み入れた途端、ぶるりとお店の中は振動した。僕は何もなってない。彼らが震え上がったのだ。炎は小さくなって、水はぴちゃぴちゃ音を立てて、雷と風が混じりながら遠くなり、土はうんともすんとも言わなくって、死んでるみたいだった。「……フリックさん、ここは?」「ん? 入ったことがないのか。紋章屋だよ」 もんしょうや。

きっと文字通り、紋章を売っているお店なんだろう。丸い、ガラス玉みたいなものの中に入った紋章達が、ガタガタと震えていた。僕はぶかぶかな左の手を握りしめた。みんな、僕に、いいや、紋章さんに怖がっているのだ。「……なんだか、今日は日がよくないみたいだねぇ」 店の奥にいる店主が、眠たげな声を出す。黒いローブのフードをパサリと脱ぎ、欠伸をした。「はい、いらっしゃい」

フリックさんは、僕をここで待っておくようにと言った。僕は立ったまま、部屋の中を見渡す。暗い戸棚の中に収まっている紋章達が、僕と目が合わさる度に、びくんと大きく震えた。(できるのかな) たとえば、僕がここで紋章さんの力と使って、彼らをまったく黙らせてしまうことができるのだろうか。

できるかどうかは、やってみないと分からない。でも、ぼくはそんなことする気はなかった。怖いからだ。もし、万一僕が間違ったことをしでかして、みんなを巻き込んで殺してしまうかもしれなかった。そんなこと絶対に嫌だし、したくない。僕はもう一回、じろっと紋章達を見つめた。べつに僕、何にもしないから、そんなに怖がらなくてもいいよ。「おい、」「はい」

僕はひょい、とフリックさんの元へ向かった。
フリックさんは、大きな手のひらの中に、何かを隠していた。「、ここに一つに紋章がある」 隠した手のひらを、僕の目線よりも高くなった。これで僕の位置から、それを見ることができない。「さっき、ここの店主から買ったばかりだ。これを、俺はお前にやろうと思う」「え」「その前に、だ」

フリックさんは、まるでいたずらっ子みたいに口元をにんまり上げた。ちょっとビクトールさんの笑い方に似てる。一緒にいると、仕草まで似て来てしまうんだろうか。「この紋章が、なんなのか当ててくれ。火でも水でも、五行のなんでもいい。これが当たれば、俺はお前に剣を教えるよ」「え、ええ!」「文句は言わない。約束だろ?」

ニカニカとフリックさんは笑った。けれども僕は、「で、でも……」と口ごもった。フリックさんは、「なんだ、言ったことの責任はとらないとな?」と眉毛をハの字に寄せている。違うんだ。違う、フリックさん、違うんだよ。

“そんな簡単なことで、本当にいいの?”と僕は訊こうとしたんだ。

なんてったって、僕はそこに何の紋章があるか、すぐに分かる。今もフリックさんの右手には、バチバチ雷が暴れているし、奥の店主の額には、ひゅうひゅうと風が吹いている。カンニングしてるみたいだ、と僕は少しだけ申し訳なく思いながら、もう一度フリックさんの手のひらを見上げた。(……あれ?)

おかしい。
僕はぎゅ、ぎゅ、ぎゅ、と何度も瞼をこすった。やっぱりおかしい。
「あの、フリックさん」「なんだ。ギブアップか?」「ううん。そうじゃなくって……その紋章」 五行の紋章じゃないよね? と言おうとした言葉を飲み込んだ。ゴギョウっていうのは、火と、水と、土と、雷と、風だってこっちに来て知ったことだ。それはどれでもない。見間違いでもない。
何度見ても、間違いじゃない。

“薬”

ポポポ、と空中で、そう書かれた文字が暴れていた。なんで、漢字? 日本語だし、と思いながら、あっ、と僕は思い出した。そうだ。トウタくんの服にも、この漢字が書かれてたじゃないか。それで、トウタくんの手には、確か、「…………おくすりの、紋章?」

僕が呟くと、フリックさんはピシリと固まった。僕は顔を輝かせた。「おくすりの紋章なんだね、フリックさん!」 フリックさんは答えない。僕は即座に、お店の奥の店主へ顔を向けた。店主の人は、顔をニマニマさせながら頷く。「やったあ!」 僕はパッと両手を上げた。そのとき、お店の紋章達が、びっくりしたようにまた震えた。店主さんもびっくりして顔を上げて、「今日はやたらに騒ぐなぁ」と顎をひっかいている。

「やったー!」
ばんざーい! 約束だよね、約束だよね! とニコニコ両手を上げて、フリックさんの周りをぐるぐる暴れまわる僕とは対称に、フリックさんはカチンコチンに固まっていた。そして暫くした後、長い長い溜息をついて、やけっぱちのように、「わかったよ、約束だ」と呟いた。





  

2011/12/14

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