新たな場所






「あなたでしたか、

そう微笑んだ、というには、どうにもねっとりした笑みを浮かべる男の人に、僕はパクパクと口元を動かした。そうすると、彼は何を勘違いしたのか、「ふむ、おかしいですね、覚え間違いでしょうか。いやたしか、そう呼ばれていたような……タロウ、ジロウ、コジュウロウ……」「あ、いや、で合ってますけど……」

っていうかなんでいきなりそっち系統に行っちゃったの、ジロウの次はサブロウじゃないの、とか色々と訊きたいことはあったけれど、そもそも、なんで僕の名前を知っているんだろう。何度確認しても、僕はこの人のことは知らない。なるべく言葉を優しくしてみて、こんな個性的なお方と知り合った覚えはないのである。勘弁である。

「やはり合っていましたか。人は簡単に死にますし、姿が変わりますからね。いちいち覚えるのも面倒で、姿ではなく魔力で覚えればなんとなくは……」 うむ? と男の人が首を傾げた。「あなた、昔よりも縮みましたか?」「いや、今のところそういうキザシはないです……」 ちゃんと毎年おっきくなってます……? と自分でも疑問形で答えると、「おかしいですねぇ、奇妙ですねぇ」とくるくると地面を歩きまわって、何か考えているらしい。変な人だ。見ればわかるけど。

「名は同じで魔力も同じ、しかし姿は違う……あなた、変化の術でも使えるのですか?」
「あ、ちょっとそういう特技は今のところないです……」

今のところっていうか将来的に身につける予定もないけど。
ウーン、としばらく彼は首をひねっていたのだけれど、まあいいでしょう。と頷いた。そしてトコトコと僕に近づく。僕は思わず逃げた。けれどもすぐさまグイッと首根っこを掴まれて、ぷらりと宙に浮いてしまった。「う、うわわわわ」 意外とビックリな怪力さんである。

「これぞ飛んで火にいる夏の虫、というところでしょうか。あのように真の紋章を共鳴させられては、興味を示すなと言う方が無理な話でしょう」
「きょ、キョウメイ……?」

この人、何を言っているんだろう、と顔を上げると、「おやおや」と僕の首根っこをぷらぷらさせたまま、彼はキバを見せながら笑った。「分かっていなかったと。まったく、無知なことで」「はあ、すみません……」 僕がシュショウに頭を下げると、彼はどうやら説明したがりなタイプの人らしい。素直でよろしい、と満足気に頷いた後、僕をつかんでいない方の手のひらをぷらぷらさせて、「おそらくあなたは、私の月の紋章を目当てにやって来たのでしょうが、あなたはただ紋章の気配を探ったのではなく、紋章同士を共鳴させ、その波紋を感じ取っていたのですよ」

ですから、共鳴させられた此方側からも、あなたの位置は手に取るようにわかりました。と、説明されても実はよく分かっていないのだけれど、とにかく僕は結構危険なことをしていたのかもしれない。普通の五行の紋章や、半分に別れているさんとジョウイさんの紋章はわからないけれど、ちゃんと一つの真の紋章を持っているこの人には、僕の存在がバッチリわかってしまうってことだろうか。

「あ、あのあの、放してっ、くださっいっ!」

こんな体勢をし続けていたら、いくらなんでも首が苦しくなってくる。う、ううう、と僕は唸りながらバタバタ暴れた。ふふふ、と彼は笑って、「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね。私の名前はネクロード。月の紋章の所有者です。まあ人間でいうところの、吸血鬼、というやつでして」 きゅうけつき。「きゅきゅきゅ、きゅうけつき!?」「おやおや、逃げてはなりませんよ、覇王のぼうや」

そんなのありえない、と思ったのだけれど、ここは僕の世界じゃないし、その上吸血鬼と呼ばれて、ものすごく説得力のある雰囲気である。キバがあるし、びっくりするくらい肌が白いし、黒マントだし、オールバックだし、変な人だし。ただ唯一つっこみたいポイントがあるとすれば、夜じゃないのに、普通にお外に出ていることなのだけれど、結構根性を出せば陽の光くらい克服できるのかもしれない。なんていうことだ。「うわわわわ、ここここ、こないでぇー! あっちに行ってぇー!!」

血を吸われたら、この人と同じく吸血鬼になっちゃうかもしれない。やだやだやだ、とバシバシ必死にネクロードさんを蹴り飛ばそうとしても、足が届かない。ぼ、僕の足が短いばかりになんてこった。ネクロードさんはニヤッと笑って、もう片方の手のひらを僕の眼前に伸ばした。僕は思わずその手のひらをはじき飛ばした。

瞬間、いきなり僕は彼の支えを無くして、地面に落っこちた。ぼとぼとっと何かが一緒に溢れる。なんだろう、と思ってみてみると、ネクロードさんの手のひら二つが草の上に転がっている。「ギャーッ!!!」 振り返ってみてみれば、もちろん彼の腕から先は、何もなくなっていた。「ギャギャーッ!!!!」 再び叫んだ後に、彼からサカサカと逃げた後、勢い良く僕は土下座した。またやってしまったのだ。なんで彼の手のひらがなくならなかったのかわからないけれど、また僕が、彼を“拒絶”してしまったに違いない。

「ごごご、ごめんなさい!! ごめんなさい、本当にごめんなさい……!!!!」

謝って済むことじゃない。当たり前だ。けれども謝らずにはいられなかった。
ネクロードさんは呆然として自分の手首を見つめた。奇妙にも、血の一滴もこぼれないその切断面を見ながら、「まさか、そんな、私の体に傷をつけるなど……」 とぶつぶつとつぶやいている。

今のうちに逃げるべきかとも思ったけれど、まさかそんなひとでなしになれる訳がない。「あ、あの、とにかく怪我の治療をした方が……僕、おくすり持ってますよ!」と言おうとしたとき、ネクロードさんは、器用にも手のひらがない腕で、自分の手を持ち上げて、ぐいぐい、と手首に押し込んだ。くっついた自分の右手を確認するように指を動かし、今度は反対の手だ。難なく両手をくっつけて、満足気な声を出しながら十本の指をうねうね動かす彼を見て、僕はあんぐりと口を開けた。

「なるほどなるほど。三年前よりも、随分強力になっています。それでこそ、狙う価値があると言うもの。……さて、覇王のぼうや、せっかくここまでやって来てくれたのです。あなたの紋章をいただかせて頂きますよ」

そう言ってネクロードさんが、ずんずんと僕に近づいてくる。さっき僕が落としたばかりの手のひらをゆるゆると動かしながら、僕に向かって腕を伸ばした。僕は慌てて、体を小さくさせながら、両腕で顔の前をクロスした。「ひいっ」 悲鳴を上げた。そしたら、バチリと静電気が走ったのだ。「……くっ……」

苦しげな声をあげたネクロードさんが、赤くなった手のひらを押さえた。眉を顰め、もう一度と僕に手のひらを伸ばす。そしたら今度は、さっきよりも大きな音をならして、僕の円上に光が弾けた。まるでやけどしたように、彼はグズグズになっている自身の手のひらを見つめている。

     逃げられるかもしれない

そうだ、僕には紋章さんがいる。こいつは敵だと、紋章さんも叫んでいる。お互いの利害が一致した僕らは、ネクロードさん、いいやネクロードを強く睨んだ。けれども、ネクロードはすぐさま治る自分の傷を見つめてくすくす笑った後、「あなたに直接触ることができないというのであれば、こうしましょう」 パチンッと片手で指を弾く。

どこからともなくやって来た黒いコウモリたちが、わさわさと僕の視界に集まった。「きょ、拒絶するっ!」 バチッとコウモリの一匹が弾かれた。けれどもすぐさま他のコウモリがやって来て、弾いたはずのコウモリまで、僕の周りをぐるぐると回る。「きょ、拒絶する、拒絶する、拒絶するっ!」 何回も言っているのに、きりがなかった。気づけばコウモリたちは、ぴたりと丸く、黒い円になって、僕の周りに張り付いた。手前のコウモリが弾かれても、その次がやって来る。まるでバリアーか何かのように、集まって、何も見えない。

僕の三十センチ向こうで、きいきいと叫ぶコウモリの声や、こちらをじっと見つめる瞳にぎくりとして、僕は頭を抱えるようにして小さくなった。どうしよう、と思ったとき、僕の体がふわりと浮いた。エレベーターの中の下りのように、体が一瞬重くなる。コウモリたちが空を飛んだのだ。とうとう足元までコウモリに埋め尽くされて、紋章さんの結界ごと、僕は体を移動させた。どこに向かうんだろう。けらけらと、ネクロードの笑い声が聞こえる。怖くて怖くて仕方がない。剣を使うことができれば、それでもダメなら紋章さんがいれば、なんとかなると思ったのに、僕は全然甘かった。あはははは、あはははは、と彼が笑っている。怖い。怖くて、怖くて仕方がない。

紋章さんが、悔し気に叫んでいる。自身はこんなものではない、違う、違う。そう言っている。そんなことを言われても、僕には何もできない。空気がひんやりとしていた。どこか建物の中に入ったのかもしれない。すとん、と今度はどこか石畳の上に落とされた。けれども変わらず周りはコウモリに埋め尽くされている。


「私があなたに触ることができないと言うのであれば、その力が尽きるときを待ちましょう」

「あなたにはそのコウモリ全てをはじき飛ばすことはできない」

「さて、どれくらい耐えることができるか、楽しみですね」

「食料は、どれくらい持っていますか? 三日間? それとも一週間? いいでしょう、いくらでも待ってあげましょうとも」

「苦しみなさい」

「さあ、苦しみなさい」

「苦しみの声を、私に聞かせなさい」


コウモリの鳴き声の中で、ネクロードの声が散り散りに聞こえる。ふと、オルガンの音がした。大きな音だ。音ばかりが溢れている。僕はガタガタと震えた。いつまで、僕はこんなことを続けなければならないんだろう。紋章さんの拒絶を解いた瞬間、このコウモリたちはすぐさま僕を襲う。そうすれば、僕はもう逃げられない。
だからと言って、このまま我慢を続けて、何か解決策が見つかるのだろうか。食料の手持ちは、大切に食べても、ざっと四日間。そんなに長い間閉じ込められていると思うと、ぞっとした。けれどもそもそも、ものを食べながら紋章を発動させるなんてこと、できるんだろうか。少なくとも、僕はしたことがない。
それに、四日もあったら、眠らないといけない。その間、僕はどうすればいいんだろう。その間も拒絶を維持し続けるだなんて、できるんだろうか。

(だめじゃ、ないか……)

駄目じゃないか。あの幽霊のお兄さんは、僕に嘘をついた。力をくれると言ったのに、こんな簡単なことで、僕は何もできなくなってしまった。全然ダメじゃないか。パイプオルガンの音が響く中で、僕は小さく座り込んで、ぽろりと涙をこぼした。紋章さんと、右手のおくすりくんが、なにかを言っていた気がした。けれども、僕は何も答えずにその中で数日のときを過ごした。




     



ばちり、と弾ける音が聞こえる。僕はハッとして顔を上げた。どうやら眠っていたらしい。ばちばちばち、と途切れ目を探すように、コウモリが結界に突撃した。口元のよだれをぬぐって、長く息を吐き出し、頬を何度も叩いた。頭の中がぼんやりする。ごそごそと鞄の中から干した肉を取り出して、ぎちぎちと歯の端っこで噛んだ。
どれくらいの時間が経ったのか、僕にはよくわからない。ただ、長くオルガンの音が響いていたと思うと、またしばらく音が聞こえなくなる。おそらく、あのオルガンはネクロードか、誰かが弾いていて、眠っている間は誰も触らない。その回数と、鞄の中の食料を確認して、おそらく三日目。

ある程度、眠っている間も拒絶を維持できることは幸いだった。僕一人の力ではなく、紋章さんが頑張ってくれているのかもしれない。汚い話であるけれど、トイレをした僕の排泄物も、拒絶できるらしい。紋章さんで拒絶できるものは、モンスターと、紋章に関連するものの二つだ。僕のおトイレあとも、紋章の一部と判断してくれたのは、かなりありがたい。誰に何を遠慮する必要がないので、そのまま勢い良く世界から拒絶して消し去った。

皮肉なものだけれど、この数日の間に、僕は随分紋章さんの扱いがわかってきた気がする。紋章さんを使うことは怖い。一歩間違えれば、僕は人を傷つける。だから、ずっとビクビクとして使っていた。モンスター相手にだってそうだ。けれども、今はそんなことを言ってられない。紋章さんと息を合わせて、コウモリをはじき飛ばす。紋章を使い続けるこっちも辛いけど、僕の周りに飛び交っているコウモリさん達だってそうに違いない。お互い持久戦だ、と覚悟を決めた。けれども、いつの間にか疲れたコウモリは新たなコウモリに補充されているらしく、その考えは諦めた。

食料が少なくなる。
けれどもそれ以上に、体の中の何かがじりじりと消えて行く。最初は、まるで水か何かのように、たくさん体の中にあったのに、それが少しずつ流れだしていって、今はもう、枯れ果てる寸前だった。これは何だろう、と考えたとき、ふと魔力という言葉を思い出した。そしたら、もうそれ以外の言葉が出なくなって、そうだ、これは僕の魔力なんだと気づいた。
魔力がないと、紋章さんを使うことができない。多分、もうちょっとで僕はコウモリに押し潰される。いくら頑張ったって、やっぱり無駄だった。こんなこと、意味がなかった。

フリックさんからもらった、刃が潰された剣を握りしめた。左手がちかちかと叫んでいる。涙が零れそうになったけれど、もうそんな力も残っていない。歯を食いしばって、剣を抱きしめた。僕はこの三日間、すごく頑張ったと思う。いいや、ずっとずっと頑張ってた。けれども、この頑張りは次につながるがんばりじゃなくって、死ぬ覚悟を作るための頑張りだった。
じわじわと心の中に、その言葉が染み込んだ。僕は死ぬのだ。最初は実感がなかった。けれども、わかってきた。手が伸ばせるくらいに、その言葉が近くなった。

こわい。
とてもこわい。
怖くなったら指を数えるんだ。そうフリックさんが言っていた。けれども、その指を数えることも怖かった。数えても、結局何も変わらない。そんなことは知りたくなかった。
きいきい、とコウモリたちの声がする。重くて、甲高くて、気持ちの悪い、何度も耳に染み込んだオルガンの音が響いている。(フリックさん) お父さん、お母さん、フリックさん。鼻から息を吐き出した。けれどもそれもふるふると震えていて、うまく吐き出せなかった。


     


誰かに名前を呼ばれていた。
「……フリックさん?」 そんな訳ない。僕はひどく疲れているのかもしれない。いいや、疲れている。だから変な声まで聞こえるのだ。

     さあ、目をつむりなさい



彼がそう言っている。
僕は、ゆるゆると瞼を閉じた。抵抗することもできないくらいに、疲れていた。






お兄さんが、僕を見ていた。
コウモリなんてどこにもいない、真っ白な空間の中で、お兄さんは僕を見下ろして、やんわりと笑っていた。「力なんて、どこにもないよ」 ふと、僕は呟いた。力が欲しいかい。あの砦の近くで、そう問いかけたのは彼だった。何度もあった、幽霊だけど、幽霊じゃないお兄さんだ。

彼はちょっとだけ苦笑して、僕の左手をひょいと持ち上げた。「あるよ、ここに」「ないよ、全然ないよ」 僕、死んじゃいそうだよ、と言葉に出したらまるで冗談みたいだったけれども違う。こっちは切実で、現実の僕は死にかけで、ブルブルで、プルプルなのだ。

「だいたい、お兄さんは誰なんだよう」

そうだ、冷静に考えてみたら、僕らは自己紹介だってしていない。なのになんで僕はお兄さんのいうことを、馬鹿正直に信じていたんだろう。お兄さんは、そうだったっけ? とごまかした風に笑った。笑わないでよ、と僕はバシッとお兄さんの左手を叩いた。そのとき、バチリとネクロードとぶつかったときのように、お互いの手に電気が走った。

別に怪我をした訳じゃない。僕は自分の手のひらを見て、お兄さんの手を見た。お兄さんは、やっぱり困った風に笑っていた。「きょ、きょうめい……?」 そうだ、ネクロードが言っていたことだ。紋章同士を共鳴させて、僕はその波紋を読んでいる。

お兄さんは、ううん、と考えた後、「そうかな、まあそんな感じかな」と適当なことを言った。ふと、そのとき僕は気づいた。ネクロードが言っていた、僕と同じ魔力を持っていて、多分、同じく覇王の紋章を持っていた人で、名前は、「…………さん?」

自分の名前を、自分で言うのはなんだか変な感じだった。「僕の前に、覇王の紋章さんを宿していた人なの……!?」 僕は彼の返事も聞かずに、だったら教えてよ、彼の膝にすがりついた。「僕、もうちょっとで死んじゃうんだ、やだよ、そんなのやだよ、お兄さんがなんとか出来るんなら、助けてよ!」

おねがい、おねがい、と僕はとても惨めに彼に頼み込んだ。お兄さんは僕の手を取って、僕の前に座り込んだ。「俺は、きみに何もしてあげられないけど、教えてあげることならできる」 なにを? とただ僕は期待した。


「きみには、呪いが足りないんだ」
「…………呪い?」
「うん、そうだ。たしかにきみは覇王の力を望んだけれど、何もなしに力を得ることはできない。真の紋章と呪いは二つで一つ。力があるからこそ呪いが生まれ、呪いがあるからこそ、力が生まれる」

きみは、孤独にならなければいけない。


そうすれば、もっと多くの力を手に入れることができるだろう。そう言って、お兄さんは笑った。そうすれば、これからも君は生き残ることができる。彼が呟く言葉を聞いて、ふと僕は、左手を見つめた。小さな革の手袋をしていて、それをとると、奇妙なアザがういている。「きみはまだ、正当な継承者ではない。ただの仮宿だ」 言葉が難しくて、半分もわからなかった。けれども、今のままの僕ではダメだということはわかった。


「……寂しくなれば、僕は死なないですむの?」
「うん、そうだ。今のままじゃ、紋章は半分の力だってだせやしない」

本来の力を出せれば、あんな吸血鬼なんて目じゃないさ。そう言って、お兄さんはウィンクした。キザな仕草なのに、妙に似合っていてかっこよかった。「どうすれば、寂しくなるの?」「全てを諦めたらいい。元の世界を、さんを、フリックを、くんも。全部を忘れたらいい」

たったそれだけだ。
僕は困って、もじもじとした。お兄さんは、そんな僕を見て笑った。「とは言っても、いきなりそんなことを言っても困るよね。……よし、こうしよう。俺が少しだけ手助けをしてあげるよ」

彼はふと、両手のひらを合わせた。そうすると、いつの間にか手のひらの間には厚みができて、丸い小さな玉を持っていた。白くて、ぴかぴかしていて、なんだか綺麗なガラス玉だ。「ここは君の心の中だから、その中から、君が彼らを大切に思う心だけ、ここに集めたんだよ」

ほら、とその玉を渡される。「それを割ってしまえば、君が彼らを大切に思う心はなくなる。君は一人でも生きていける」 ぎくりとして、僕は手のひらと一緒にその玉をぎゅっと抱きしめた。「ただ、それを手の間からおっことせばいい。心なんて脆いものだから、そしたら簡単にヒビが入って、綺麗に消えてしまうよ」
今は寂しいかもしれないけど、そんなの今だけだ。後は寂しくなんてなくなる、大丈夫。

そうお兄さんが言っていた。
ぼくはじいっとそのつるつるとした玉を見つめた。テニスボールよりも小さくて、ピンポン玉よりも大きなその玉の中には、きらきらと小さな星が散っている。手の間から、滑り落とす。ただそれだけだ。ふと、僕は手の中の力を緩めた。けれども首を振った。それを力いっぱいに抱きしめた。「やだよ、そんなの」 うん? とお兄さんが首を傾げる。


「寂しくなったら、一人になったら強くなるだなんて、なんだか変だよ。そんなの、人じゃないよ」
「人じゃないって?」
「だって、ちがうでしょ、人間って、他の人がいるから、もっとたくさん、強くなるんでしょ。一緒にいるから、強くなれるんでしょ」

僕はフリックさんがいるから。ビクトールさんがいるから。みんながいるから、もっとたくさんがんばろうと思った。一人だけだったら、絶対どこかで負けてしまっていて、もういやだ、とほっぽりだしていたと思う。もしかしたら、僕は恥ずかしいことを言っているのかもしれない。でも、本当にそう思うんだから、しょうがないじゃないか。「お兄さんは、一人になったの?」 彼は、ちょっとだけ困ったように僕を見下ろしていた。「そんなの、寂しいよ」

僕、弱いから、寂しくなったら強くなんてなれないよ。

呪いが強くなるだとか、そんなの全然わからない。ただわかることは、それは寂しことで、悲しい事だというだけだ。一人じゃないから、正当な継承者じゃないって言うんなら、継承者になんてなりたくない。力を得ると同時に、こぼれ落ちるものがある。ずっと前に、お兄さんは僕にそう言った。けれども、自分から落としてしまってはダメなのだ。僕はぎゅっとその玉を握りしめた。手のひらの間から、きらきらと光っているガラス玉は綺麗で、ちかちかとしていて、力いっぱい抱きしめたくなった。


「ぼく、ぼく、多分全然わかってない。でも、でもね」 きゅっと唇を噛んだ。「そんな風に、考えちゃダメだよ、そんな考え方、悲しいよ」 お兄さん、一人になっちゃだめだよ。
僕の言葉に、お兄さんは苦笑した。ただそれだけで、なんの返事もなかった。彼は、ぎゅっと僕の手を握った。二人一緒に、丸いガラス玉を握りしめた。きらきらとした光がくるくると僕らの周りを回った。僕はワッ、と飛び跳ねて、間違えて玉を落としてしまいそうになった。慌てて二人で手を伸ばして、お互い苦笑した。

「じゃあ、きみはどうするの? 死んじゃうかもしれないって、泣いてたのに」

な、泣いてないよう、とほっぺたをふくらませながら、僕は首を振った。そうだったかなぁ、とお兄さんはくすくす笑って、「気持ちだけじゃ、何も解決しないよ。そう思うことは大切だけど」「でも、最初に諦めちゃったら、なんにもできないと思うな!」

僕は生意気に反論した。
それから、「もうちょっとだけ頑張ってみるね」と呟いた。そうかい、とお兄さんは頷いた。「頑張れよ」 ぶに、とビクトールさんたちがするように、僕のほっぺたをぶにりとひっぱる。僕はへへ、と笑った。そしたら、お兄さんも笑った。

うん。
僕、がんばるよ。





瞳を開いた。
相変わらず、キイキイとコウモリ達の鳴き声が響いていて、魔力もなくなりそうで、現実は何も変わらなかった。けれどもふと、声が聞こえた。左手と右手と、両方ともの声だ。何度も彼らが叫んでいると気づいていた。けれども、聞かないふりをしていた。僕は彼らの声を聞いて、うんと頷いた。手のひらに持ったままだった干し肉を鞄の中につっこんで、代わりとばかりに別のものを取り出した。長く長く、息を吸い込む。そして吐き出す。

「うりゃー!!!」 思いっきり、僕はおくすりをほうり投げた。周りが真っ白い粉で埋まる。右手のおくすりくんに頼んで、僕はそれをコウモリの瞳に叩きつけた。たまらず一羽のコウモリがぼろりと落っこちる。その隙をついて、僕は左手で空中をひっかいた。

何もない剣を突き出すように、ぐるりと彼らをかき回す。そうだ、今までずっと、円上に拒絶するだけなのがいけなかったのだ。一点のみ、ただそこだけをついて、開いた穴を無理やりにこじ開ける。数日前の僕ならばこんな芸当はできもしなかったかもしれないけれど、ここ数日の練習代わりで、ずっとずっと紋章の扱いが上手になってしまった。


僕はごろんと転がるようにして、コウモリ達の中から脱出した。びっくりするくらいに大きなパイプオルガンの椅子に座っていたネクロードがぴたりと演奏の手を止めて、僕を振り返った。「……これは、これは」 驚きですねぇ、と対して驚いている様子もなく口元からキバをのぞかせる。

僕は剣を彼に構えた。
コウモリたちは、すっと彼の体に吸い込まれる。「力の使い方を知らない、無能な継承者とばかり思っていましたが」「僕は、継承者じゃないらしいよ」 お兄さんが言っていた言葉を投げかけると、ほう、と彼は鍵盤に手をついた。鈍く長い音が、パイプから漏れた。


「でしたら話は早い。その紋章、私に譲ってはいただけませんか? そのような紋章は、あなたには荷が重いでしょう」

確かに事実だ。覇王の紋章さんは無口だし、しゃべったとしても、ときどき電撃でビリビリだし、こいつの所為で、僕はいっぱい困ったし、今だって困ってる。でも、「     断るッ!!」
元の世界に戻るためには、彼がいなければいけない。くんに会って、彼に満足してもらわなければいけない。

数日間座りっぱなしで、魔力だってなくなっていて、体だって辛い。目の前に大きな力がある。大きな満月が、ぽっかりとして僕を見つめている。怖い。怖くて怖くて仕方がない。けれども後悔はしていない。ネクロードが、ぎしりと体を起こした。それと同時に、僕も駆け出した。

あんまりにも無防備な体に、僕はおもいっきり剣を叩きつけた。けれどもまるで影か何かを切ったように、手応えもなく剣が通り抜ける。ネクロードがにまりと僕を見下ろしている。僕は急いで彼と距離を取って、もう一度駆け、剣を振りかぶった。学習がない、とでも言うように、彼はくすくすと笑いながらこちらに腕を伸ばした。僕は唇を噛み締め、力の限り叫んだ。「紋章さん!!!」 

魔力が足りない今は、前までのように、馬鹿みたいに使う訳にはいかない。一点のみ、いいや、刃にかぶせるように、僕は魔力を滑らせた。彼がつきだした腕に向かって、ぐるりと体を振り回す。
     だから、、こうやるんだって

フリックさんと、ビクトールさんが教えてくれたように、ぐるんと体を振り回す。バルバロッサ様と同じように、左手を基準にする。
すとん、とあっけなく、刃が彼の腕にめり込んだ。がつん、と骨に当たる感触がある。息を吸い込んだ。そしてまた、ぐるりと体を回転させた。

ごとんっ、ごとん、ごとん。
ネクロードの腕が、地面にバウンドするように落っこちて、ころころと転がる。初めに彼の手首から先を落としてしまったときとは違い、ネクロードの腕からはぼとぼとと血がこぼれている。僕は唇を噛んだ。ただ、彼を睨んだ。今は何も考えているべきじゃないと知っていた。

ネクロードは、滴る自分の血を見つめて、パチリと一度瞬きをした。そして、くすりと笑った。落とされた腕を拾い上げ、ぐいぐいと傷口にくっつける。けれどもすぐにぽろりと落ちてしまった。「おや、難しいですね」と焦る訳でもなく、ぼとぼと血が溢れる自身の腕の切断面を顔まで上げて見つめている。


「魔力を刃にコーティングすることで、あの星辰剣と同等の力を手に入れた訳ですか……まったく、面白くもない」

できることなら、じっくりと時間をかけて相手して差し上げたいのですがね、とネクロードは妙に人間臭く、赤い瞳を細めながらため息をついた。「どうにもタイミングが悪くて、つまらないですねぇ」

何を言っているんだろう。やっとこさ、自分の腕をひっつけ終わったらしいネクロードは、ううん、と唸りながら指先を動かした。あまりうまく動かないらしく、ぎくしゃくとした手の動きだ。「タイミング……?」 何を言っているんだよ、とネクロードを睨むと、彼は口の端をくいっと上げて、顎を動かした。「ほら、そろそろやってきますよ」


そのとき、僕は気づいた。
なんで今まで気づかなかったんだろう。勢い良く背後を振り向く。崩れ落ちた扉から、足音が響く。(気配だ) 紋章の気配だ。

さん!」

僕は声を上げた。それと同時にやってきたのは、ビクトールさんだ。「ビクトールさんも!」 僕は勢い良く飛び跳ねて、彼らにぶつかるように駆けた。「あれ、あれれ? くん? なんでぇ??」 熊さんの背中から、さんのお姉さんのナナミさんが顔を出す。ナナミさん、と僕は場違いにも喜んで声を上げた後、思わずフリックさんの姿を探した。けれども残る三人は知らない人で、僕はびくびくと、即座にビクトールさんの背中に隠れた。

ビクトールさんは「なんでお前がここにいるのか、色々不思議に思うことがあるんだけどよ」と言いながら、カチャリと剣を構える。「今は、それどころじゃねーんだな!!」
構えられた剣は、いつものビクトールさんの剣とは違う。柄と刃の間に顔のようなものがくっついていて、なんだか言ってしまえば、趣味が悪い。思わず渋い顔をしてしまったら、剣がぎょろりとこっちを見た。気のせいかと思ったけれども、気のせいじゃない。確かに剣が動いたのだ。その上、なんだか妙な気配がする。「し、しんのもんしょう……?」

思わず、僕にしか聞こえないくらいの小さな声で呟いた。いかにもと言うように、剣はゆるく瞬きをして、ビクトールさんと同じように、ギリリとネクロードを睨む。
とにかく、彼らはネクロードと戦いに来たらしい。
情けない話だけれど、僕は今すぐに地面にお尻をつけてしまいそうなくらいに疲れていた。けれども、必死に地面を踏みしめて、彼らと同じく剣を構えた。





  

2012/03/06

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