皿洗いの男


とりあえず、いつの間にやら俺は官庁の食事担当となっていた。
この間の食事をクレイズがいたく気に入ってくれたらしい。

まあ別に似合いもしない軍服を着て武器を片手に威嚇をするよりもいいだろう、と案外楽しく鍋の底をひっくり返していたのだが、ぐつぐつと煮立つスープを見つめて、随分危機管理が薄いことだ、と呆れ半分の笑みが落ちてしまう。

もし俺がこの中に毒のひとさじでも入れれば、どうなると思っているのだろう。身元も定かではない新人一人にすべてを任すのは、少し気が抜けすぎているんじゃないだろうか。まあだからこそマッシュが俺をこの街に送り込んだのだろうし、そんなことをしても解放軍の印象が悪くなるだけで、革命には不要な作戦だ。するわけがない。

それにしても、とスープの味を確かめながら、いくらか言葉を選んで頭の中で考えた。なんだかまぬけなやつらだなぁ。



   ***



育ち盛りの男たちが多いものだから、肉ばかりを求めたがる。けれども予算には限りがあるので、どうやってかさを増したらいいものか、と懐に詰め込んだ金の具合を考えて、ふらふらと荷車を押しながら考えていると、ちょうど店の手前に差し掛かったところで聞こえた声に瞳を細めた。「……おやめくださいませ」「そう言わずに、なあ。ちょっと酌をするだけじゃないか」

妙齢の腰元まで伸ばしたはちみつ色の髪をした女性だ。おしとやかな声を出しながらも瞳は剣呑に細めていて絡まれるように伸ばされた手をそっとかわし、困ったように笑っている。その顔つきを見て、何を勘違いしたのか男はさらに調子づいた様子で声を大きくさせながら、こちらに来いと彼女の腕を引っ張った。

頭が痛いことにも、男は俺と同じ軍服を身にまとっていて、女性の顔には覚えがある。この街を取り仕切るレパントの妻、アイリーンだ。噂ではレパントは二つのものを大事にしていて、一つは家宝でもある大事な刀と、自身の妻であるアイリーン。つまりは大層な愛妻家だ。その妻に手をだせば、どうなるかわかったものではない。コウアンは危ういバランスの上にある。さすがに見逃す訳にはいかない。

運がいいことにも、食事係と成り下がった俺は動きにくい軍服は脱ぎ捨てていて、見かけはただの町人だ。官庁の中ではクレイズの指示どおりに帽子を深くかぶっているから、顔を知られていることもないだろう。足音を消して、さっさか男の背後に回り込んだ。そうして背後から首に手刀を一発。くきゅりと口元から音を鳴らして、彼はそのまま座り込んだ。よし、と満足しながら瞳を大きくさせながらこちらを見つめる女性に苦笑いした。
子供の頃の自分なら、正面切って見つめ合うには照れてしまうほど綺麗な女性だ。グリンヒルで出会った自分は市長代行だと主張していたテレーズが、もう少し年を重ねればこうなるのだろうか。彼女も立派な女性だった。彼女も、アイリーンも、俺が手を出す必要はなかったのかもしれない。


「すみません、これはこちらで回収しますので」
「回収……ですか?」
「一応、俺もあそこの人間でして」

瓦だけがぴょっこりと見えている官庁にひょいと親指を向けると彼女は「まあ」と驚いたように口元に手をのせた。もしかすると、信じてはいないのかもしれない。格好が格好だものな、と楽を優先して荷物を運べるようにと近くには荷車まで置いてある。まあしかし丁度いい、と手元の荷物を放り込んだ。「ふがっ!」 聞こえた悲鳴は気にしない。


「同僚が大変申し訳ない。ご不快な思いをさせてしまったと思うのですが……その、できることなら、このことはご内密にしていただけませんか」

言葉を言い換えるなら、レパントには報告しないでほしい。彼女も俺の意図を理解したのだろう。ゆるりと瞳を和らげて、「そうですね。供もつけずに出歩いていた私にも非がありましょう」 普段は気をつけていたのに、今日はたまたま使用人が体調を崩してしまい、せっかくなのでとアイリーンがレパントへの手料理を振る舞う準備をしていたとのことだ。噂通りの仲のよさなのだろう。

話が早いようで助かる、とぺこりと頭を下げて消えようとしたとき、アイリーンは優しげな瞳のまま、「ご命令なさらないのですね」とただなんの気なしに、とでも言う風に呟いた。

「命令ですか」
「ええ。帝国軍のみなさまですもの。なんなりと。もしくはその右手についていらっしゃる紋章を使えばよろしいのに」

アイリーンも、思うところがあるのだろう。こちらをじっと探るような目つきに、少しだけたじろいでしまった。「いや、これはおくすりの紋章なんですが」 だから思わず妙な返答をしてしまった。

彼女が望んでいた返答は、こういったものではないことはわかってはいたが、慌てて答えてしまったのだ。それに訂正しないと、右手にいるおくすりくんが憤慨する。今はもう声は聞こえないけど、なんとなく。「おくすり?」 するとアイリーンはパチパチと瞬きを繰り返し、「……おくすり?」 もう一度確認して、ゆっくりとこちらをうかがう。そうして耐えきれないように、とても、とても上品に吹き出したので、赤面してしまった。






アイリーンに絡んでいた男はと言うと、準備よく持ってきていた荷車の上にきょろんと白目を向いて仰向けに転がっている。布を被せればカモフラージュも完璧だ。よいせ、よいせと運びながら、官庁付近に適当に捨て置くと、目覚めた彼はまるで狐にでもつままれたかのように、周囲をきょろつかせた。

「お、ここは……?」
「官庁前ですよ。ちょいと酒がすぎるのでは?」

そう肩をすくめて、深くかぶった帽子のツバをちょんとおさえる。見られてはいないと思うが念の為だ。やはり似合いはしないが、そろそろ着慣れてきた軍服に袖を通して、さぞ今見つけたと言わんばかりに木の根本にへたり込んでいる男を見下ろした。まあ、たまにいる酔っ払いだ。クレイズも街で大きな顔をする分には何も言わない。

「お前、食事係の……」
「そうです、今から買い出しに行きますけど。ご一緒します?」

赤ら顔のその男は、くらくらした顔をして、いいやと首を振る。「そうですか。それはそうと、なんでまたこんなところに?」 返答した答えによっては、少々荒いことも行わなければならないかもしれない。できることなら避けたい話だ、と瞳を細めると、「お前の言う通り、酒でも飲みすぎたか……なんだ。食事係ふぜいが、文句でもあるか」「そんな、まさか」 昼間っから、やることもなく平和なことだ、と言外に微笑んだ。それから改めて買い出しに荷車を運んだ。



それから数日後、街にはとんでもなく美しい、はちみつ色の美女がいる、という噂が官庁の中に出回った。女はワインレッドの淑女のような長いスカートをひらめかせていたそうだ。できることなら、一度スカートの中身を拝んでみたいものだ、とその男はなんとも下卑た酒くさい話を振りまくものだから、勘のいい人間にはピンとくる。綺麗な髪に、町人ではない裾の長い服の女性とくれば、レパントの奥方のアイリーンだ。

あのあと不思議に思った酒飲み男は、改めて街をねり歩きながら、ふとレパントの屋敷を覗き込んだ。すると夢で出会ったはずの女人が、窓の向こう側で上品にも微笑んでいるではないか。軍に入る前に、街の情報を集め倒した俺とは違い、彼にとっては初めて……ではないのだが、初めての会遇だった。絡んだことは覚えていずとも、美しい女のことは記憶の片隅に残している。酔っぱらいという人種を甘く見ていた。

そうしてこの話はクレイズの耳まで届き、「ほうほうそれほど美しいのか」とちょびひげを楽しげにいじくった。彼はただ美しい奥方をこの目で見たい。それだけの理由でアイリーンをさらって来るように命じた。さすがのこの命令には多くの軍人たちも眉をひそめた。上官の命令に背くわけにはいかない。けれども、なんの罪もない女一人をさらうには気がひける。押し付けあった結果、上官から下官に、どんどん下った先には、下働きのような食事係だ。つまりは俺だった。
と、いうことを俺の上官である男からある程度の推測しつつ、聞かされたのが今現在である。

「おいお前、だったな。お前はあの生意気なレパントの屋敷から、奥方を連れ去ってこい。そしてクレイズ様に献上するのだ」

さっさとしろ! とびしりと指をつきさしながら下された命を受けた際、俺は腰にはエプロンを巻いたまま、包丁で魚を刻んでいた。「今ちょっと、魚くさいので。少々お時間を頂いてもいいですか?」「少しだけならな」「それじゃあみなさんの夕餉でも作ってから」「だから、さっさとしろと言っただろ!」「手くらい洗わせてくださいよ」


適当に返答しながら、さてさて、と手のひらを布でふく。
困ったな、というところが本音だった。酔っぱらいとはこうも想定外に動くものなのか、と自身の見通しの甘さを恥じた。残念ながら、まだ酒には酔ったことはない。




  

2019/11/06

Material by Helium : design by I/O :: Back to top ▲