はる、きたる






くーん、これも頼むねー!」
「はいはいおまかせー!」

かちゃん、と勢い良く水場に突っ込まれた皿にうなずき、泡だらけの手をばたばた振った。「おっと」 出した左手を慌てて隠そうとしたものの、今じゃなんの問題もない。中途半端な位置で止めた片手を見つめて、給仕役と目をあわせて苦笑した。「なんかあった?」「いや、特に」 腰に巻いたエプロンで片手を拭って、はいはいお仕事、と誰に話しかけるわけでもなく頷いた。


太陽暦450年代。
それはかのトラン共和国、故、赤月帝国には動乱の年であり、あまたの争いが繰り広げられ、一人の英雄が生まれた     と、いうのは懐かしい言葉だ。


ここは過去の世界だ。そう気がついたとき、正直少し意識が遠くなるかと思った。フリックさんやビクトールさん、ついでにくん達が力を合わせた争いは、まだ始まっていない。いや、溢れる火種はまだ小さく、水面下に、ちらちらと揺れているのだと店の客から言葉を聞いた。長く息を吐き出した。またやってきたのだ。

僕は、とうとうこの世界に来てしまった。




   ***




「おいこらこのやろう、客の命令がきけないだと」
踊り子なんだったら、言うとおりに踊りやがれ、とあぶくを飛ばす客を相手に、ぽんとかざりの花を頭につけた金髪の少女が、「なによ」とピシリと細い指をむけた。「こっちはプロなんですからね。そりゃあお客さまのご注文通りにいくらでも踊ってあげるけど、暴力で訴えようとするハゲ頭は客として数えることにはしてないの」「なんだと!」

幽霊の用心棒なんて、俺は信じねえぞ! と頭までカッカと真っ赤にして、ぶんと拳を振るおうとする男に対して、「きゃっ」と彼女は悲鳴を上げて縮こまった。それから閉じた瞳を恐る恐ると開いて、「あらら?」 空色の瞳を瞬いた。

くん、その人は?」
「お酒を飲み過ぎちゃったんじゃないかな」

くるんと白目を向けて上を向く男の顔を片手でかくして、よっこらせ、と持ち上げる。

くん、力持ちねえ」
「どういたしまして。とりあえず、ほっぽり出してくる」
「あらありがと。それにしても、その人用心棒がどうとか言ってなかった?」
「酔ってたんでしょう」

なるほど、とぱちんと両手を叩くミーナさんに笑って、どっこいせ、と米俵のように持ち上げた。ドアを開けて、暗い夜の帳の空気を吸い込むと同時に、酒臭い息までぷんと漂う。げほ、と咳き込んだ。「いっとくけど、俺、ただの皿洗いだからね」 意識がないとわかりつつも、ため息をついて語りかける。踊り子に手を出す男が多いものだから、みぞおちに一発くれてやるうちに、気づいたら妙な噂が漂っていた。あそこはミーナが好きすぎて死んでしまった幽霊が、今も彼女の周りを守っている。ミーナに手を出せば、呪い殺されて死んでしまう。

「殺したことはありませんて……」
冗談のようにつぶやいて、過去に潰した男を思い出した。「うぷ」 また酒の匂いに酔った。腰元のエプロンが、はたはた風に揺れている。あの人達は、どうしているだろう。



フリックさんは、まだこの国にいるはずだ。
解放戦争と呼ばれる争いが激しく炎を吹き出すには、まだしばらくの時間がある。どっこいせ、と親父をベンチの上に寝そべらせて、気道の確保を行った。おまけとばかりにぺちんとハゲの頭を叩く。いい音がした。「俺は……」 どうしたらいんだろう、と呟いた声に、親父の寝息が重なった。とりあえず、鼻をつまんでおいた。ふごふご、とひっかかった音をきいて、うーん、とエプロンをつけなおす。


とにかく、金が必要だと感じた。ここは過去であるとしても、まさか子どもの頃のように、どこかの野菜を盗んで生き延びるわけにはいかない。ありがたいことにも、あれから俺はずっと成長して、適当な店で働かせてもらえる程度の見かけにはなっていた。ちょっかいをかけてきたチンピラをとりあえず締めあげて、迷惑料として剣を拝借して、懐かしい触り心地にぞっとした。俺はこれで、人を切ったことがある。大人用の剣を無理やり持って、わけもわからず、がむしゃらに進んでいた。「どうした……ものかな……」

バルバロッサ様が、生きている。

左手がそう告げている。今はこの左手には何もない。けれども、彼とつながっていた。
死んでいるはずの男が、殺されるために生きている。彼はくんに殺され、圧政を強いた王は、世界から消え失せる。彼は死ぬべきである。そう俺は考えていた。誰かに殺されるべきだ。そう、彼自身も考えていたことも知っている。(めんどうだな……) 正直、元の世界に戻ることに関しては、そう心配してはいない。一度目に戻ることができたのだから、きっと次もそうだ、とある程度楽観視もしていた。
けれども少し、考えることが多すぎる。

(本当に)
俺と、さんは、同じ人間なのだろうか。
「俺は……フリックさん達に、会ってもいいのかな……」

ベンチの端に座って呟いた言葉に返事をするように、ぐごお、と親父の寝息が響いた。おっさん、ちょっと静かに、と開いた膝の上に肘をのせて頭を落として、「はー」と長い溜息を一つ吐き出した。最終的な答えは決まっている。「会いたい、んだけどな……」 ありがとうと、お礼の言葉を言いたい。ただ、彼らからすれば、それはきっとなんの意味もないことだし、そもそも、本当にここは過去なのか。同じ世界にいるのかすらも実感がない。
「困りどころだね」

そろそろ、店に戻らなければいけない。左手にだけつけた、ピッタリしたサイズの茶色い手袋を右手でさすった。





  

2013/04/29


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