竜とともに今を





俺は、もう、一人でも大丈夫だから



そう声が聞こえた気がした。喧騒の中で、あんな小さな子どもの声が自身の耳に届いた訳がない。けれども、そうに違いないと心の底で納得をしている自分もいる。

「フリック、が!」
「ああ」

の言葉に頷いた。存外、そこまで憂慮する気持ちもない。「まあ、大丈夫だ」 本当にそうだろうか。あれはまだ子どもだ。年は10と聞いているのに、いつまでたっても背が伸びない。そのことに気がやんで、牛乳ばかりを口にして、へぶしとくしゃみをする。そんな少年を見て、なにをやってるんだとため息をついて俺は口をぬぐってやる。

剣を使えるようになった。自身の想像よりも、ずっと早く、は一人で立って進んでいた。けれどもやっぱりガキで、何もかも任せられるほどの大人であるわけがない。(なのに、なんでだろうな) もしかすると、これが彼との別れである可能性だってあるはずなのだ。

やはり自身は落ち着いていた。まあ、大丈夫だろう、と言葉の通り、心の底で笑っている。(『俺』、だってな) ほんの少し言葉が変わったせいなのだろうか。


友人を思い出した。
彼と同じ名前で、ひどく似ていた。けれどもそれは顔ばかりで、すぐに泣きだしてぐしぐしと鼻をすする少年とは似ても似つかない。そう思っていたはずなのに、妙に彼が、友人とかぶった。
不思議なことがあるものだ。

子どもは、すぐに成長する。
こっちが気づかないうちに、勝手に大きくなって手のひらを振って笑う。



   ***



荒い息を飲み込んだ。隣でニナさんがきゅっと拳を握っている。「私だって、ちょっとくらい、紋章は使えるんだから……っ!」 かすかな火の粉が彼女の腕に散った。僕は溢れる汗を拭って、ニナさんの腕を左手で握りしめた。「ここじゃダメだよ……っ!」 敵味方と混戦している場所で紋章を使ってはいけない。よっぽどの腕がある紋章師でないかぎり、自身も含めて怪我をするだけであると、グリンヒルでの道すがら、珍しく暇であったのか、ルックさんはそう言っていた。

ニナさんがどれくらいの使い手であるのか、僕は知らない。けれどもルックさんと同じような技量を持っていたのだとしたら、もっと早くに使っていたに決まっている。
わずかに覇王の紋章さんを光らせ、うならせると唐突に止まった紋章の波動に、彼女はパチクリと瞬いた。「ニナさん、逃げよう。とにかく動くことが出来る人みんなを連れて逃げるんだ」

こちらは捕虜にされていたミューズの兵がいるとはいえ、大半が戦えない街の市民や子どもたちばかりだ。武器も道具も、何もかもが唐突で、敵の侵入を抑えるための外壁も今じゃなんの意味もなさない。とっくの昔に王国軍はグリンヒルの街に食らいついて、その牙を深く深くうずめている。

ニナさんは悔し気に唸った。けれどもうんと頷いた。僕らが何かを言う前に、ミューズの兵が先頭に立ち、血路を作った。僕らの役目はテレーズさんを無事に逃す時間をかせぐ。そのひとつである。おそらくそのニンムはとっくの昔に完遂した。誰かが持ちだしたフライパンが、ガンガンと音を立てる。「逃げるぞ、逃げるぞ、逃げるぞー!」

こっちだこっち、はやくこい、と力の限りに音を出した。音を出す度にやってきた王国兵を、僕らは叩きのめした。動く度に汗が滲んで、ぼたぼた溢れる血に気づいて鞄の中から取り出した包帯をぐるぐる巻きにする。「守るって言ったのに」 全然ダメじゃない、と片腕で顔をぬぐうニナさんに、僕は包帯をかみきりながら鼻から息を吹き出す。

     逃げて、次につなげて、それから逆転だ」

僕らはずっとそうしてきた。
それに少なくとも、僕らはテレーズさんを逃がすことができた。ニナさんはきょとんとして笑った。
「グリンヒルの市門は堅固だ。外からも内からもな。だったら残るは正面突破のみ!」 剣を掲げたミューズの兵士に、幾人もの人間が頷く。けれども身じろいだ人もいた。「残るやつは残ってもいい。俺たちは外にいく。チャンスは今しかない。外に逃げて、王国軍のやつらをぶったおす!」

「僕はいく!」

立ち上がった。「僕は戻らなきゃだめなんだ。同盟軍に戻って、ただいまって言わなきゃだめだ!」 同盟軍、とみんながざわついた。「同盟軍だ」 呟いた言葉が重なる。「同盟軍だ!」 ニナさんが、ぎゅっと僕の服を握った。「そこに、フリックさんたちもいるのよね?」 うん、と僕は頷いた。「だったら私も行くわ! 女は度胸よ、テレーズさんとフリックさんの元に、行って、お手伝いしてやるんだからー!」

これはもう運命なのよ! と叫ぶニナさんを見て、どこにそんな元気があるんだろう、と僕はぐさりと剣を地面について、呆れながら見上げた。「まあ、いいんじゃないかな。恋するオンナノコって感じで可愛くて」 僕、ニナさんのそういうとこ、案外好きになってきたかもしんないよ、と見上げて口元を緩めると、ニナさんはぐいっと僕のほっぺをひっぱった

くんって、将来タラシか何かになっちゃいそう」

私としたらちっちゃすぎて範囲外だけど、と両手でぶぼべっ、と押さえつけられた。「傷だらけー」 ついでにべちっとおでこを叩かれた。

「もっとスマートに、フリックさんを見習うべきね」
「……だから何度も言うけど、僕の方がフリックさんのこと知ってるから」
「何よ! 愛の力で私の方が色んなことお見通しなんだから!」

なにおー! とお互いゴツゴツ額を当て合って睨み合うと、「お前らいい加減にな」と二人一緒に思いっきりなげんこつを食らった。僕らは頭を押さえながら市門に向かった。集まる王国兵たちを蹴散らして、こちらも人を欠けさせながら僕らは進んだ。

内に残る人も多くあった。グリンヒルの街に残り続けようと声をあげる人、テレーズさんについていこうと主張する人、彼女を待つべきだということと、装備の準備不足を指摘する人。今しかない機を逃すべきではないと叫ぶ人。
それぞれが正しいことを言っている。とにかく逃げ出したいと泣く人もいた。意見をまとめるリーダーすらもいない。状況は混乱を極めていた。(言わなきゃよかったかもしれない) 僕は行く、と叫んだ。同盟軍の言葉を出した。けれどもあのときの言葉が、また混乱を深めたような気がした。

ニナさんの隣に立っていた男の人が、ぽんと僕の頭を撫でた。「お前は可能性の一つを出しただけだろ。行くやつは行く。行かないやつは行かない」 俺はいかない。テレーズ様を待つ。そう笑った彼の言葉を思い出して、剣を握った。


結局、グリンヒルから飛び出した人たちは最初から比べると半分にも満たない。僕はモンスターと紋章の気配を追った。装備と食料の不足は想像以上だった。随分前にミューズを飛び出したときと同じだし、僕自身はそれほどまでに不安には思っていなかったのだけれど、大人たちは違う。森の中には、そこら中に王国兵が集まっていた。

     斥候を出そう。

大勢で集まっているだけではらちがあかない。おそらく、誰もがそう思っただろう。僕は即座に挙手した。セッコウの意味は知っている。一番最初に様子見をしてくる、一番危ない役をする人だ。子どもがするだなんてダメに決まっている、と大人たちは僕の意見を却下した。当たり前だ。彼らは覇王の紋章さんを知らない。
とにかくと説明を繰り返しても、結局ミューズの兵2人が選ばれることになった。彼らはいくら待っても帰っては来なかった。


(時間との勝負だ)

消耗するばかりのこちらと違い、あっちは補充がきく。体力と食料、ついでに気力が尽きる前に、森を抜け出し、どこかの街に逃げ込まなければいけない。
(難しいな)

逃げろ、と覇王の紋章さんが叫んでいる。お前一人で逃げ出せ。
僕は勢い良く左手を叩いた。ニナさんがきょとんとして、土で汚れた顔をこっちに向ける。「なんでもないよ」 左手を思いっきりに握りしめた。

     たしかに、僕一人なら切り抜けられる。

覇王の紋章さんを使えるし、一人分かそこらの食料ならなんとかなる。道具は全部、鞄の中に詰めてある。(でも駄目だ) 「だめじゃない、嫌だ」 小さな声で呟いた。紋章さんは何も言わなかった。

ふと、気配を察知した。
逃げて、と叫びそうになった口元を押さえる。これは違う。ふうふうと息をついて、魔力を振り絞る。間違いない。「……くん?」「ニナさん、待ってて」 ここにいて! と僕は叫んだ。念の為にと剣を持つ。ざくざくと枝を切って、道を進む。(らちがあかない) 生い茂る樹林はこっちを邪魔ばかりして進ませてくれない。

よし、と剣を腰につけて、幹をのぼった。えいやと適当に太い枝に足をかける。斜めにかけていた鞄を片手でとって、隣の枝に向かって投げた。ひっかけた紐を重心にジャンプして、木々を渡る。ひっ、と時々口からひきつれた悲鳴がもれた。いける、大丈夫、いける。あそこだ!

「待て!」

勢い良く、僕は木の枝からずり落ちるように飛び降りた。そのままごろりと転がって、僕は彼らを見上げた。「ひゃあ!」と彼はびっくりして後ずさりながら叫んだ。僕はまた瞬いた。「なんでいるの?」 気づいた気配とは別のもう一人に瞼を見開いて、とにかくと首を振る。「グリンヒルから逃げた人たちが、すぐそこにいます。合流できますか。シンさん、フィッチャーさん!」

フィッチャーさんは相変わらずの無精髭で、ぼろぼろに怪我をしたシンさんを支えていた。それから僕を見下ろしながら何度も口元をひくつかせた。唐突に彼は吹き出した。げらげらと笑った。彼の肩にもたれかかっていたシンさんはぴくりと瞼を痙攣させて僕を見た。何度も怪訝な顔をこっちに覗かせてハハ、と僕は苦笑しながら彼にくっついた紋章を見た。

何匹もの小さな蜘蛛が、かしかしと彼の腕を動いて、足を震わせたと思えば自分の主人と同じくへたり込んだ。
「まさか、くんがいるとは、ちょっとびっくりですねえ」 さすがのフィッチャーさんもどこか疲れ果てた声で、けれどもどこか面白げに笑っていた。


   ***


     なんで私達がいるとわかったんですか?」

そんなフィッチャーさんの問いかけに、えっ、と僕は口元をごにょつかせた。シンさんの紋章の名前は分からない。もしかしたら、蜘蛛に関係するものかもしれないけれども、僕が知っている紋章の中には、そんな名前のものはない。
とにかく、ひどく珍しいものなのだろう。その人固有の紋章というやつだ。その気配を追ってきた、なんていうことなんてさすがに言うことができなくって、「まあ、その、トイレをしようと思って離れたら、音が聞こえて」 念の為にって確認してみたら2人がいたんだよ、なんて説得力があるのかないのかわからない僕の言葉に、ふむふむ、とフィッチャーさんはヒゲだらけの顎をひっかいた。納得してくれたんだろうか。


なぜテレーズさん達と逃げたはずのシンさんがフィッチャーさんといたのか。口数が少ない彼の代わりに、フィッチャーさんが説明してくれた。つまりは、彼はテレーズさんを逃がすための時間稼ぎとして、一人森の中で戦ったのだ。その姿を、実はこっそりとあとをつけていたフィッチャーさんが発見し、怪我をして力尽きたシンさんを回収した。

「グリンヒルには、抜け道が多いですからねえ」
このフィッチャーにお任せ下さい、とにやつくおじさんは、さすが怪しいくせに仕事だけはできると噂されるだけの男である。


シンさんの怪我は、念のためと使わないでおいた僕のおくすりが活用された。深い傷口の、ほんの外側を治すことしかできないのだけれど、と謝ると、シンさんは大きな手で僕の頭をなでくりまわした。なんだかちょっとびっくりした。

とにかく、フィッチャーさんと合流したことで、僕らには可能性が芽生えた。彼が言う“抜け道”を目指して、僕らは行進した。怪我をしているとはいえ、シンさんという心強い味方も増えたことで、みんなの気持ちにもひどく余裕ができた。夜に森を進むことはキケンだったし、体力も底をついていた。僕は安心して眠った。ぱちぱちと弾ける火の粉を見て、とろとろと瞼を落とした。






夢を見た。紋章さんがじっと僕を見ていた。ただくるくると丸い球体の中に入っているくせに、一体どこに目があると言うんだろう。でも、彼と僕はじっとお互い見つめていた。
気がつくと、紋章さんは大きな竜に変わっていた。

なぜ逃げない

唸るような声で紋章さんは言った。「紋章さんから?」 たしかに、口が大きすぎてちょっと怖いね、と笑う。ちがう、と彼は喉を響かせた。なぜ一人で逃げなかった。

「変な人だな」

僕は困って頭をひっかいた。そもそも人じゃないか、と金ピカの竜を見上げる。「自分一人だけ助かっても、しょうがないでしょ」 そう言って笑ったあとに、はたと気づいた。僕はもう何度も逃げた。自分一人だけが助かるかるために逃げた。「なんでだろうね」
なんでだろう、と呟いた。

一体、何が変わったんだろうね。



   ***



目を開けた先で、フィッチャーさんが一人火の晩をしていた。彼はたれた瞳できょとんと僕を見て、「やあ、くん」 僕はそそくさと距離を置いた。「あれ、なんで逃げるんです? なんでなんですかね?」「体は正直ってやつだね」「どこで覚えましたそんな言葉」「酒場のお客さん」

いつか大人になったときに女の子に言いなって、とぼんやり懐かしの酒場を思い出すと、げほげほと咳を繰り返しながら「とりあえず子どもが使っていい言葉ではないのでやめておきましょうね」とフィッチャーさんに言われたので、うんと頷いた。僕まだ大人じゃないし。

くん、まだ暫く寝ててもいいんですよ」

みんながみんな、ぐるりと円を組むように小さくなってかまっていた。毛布なんてないものだから、すりあうにみたいに抱きしめ合って眠っている人も多い。
ざくざくと足音が聞こえる。顔をあげると何人かの男の人達が、剣を腰で揺らしながら森の中からやってきた。「異常なしだ」「お疲れ様です」 僕がすっかりと寝こけている間に、彼らはずっと体を張ってくれていた。僕は少しだけ恥ずかしくなって、ごめんなさい、とフィッチャーさんに謝った。フィッチャーさんがきょときょとと首をかしげて、「何言ってるんです?」

「フィッチャーさん達に任せっきりだったから」
「ああ。いいんですよ。大人の仕事ってやつです」

適材適所です。とぱきりと枝を折って、焚き火の中に枝を投げ込んだフィッチャーさんに、「でも僕、剣を使える」 大人の仕事だってできる、という意味のつもりだった。けれども、そんな言葉を言うこと自体がどこかちびっこくて、情けない。でもフィッチャーさんは頷いた。「そうでした。私はそっちの方は全然ですから、くんには負けてばかりです」「大人のヨユーだ」「なんですかそれ」

くんは、ときどき不思議なことを言いますね、と彼は口元を笑わせた。いつもどこかへらついている顔をしているくせに、今だけは違った。本当に面白くて笑ったというような顔をした。「実はですね、くんに会って、少々自信をなくしてきました」

ふうん、と僕は顔を上げた。「どのもそうです。ナナミさんに、ルックさん。みんながみんな、ただの子どもと思ってみれば、こっちがビックリするほどしっかりしていて、まっすぐに前を見ていてですね。自分は人を見る目だけはある方だと思っていたんです。けれども私はまったくわかっていなかった」

軍主と名乗るどのを冗談半分で笑い飛ばしてしまいましたし、と随分懐かしい話題を呟かれて、僕は口をぽかんとさせた。「色々と、大人として恥ずかしくなる所存なのですよ」
静かな寝息が聞こえた。
僕はほんの少し息を吸い込んだ。「フィッチャーさんでも、そういうこと、思うんだね」 意外だなあ、とちょっと大きな声を出すと、何がですか、とフィッチャーさんは困ったような顔をした。僕は少しだけ嬉しくなって、焚き火に手のひらを向けた。「僕ら、仲間だ」

お悩み仲間、ときゅっと小さく座りながら吹き出すように呟いたら、フィッチャーさんはびっくりしたように僕を見た。それから少しだけ視線を逸らして、こっちに片手を出した。その言葉の意味を僕は暫く考えて、こっちも手のひらを出した。握った手のひらは、フリックさんみたいに大きくないし、硬くない。
「そろそろ寝てください。私も交代します」
「うん」

寝るよ、と立ち上がった。瞳をつむると、あっという間に僕は眠った。今度は夢は見なかった。バルバロッサ様の夢も、ルカの夢も見なかった。ただどっぷりと、暗闇につかった。





二日目となって、野宿でとれない疲れを抱えながらザクザクと歩を進めた。道がわかるフィッチャーさんを先頭にして、こっちだあっちだという彼の言葉に従い、剣で草を断ち切った。僕は一人紋章の気配を探った。ありがたいことにも、フィッチャーさんはグリンヒルでの行き道から僕のことを知っていたので、モンスターの気配という曖昧な説明を彼は信じてくれた。

運がいいことにも、モンスター、そして王国兵の一人とも遭遇することなく、数時間が経過した。あと少し。そのときだった。ぞわりと僕は胸を押さえた。「フィッチャーさん」 彼の服を掴む。彼にしか聞こえないように囁いた。「囲まれる」

パッとフィッチャーさんは僕を見た。昨日の今日だというのに、すっくと歩いてフィッチャーさんの隣を固めていたシンさんにも聞こえたらしい。「まだ少しの間は大丈夫。でも多分、時間の問題だと思う」 着々と、彼らは僕達の周りを覆っていた。参りましたね、とフィッチャーさんが額に手を当てた。

「モンスターではないと」
「うん。王国兵かどうかはわからないけれど、五行の紋章なことは間違いない」

僕は少しだけ迷ったあとにそう付け足した。紋章の気配がわかることを、彼にはまだ伝えていない。フィッチャーさんは僕に何かを言おうとして口をつぐんだ。「もう少しはいけると踏んでいたのですが……」 これだけたくさんの人が歩いているのだ。戦闘のプロは一握りで、それ以外普通の人達ばかりだ。歩いた痕跡を消そうにも、限度というものがある。

くん、抜け道はありますか」
僕は唸った。「多分、難しいと思う。あるとしても、紋章をつけてなかったら僕にはわからないんだ」 気配がないからと言って、誰もいないという訳ではないだろう。シンさんが武器を握った。タランチュラと彼はそれを呼んでいた。「私が」「だめだよ、シンさんは怪我してるじゃない」

今彼が動いていることの方が不思議なのだ。だいたいシンさんが一人特攻をして、なんとかなる人数であったのならまだマシだった。
僕達の不穏な空気を後ろの人たちに気づかせる訳にはいかない。パニックになれば、そっちの方が厄介だ。けれどもこのままという訳にもいかない。
(どうしたら)

口元に手を当てて考えた。でもダメだった。瞳をつむって息を吐き出した。(僕一人なら) 逃げられる。紋章で気配を消して、どうにか逃げ切れる。(けど駄目だ)
考えなきゃ、と息を吐き出した。このままじゃ全員、王国軍に捕まってしまう。(……捕まってから逃げる?) それもだめだ。王国兵の規模が僕には分からない。もし捕まったとして、全員が同じ場所に捕らえられるかどうかもわからない。逃げ出すときに、誰かを置き去りにしてしまう。今しかないのだ。万全の策があるとすれば今だけだ。

紋章さんがちりちりと唸る。「紋章さん、今は話しかけないで……!」 僕の言葉に、フィッチャーさんが振り向いた。「あ、いや、なんでもない。ひとりごと」 手のひらを振って、左手を押さえた。けれども紋章さんが、なにかを言っていた。

白昼夢だ。


目の前に、真っ白な空間が広がった。あの、傭兵の砦が燃えてしまったときと似ている。お兄さんが、僕を見て逃げても構わないと笑っていたときと似ている。




竜がいた。
黄金の竜が、ゆっくりと羽を広げていた。

     一度きり であるのなら

紋章さんの声だ。

     力を 貸して やってもいい


それも一興、とおそらくは彼は笑っていた。

なにが? と僕が首をかしげる前に、ニナさんが僕の肩を掴んだ。僕はハッと眼前を見つめて唐突に吹き出した汗に震えて、左手を握りしめた。「くん、どうしたの? 大丈夫? もしかして疲れちゃった?」 誰かにおんぶしてもらったら? と冗談半分に言われた言葉に僕はぶるぶると首を振った。ニナさんがまた怪訝な顔をした。
「だ、だいじょうぶ」 どくどく、と心臓が鳴っている。「でも僕、ちょっとトイレに行きたいかな」 くん! と僕を呼ぶ声を無視して、僕は道をそれた。どくん、どくん、と左手が脈を打つ。

(なんで?)

僕ときみは、本当は敵同士なんだ。
「僕はきみの思い通りになんてならない」

一人っきりになんてならないし、寂しくなんてならない。そんな言葉のつもりで、胸を押さえながらしゃがみこんだ。かさかさと葉っぱがこすれる音がする。僕の左手が言葉を話す。



   我は王 である

   民を 導く 王である

   王は 逃げぬ

   しかし 我は 覇王 である

   覇王とは 拒絶 することである 

   覇王とは 孤独の 道 である




しかし一度きりであるのなら。

「興に乗って、貴様の魔力を食ろうてやろう」


重く重く、声が響いた。僕はびくりと顔を上げた。竜がいた。
嘘ものじゃない。本当の竜だ。夢と同じく、大きな体をのそりとして、金ぴかの鱗を一つ一つ光らせて、ゆったりと羽を動かした。唐突に、僕は吐き出した。ぼたぼたと嫌な汗がこぼれてそれでもげろげろと嘔吐を続けた。

竜は低く唸った。
いつもよりも、ずっとわかりやすく声が響く。まるで彼がしゃべっているのかと錯覚するくらいに頭の中に響く。
お前のチンケな魔力で、一体どれほどまでに我を具現できるか。さて見もの。
まるでこっちを挑発するみたいな言い方に、僕は少々腹が立った。口元を拭った。「いつまでも!」 

「必要だってんなら、魔力でもなんでもひねり出してやる……!」

応よ! と彼は笑った。さあ、民を連れてこい。我の背中に乗るがよい。好きなだけ、貴様と空を駆けてやろう! どこえなりとて連れてゆこう!

剣を思いっきりに地面に付きたてた。僕は包帯だらけのボロボロの格好のまま彼と向かい合って、鼻から息を吸い込んだ。
黄金の竜と向かい合った。


  

2012/11/24

フィッチャーさんのナナミとルックの呼び方がナナミどのだったかナナミさんだったか思い出せず……。

Material by Helium : design by I/O :: Back to top ▲