新たな場所





「お願いします、船を出してください、お願いします……!!」

一人の青年が、桟橋で頭を下げた。船頭はポリポリと頬を引っ掻いた。この間も会った青年だと気づいたのだ。あのときはどうにもチャラチャラとしていた男だと思ったのだが、今日は随分神妙な顔をしている。まあいい、と彼はぽとんとキセルの灰をおっことした。「だからな、あんた。前も言ったけど、王国軍に止められてんだよ。俺だって好きでこんなことしてる訳じゃねえさ。商売上がったりだしな」 わざとらしく、ため息までついてみたが、まあ言っていることは事実である。この調子じゃ、冬に向けてのろくな蓄えもできやしない。かみさんに、なんて謝ればいいんだよ、ともう一度ため息をついたとき、ふと、青年の背に背負われた子どもに目がいった。

「お? そいつは?」
こないだ来た時にはいなかった。布を深く被せられていたものだからどうにも分かりづらいが、彼の弟だろうか。まさか息子という訳ではないだろう。船頭が問いかけると、青年は苦しげに顔を歪ませた。彼の背中で、ゲホゲホと子どもがよくない咳をする。おいおい。「あんた、その子は随分体調が悪いみたいじゃないか。こんなとこで油食ってねえで、宿屋に連れて行ってやりなよ」
自身はひどく常識的な言葉を述べたはずなのだが、青年は自嘲的に唇の端を上げ、ゆるゆると首を振った。「もう手遅れなんです」

穏やかではない言葉だ。
自然と眉をつりあげ、キセルから口を外し、彼と、その子どもの顔を見比べた。「この子は俺の弟なんですが、もう長くはありません」 ぴくり、と船頭が片眉を上げた。「そうお医者様に言われたもんですから、あとはお迎えを待つばかりで、家族の俺には何もできないって言われました。でも、そんなのあんまりじゃないですか。不憫すぎますよ。こいつはまだ10歳なんです」

まるで弟の命を盾に取るようで、この間伺ったときはお話することができなかったのですが、と青年はひとつ言葉を起き、子どもを背負い直す。いくら子どもが小柄だとは言え、10歳と言えば、随分な重さがあるに違いない。それでも青年は子どもを下ろすことなく、じっと船頭を見つめ続けた。「丁度そんな風に悲観にあけくれていたとき、ミューズに腕のいいお医者様がいるとお聞きしました」

ホウアン先生か、と男はふと思いついた。自身の子どもも、一度診てもらったことがある。丁寧な診察の、優しげな風貌をした男だった。「しかしな、ミューズなら反対方向じゃないか」 それでなんで、と疑問を口にしようとしたとき、ハッと気づいた。青年はゆっくりと頷いた。

「お察しの通り、ミューズはハイランドの賊兵に攻めこまれ、近づくことすらできません。先生の無事もわかりませんし、いつまでもぐずぐずしている訳にもいかないと、せめて最期は生まれ故郷で迎えさせてやろうと思って、船渡しをお願いしようとしたのですが……」

王国軍に、船を止められていたという訳だ。
船頭は自身の手先をむずむずとさせるようにして、瞳を逸らした。自分にはどうすることもできない。気の毒な兄弟だ。そう同情するが、それだけだ。「そうかい、でもなあ、俺もかみさんや子どもがいるんだ、申し訳ないがなぁ……」「お代は倍払います!」

俺と弟の二人分と、それに足して二人分。四人分を払いましょう。
その言葉に、一瞬ぎくりと心が揺れた。稼ぎがすくない、どうすればと心の中でぼやいていたばかりなのだ。しかし、と思わず彼の背に乗っかる子どもに目を向けた。すると、苦しげに瞳を細められた少年に、パチリと瞳がかち合った。う、と唾を飲み込む。
子どもはゆるゆると、動くにも億劫な様子で、兄の首筋に額を置いた。そして、ぽそりと、「お兄ちゃん、帰りたいよう……」

船頭は頭を押さえた。そしてぶるぶると首を振った。何度もガンガンと自身の頭をぶっ叩いた。ちくしょう、と声を発して、覚悟をしたように、青年に向き合った。






「ナーイス! ナイス、ナイスナイスだぜー!!!」

いおっしゃー!!! と、川を渡ってからしばらくしてシーナさんがゲラゲラと叫んだ。もしかしたら、まだ遠くで船頭さんがこっちを見ているかもしれないと僕らはおんぶにだっこでテコテコと歩く。「ううう、シーナさん、ひどいよう……」 僕、こんなことしたくなかったよう、としょぼしょぼ呟くと、「なーに言ってんだ。嘘もハサミも使いようって言うだろ?」「それを言うなら、馬鹿とハサミだと思う……」 なんとなく、言いたいことは伝わるけど。


「あ、そうだっけ」とシーナさんは適当に頷いて、「まーさか、こんなにうまく行っちまうとはなー」とガハハと笑っている。シーナさんに、不治の病にかかった俺の弟になれ! と唐突に肩を掴まれたときは何事かと思った。意味がわからないよとぶんぶん首を振ったあと、この悪知恵計画を話されたのだけれど、それでも僕は首を振った。無理だし。全体的に無理だし。

僕がいやいやと言い続けていたら、シーナさんはふう、とため息をついた。「、お前、俺の金でジュース飲んだろ」 ひどく嫌な予感がした。「お前はまだガキだからわからねーかもしんねーけど、金は無限に湧いてくるもんじゃないんだぞ?」 ちなみに俺がお前の年の頃はそうだと思ってたが、それはさておき。ごほん、とシーナさんは咳をつくと、ビシリと僕に人差し指を差した。

「労働だ! 正当な労働があってこそ、対価がいただけるのだ! お前は俺の金で買ったジュースを飲んだ! その価値分を働いてもらおうじゃねえか!」
「ままま、まさか初めからそれを狙って!?」

ひどいよー、と涙ながらに首を振ったら、「あ、いやなんか今適当に思いついた」とか、えへへと笑われたけれどえへへじゃない。「とにかく! 文句はいわせねーぞ、おらおら俺に背負われろー!」「いーやー!!」

なんでこの人に会っちゃったんだろう、なんで僕はこの人についていっちゃったんだろう、と色々と後悔したのだけれど、冷静に考えてみれば別についていった訳ではなく、今と同じく強制的に首根っこを摘まれたんだったっけ……と半分タッカンしていると、顔が似ていないからと顔隠しに大きな布を被せられた。ビクビクどきどき、バレてしまったらどうしようとチキンはハートを鳴らして、今に至るのだけれど。



まあ終わり良ければすべてよし、と言う訳じゃないけど、シーナさんのおかげで、僕は川向こうに渡ることができた。よくあんな作戦が成功したよね、とぼんやり呟くと、「ようは勢いなんだって、勢い。あっちだって金がなくて困ってんのはわかってたしな」 考える暇がないくらい、一気に攻めてやればいーの。と、自慢気にしゃべるシーナさんの言葉を聞いて、なんだか人生の経験値を積んだような気がする。こんな経験値積みたくなかった。

「ま、それにしたって最後の帰りたいってお前のセリフはなっかなかよかったぜ! まさかあれが演技なんて思わねーよ。お前、役者の才能があるんじゃねーの?」

シーナさんの言葉に、僕はハハハ、と小さく笑った。だって別に、シーナさんが言うようにあれは演技でもなんでもなくって、本当に帰りたいと思ったからだ。お願いです、こいつを帰してやってください、と船頭さんにつめよるシーナさんの言葉を聞いていたら、どんどん涙が出そうになった。あっちの世界に帰りたい。でも帰れない。せめてフリックさんの側にいたら、寂しくないと思ったのに、フリックさんもいない。

頑張っているつもりなのに、進んでいるかどうかもわからなかった。もしかしたら、どんどんいろんなところから遠ざかっているようにも感じた。「それで、お前、これからどうするんだ?」 シーナさんの言葉に、ギクリとした。

そろそろいいだろう、とシーナさんの背中から下りながら、「知り合いを、探そうと……思ってて……」 そうだ。もともとは、そのつもりでこっちにやって来たのだ。今も微かに意識を探れば、一つの紋章の気配がする。一つだけ? と首を傾げたけれど、とにかく確認しなければならない。シーナさんは、「おう、そうかー」と頷いた。そしてシーナさんに持っていてもらった刃が潰れた剣を渡してもらうと、彼は少しだけ眉を顰めて、「別に、サウスウィンドゥかラダトくらいなら連れて行ってやってもいいぜ」「え?」

男に優しくする趣味はねーけど、まあ、お前がいて助かったのは事実だし、俺も行くとこなんか決めてねーし、と言うシーナさんを見上げて、僕は首を傾げた。「それって、どこのこと?」 なんだ知らねーのかよ、とシーナさんは呆れたようにため息をついて、「あっちと、あっちの街だな、多分」と指をさして教えてくれた。僕はその指先をううんと見つめた。そして首を振った。

「ううん、僕が行きたいのはあっちじゃなくって、こっち」
「はあ? そっちにゃ何もないぜ」

たしか寂れた街だか城だかがあるだけだ、というシーナさんに、へえ、と僕は瞬いた。「でも、知り合いがあっちにいるみたいだから」「……ま、いーけどよ」 それじゃあここでお別れだな、と伸ばされたシーナさんの手のひらに、僕はきょとんとした。「ほら、お前、別れるときっつったらこれだろうが」 ばたばたと手のひらを動かされて、やっとわかった。

シーナさんはちょっとだけ屈んで、僕は手のひらを伸ばして、お互いぎゅっと右手を掴んだ。そうすると、ぱちん、とシーナさんの左手が、僕の右手の背中を叩いた。

「ま、縁があればってことで。今は放蕩息子やってるが、一応トラン共和国の大統領の息子なんだぜ、なんかあれば、俺の名前でも出してやってくれや」
トラン共和国って、どこだったっけ、と思いだして、都市同盟の隣の国の人なのだと思いだした。そこに行く機会があるかどうかわからないけれど、僕はわかった、と頷いた。こういうときは、そうして返事をするべきだ。

シーナさんはにししと笑って、お互い手のひらを離した後、じゃあな、と背中を向けた。ばいばい、と僕は手を振って、シーナさんと同じく反対を向いた。ずんずん、と進んでいく。左手に意識を集中させて、さん達を探る。モンスターはなるべく避けて、どうしようもないときだけ剣を振り回した。川向こうとはモンスターの種類が随分違う。随分手こずるようになったけれど、紋章さんの力を借りながら、なんとか旅を続けた。
足りなくなった食料やマッチは、シーナさんから少しだけ別けてもらったので、いくらか気分は落ち着いていた。ご飯がない、マッチがないと不安に思う気持ちが減ったら、そのぶん真っ直ぐ進めるようになる。



数日が過ぎて、僕は少しずつおかしいな、と思うようになった。紋章の気配が、なんだか違う気がする。いつもと違って、一つしかないからだろうか、とか、しばらくの間離れていたから、気配が変わったのだろうか、と自分自身をいくらか説得させるようにここまで来たのだけれど、やっぱりおかしいと思った。シーナさんが言っていた、寂れた街の入り口にたどり着いたとき、はっきりと理解した。(さんじゃない) もちろん、ジョウイさんでもない。

さんは、ぴかぴかとしていて、ジョウイさんは鋭い刃のような雰囲気だったのに、この紋章は違う。どこか、土の匂いがするけれど、土の紋章と言うわけじゃない。ひんやりとしていて、冷たい土の匂いだ。(逃げなきゃ)

まさか、真の紋章を持つ人が、僕ら以外にいるとは思わなかった。とにかく、逃げないといけない。そう思った。いや、同じく紋章を持つ人なら、何か手助けをしてくれるかもしれない。そうも思ったけれど、強い力を持つ人は怖い。鉄砲を持っている人の後ろにいるのならちょっとは安心するかもしれないけれど、僕はそれと今、真正面にいる。

パッと背中を向けて駆け出そうとしたとき、ふと、一羽のコウモリが視界をよぎった。珍しいな、と思って、そのまま前を向いて逃げ出そうとしたら、またどこからかコウモリがやって来た。二羽、三羽、四羽、いっぱい。数えきれないほどのコウモリが、僕の正面に集まって、黒々しい渦を巻く。「……しばらく前から、何やら、奇妙な気配がすると思えば……」 しゃがれた声が響く。それもコウモリの中からだ。僕はぎくりとして後ずさった。

気づけば、あれだけたくさんいたコウモリは消えて、赤い目をした黒マントの、オールバックのおじさんがこっちを見ていた。不自然なまでに白い肌で、近づきたくない人にランキングをつけるのならば、かなりの上位に食い込みそうな、変な人だ。彼は口元から小さなキバをのぞかせて、くすくすと手のひらを口元に当てながら微笑んだ。「     あなたでしたか、

男の人は、唐突に僕の名前を呼んだ。僕はビクリと肩を震わせて、彼を見上げた。




  

2012/03/05

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