竜とともに今を





彼らは“一滴の血”も流すことなく、グリンヒルを手に入れた。

すでにこれは、過去の出来事である。
がらりと崩れる崩壊を、ただ彼女はそれを目にした。小さな衝突は、少しずつ膨れ上がる。
内側から瓦解する箱庭に、叫びを上げた。


   ***


ー、ー、ー!!」
ごんごんごん、と部屋がノックされる音が聞こえる。僕はくあ、とあくびをしてごしごしと目をこすった。眠っていない。そろそろかな、と思って、窓の外を見つめていた。ぐいい、ぐいい、と相変わらず静かに寝息を立てるさんをゆすって、「さんー、さんんー……ナナミさんが呼んでるよう……」 んむい、とさんは片目を開けて、口元のよだれを拭った。その間も、ゴンゴンゴン、とノックの音が続いている。気のせいか、さっきよりも小さくなっているのは夜ということを考えているのかもしれない。

「ななみぃ……?」 さんが寝ぼけ眼な声を出すと、雪崩れ込むようにナナミさんとピリカちゃんがやってきた。ぐいぐい、とさんを二人でひっぱりあげて、「へへ、変な音が、するの、変な音!」 うむうむうむ、とピリカちゃんも必死に頷いている。僕とさんは顔を見合わせた。

きゅっ、きゅっ、とさんはもう一度瞬きをして、「変な音って……」「おお、おばけかもしれないでしょ!」 ナナミさんの言葉に、ピリカちゃんがひゃっ、と飛び跳ねた。あんまり怖くない。昼間はそんな顔をしていたのに、やっぱり怖いらしい。僕とさんナナミさん達につれられてギシギシ、と廊下を歩いた。「お、おお、おばけなんている訳ないけどっ!」と自分の台詞を必死に否定するナナミさんに、しー、と僕は人差し指を立てた。ピリカちゃんもマネをして二人一緒にしー、である。ナナミさんは、うぐ、と口を閉ざした。

ぎしり。ぎし、ぎしり。
相変わらずあくびを繰り返すさんが、ピタリと腕を横に伸ばした。しっ、と静かに呟いた。「へっ、むぐ」 出てしまった声を、ナナミさんは両手で押さえこんだ。
誰かが、静かに暗闇の中を駆け抜けた。
僕たちはしばらくの間無言だった。誰かいた。そう静かに声をつぶやこうとした。「     お、おばけ……」 けれどもその前に、ナナミさんの反応の方が早かった。

「い、いやナナミさん、おばけって」
「どど、どうしよう。どうしようくん、散歩するおばけだよ!」
「いやいや」
、お願い、確認してきて、おねがいー!」
「えー」

困ったなあ、と言う風にさんは金の輪っかをひっかいた。あんまり騒いで、周りの人を起こしてしまってもいけない。ルックさんは、一人黙々おねんね中だし。
さんはきょろりと辺りを見回した後、「しょうがないなあ」 と顔を上げた。やった、とナナミさんは顔をあげて、ばいばい、とピリカちゃんと一緒にさんを見送る、のは一瞬で、不安気にピリカちゃんと見つめ合った後、「やっぱり私も行く!」とピリカちゃんの手をぎゅっと握って階段を駆け下りた。さんがいなくなってしまうことも怖かったらしい。

くんもおいでよ」とナナミさんが階段下から手のひらを振った。僕はちょっと考えた後、「ううん」と首を振った。「眠いし、もし起きたとき、誰もいなかったら、ルックさん、ビックリしちゃうし」 そっか、と言うようにナナミさんは上げた手をぎゅっと握った。ぱたぱた、と三人の影が消えていく。嘘だ。

ルックさんは、多分起きている。めんどくさいから寝たふりを続けているだけだ。起きてビックリすることなんてないし、いなくても特に気にするような人じゃない。てくてく、と窓から静かに漏れる月の光を見つめた。ため息をついた。

コンコン、と部屋の扉をノックする



   ***


父親は病で死んだ。
この街を、ワイズメルの家を、お前に任せる。そう私の手のひらを握り締めながら、静かに彼は瞳を閉じた。
アレク・ワイズメルの、のちの後継者として街を守る。そう胸に誓いながらも、長い間、市長の座にとどまることを拒んだ。
自身はあくまでも代理である。父の代わりを勤めあげることはできない。そう気づいていた。いいえ、テレーズ様、と首を振る声が聞こえる。あなたは十分、この街に尽くしています。焼けた肌の付き人は、そう呟きながら、じっと視線を下ろした。

そうかもしれない。

     できる限りの力を尽くしてきた。自身の精一杯を、私自身が認めた。ほんの少しだけ、そう思ってしまった。

よくもそんなことを思えたものだ。
ごろり、と穴の中に入った。
ひどく情けなく、真っ暗な、光も入らないような。
誰の声も、聞きたくはなかった。耳にしたくもなかった。


   ***



「はい?」
かちゃりと開かれた扉は、とても無防備だった。ニナさんは、僕の頭よりも高い場所に視線を向けて、そのあと不思議気に首を傾げた。視線を下げて、僕の顔を見ると、「くん?」と訝しげな声を出す。
僕は彼女の声を無視して、言葉を出した。「ニナさん、僕、ちょっとお話したいんだ」「ちょっと。今何時だと思ってるの? さっさと部屋に帰ってちょうだい」 む、と眉を寄せるニナさんに苦笑した。「廊下じゃちょっと、よくないんだ」 すぐ済むよ。と彼女を見上げると、ニナさんは緑のヘアバンドを直して短いため息をついた。さっさと入れと言う意味だろう。ありがとう、と僕はドアをくぐった。

「ニナさん、今までずっと起きてたの?」 違うわよ、とニナさんは答えようとした、のだと思う。けれども、彼女は寝間着を着ていない。どう考えたって嘘だった。「夜更かし。寮長に言わないでよ。怒られるし。まあ、くんも同じなんだから言わないか」 そう言ってくすっと笑う。「ニナさん」 僕は訊いた。

「テレーズさんは、どこにいるの?」

長い間があった。僕はじっとニナさんを見上げた。ニナさんはきょとりと瞳をまたたいて、しばらくすると、カッと顔を赤くした。「知らないわよ。私が訊きたいくらいなのに」 なんでそんな変なこと訊くのよ、とニナさんは怒ったようなふりをした。「今ね、男の人が通ったよ。僕は知らないけど、ニナさんは知ってると思う。シンさんって言うんだよね」 暗闇の中に、一瞬だけ、背の高い男の人が見えた。ニナさんはパッと顔色を変えた。

「シンさんが、ニナさんに、頼みごとをしたんだよね。多分買い物とかかな。シンさんって、代理の市長のテレーズさんのお付きの人なんでしょ。そんな人が昼間にニナさんといたら目立っちゃうから、会うなら多分夜だと思ったんだ。会う以外にも、暗号とか、色んな方法があると思うけど、そんなに手のこんだことができる時間があったとは思わないし」

街が王国軍に占領されてから、テレーズさんはみんなの前から姿を消した。
きっと、そのまま街に残っていたら自身の身が危険であると判断したんだと思う。けれども彼女のシッソウからまだ長い時間が経っていないし、ただの学生であるニナさんが、そんなに凝ったことは出来なかったんじゃないだろうか。「散歩するおばけが出るって言ったのは、ニナさんだよね」 散歩するおばけに食べられちゃうんだから。あのときは、大して不思議には思わなかった。ただ、“何かを隠すにはツゴウがいい話だな”と思っただけだ。

もし“誰か”の姿を見ても、おばけであるという噂にごまかされる。その場所におばけが出るというニンシキがあったら、進んで近寄ろうとは思わない、かもしれない。

ただそこまで考えて、また別の側面が見えた。おばけなんて、実際にいる訳じゃないし、わざわざ噂を流すことで人からの注目を集めてしまう。その上、今日のナナミさんみたいに、自分から確認に行こうと思う人が出るかもしれない。
一応、王国軍に占領された今、夜中に出歩く人は少ないだろうけれど、メリットとデメリットを比べて見れば、圧倒的にデメリットが高い。
だったらなぜそんな噂が生まれたのか。
何か必ず理由があるはずだった。

「うわさはニナさんが流したものじゃない。勝手に流れちゃったんだ」

夜中にひっそりと出歩くシンさんを見て、何かがあると勝手に噂が流れ始めた。隠すことよりも、利用することを彼女たちは選んだ。最初はおばけじゃなかったかもしれない。強盗とか、不審者とか。そんな噂を、ただのちょっとしたお遊びみたいな噂に、きっと彼女は書き換えた。
冗談半分でも許されるような、可愛らしい話に変えてしまったのだ。
でも、誰がその噂を書き換えたのか。正直全然見当がつかなかった。

「僕、思ったんだ。おばけの噂があって、どんないいことがあるかなって。おばけが出るのは夜の学校なんだよね? 学校っていったら、先生とかいろんな人がいるし、それにここは宿舎と校舎が近いでしょ。夜だからって言って、校舎に絶対に誰もいないとは言い切れないんじゃないかな」

だから僕、受付のエミリアさんに確認してみたんだ、と顔を上げた。

「“さんぽするおばけ”が、本当にいるのかどうか気になって、夜の校舎に忍び込んじゃった生徒はいますかって」

エミリアさんは知っていた。「ニナさん、おばけは見つかった?」 ちょっとだけ、わざとらしい口調だったかもしれない。ニナさんはきゅっと口元を結んだ。
テレーズさんに、ニナさんは会いに行った。けれども、先生に見つかってしまった。そんなとき、おばけの噂を利用したのだ。理由があれば、きっと深くまで怪しまれることはない。うっかり人に出会ったときの言い訳としても、見事に噂は作用した。

「エミリアさんに確認したときは、もしかしたらって思った程度だったんだけどね。その後、ニナさん、僕とお店で出会ったでしょ? たくさん食料を買ってた。そのときはフリックさんに何か作るのかなって思ったんだけど、その割には缶詰とか、非常食とかが多かった。ニナさんは宿舎に住んでて、ご飯は食堂で出るのにおかしいよね。歯ブラシはいいとして、石鹸だって寮のお風呂場についてるのに、なんだか変だなって」

そんなことはないのかもしれない。たまたま、お気に入りの石鹸があって、それを彼女は買っていたのかもしれないし、念のためと非常食を集めていたと言われればなるほどそうかと頷くしかない。けれども、つもり重なった疑問が首をもたげた。
だから僕は彼女の様子を観察した。僕の部屋の窓からは、この部屋の前の廊下がよく見える。
そして今日だ。確信した。


そこまで言い切った後に、ハッとした。自分の言いたいことだけ僕は言い続けていて、ひどいことをしていたような気がした。ニナさんは、強く唇を噛み締めて、僕を見つめた。「あ、ち、ち、違うんだ」 僕は首を振った。「悪いこと、したい訳じゃなくって。僕は、同盟軍で」「同盟軍?」 きゅっと眉をひねる。
言っていいことかどうか、ひどく困惑した。けれど確認がないのに、さんに伝えることも戸惑って、結局一人でここまで来てしまった。

「僕は、テレーズさんを助けるために来たんだ。グリンヒルが王国軍に占拠されちゃって、テレーズさんの身が危ないからって」

ニナさんは、パッと喜んだように感じた。けれどもすぐに顔を引き締めて、「それって、テレーズさんがいたら都合がいいからでしょ?」
何を言われているかわからない。「テレーズさんがいたら、グリンヒルの住人が味方につくからとか、都合がいいから利用しようとしてるんでしょ」「違うよ!」 そうかもしれない。僕はシュウさんの考えはわからないし、あの人ならそんなことを考えてたっておかしくない。

ニナさんはちょっとだけ気圧されたように唇を曲げた。けれどもぷいっ、と顔を逸らして、「だいたい、くんが同盟軍とか、ウソっぽいし」「そ、そこは信じてよ。証拠なんてないけど、嘘はついてない。ほんとだよ」 予想外のアタックである。

とにかく、と僕は拳を握りしめた。
「利用とか、そういうのは、わかんない。でも、ぼく」 言葉に詰まった。「テレーズさんは、いい人なんだと思う」 ニナさんは首を傾げた。会ったこともない僕がこんなことを言うのは変だと思ったんだろう。
「僕、ニナさんは悪い人じゃないと思う。勢いが強すぎて、ちょっと困ることも多いけど、でも、悪い子じゃないよ。ニナさんは、好きな人には一直線で、フリックさんにもそうで、僕はフリックさんが好きで、それで、そんなニナさんが好きなテレーズさんも、きっと悪い人じゃなくって」 何を言いたいのか、まったくよくわからない。とにかく混乱した。思った言葉をどんどん並べると、シリメツレツで、全然綺麗に伝わらない。きゅっと瞳を瞑った。喉から出る言葉が、変な風に詰まってしまって、一瞬息を止めた。吐き出した。

「そんな人が、危ないっていうんなら、僕、すごくイヤでたまらない」

このままだと、テレーズさんは危ない。彼女はまだこの街の中にいる。いつまでも逃げ切れる訳がないし、きっと散歩するおばけの噂は、少しずつ大きくなる。遅かれ早かれ、テレーズさんは表に引きずり出される。多分そのことはニナさんだってわかってる。


ニナさんは、長い間口をつぐんでいた。鼻から息を吸い込んで、さっきの僕みたいに吐き出した。「私だって」と一言だけ呟いた後、ゆっくりと首を振った。「知らない。テレーズさんの場所なんて知らない」「ニナさん」「知らないったら!」 大きくなってしまった声を、慌ててニナさんは抑え込んだ。
「テレーズさんは、傷ついてるの」 少しだけ、予想外な返答だった。

くんは、どうやってグリンヒルが王国軍に負けたか知ってる?」
「え、いや……」

知らない。そういえば、誰からも聞いていない。聞いていないと言うよりも、みんな必死に口をつぐんでいる。そんな様子だった。「王国軍は、ミューズの兵の捕虜達を解放して、グリンヒルに渡したの」 全然話の脈絡が見えない。「グリンヒルが王国軍に勝てる訳がないってみんな思ってたから、ちょっとの戦力でも欲しかった。だから、最初はみんなものすごく喜んだの。でも、王国軍はずっと攻めてこなかった。そうするうちに、人口が増えたグリンヒルは、どんどん食料がなくなって、そのうちみんな争うようになって」

自分から降伏したの。と彼女はぽつりと呟いた。僕はじっとニナさんを見つめた。
「ぜんぜん、争わずに負けちゃったの。テレーズさんは、ミューズの兵を受け入れたら、いつかはそうなっちゃうってわかってた。でも、無視できなかった。そのことにすごく苦しんで、今は一人逃げてしまったって、また苦しんで」

吐き出すみたいに、静かな、小さな声だった。ずる、とニナさんは鼻をすすりあげた。そうした後で首を振った。「私からは教えられない」 うん、と僕は頷いた。「だったら、伝えて。同盟軍が、テレーズさんを助けたいって。力を借りたいって言ってるって」 やっぱり、助けたいという気持ちだけじゃない。僕達にもプラスの部分があるようにと期待している。嘘はつけないし、きっとすぐにバレてしまう。

ニナさんはなんにも答えなかった。僕はただ、ゆっくりと息を吐き出した。
     運がよければ、さんも、テレーズさんに会っているのかもしれない

あのシンという男の人に追いつくことができれば、もしかすると。
僕はゆっくりと背中を向けて、部屋から出た。ニナさんはじっと床の上のカーペットを見つめて、僕を見てはいなかった。ひどく寂しいような気持ちになった。






     それからしばらくして、さんが、テレーズさんとの接触を果たしたことを知った。
彼女を助けたい、力を借りたいという僕達の提案は、残念ながら合意を示されることはなく、彼女はただ首を振り続けたらしい。
こうしてグリンヒルにいる意味はなくなり、僕達はこの街を後にすることを決めた。



  

2012/09/11

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