皿洗いの男







しくじったのは自分の責任だ。こちらまでお鉢が回ってきたのは、逆にありがたいことだった。仕方なし、と言った顔を作りながら、相変わらず深く軍服の帽子をかぶる。もしかすると魚くさいか、とすんすん両手をにおって、まあ大丈夫かな、とできるだけゆっくり歩を進める。さっさとしろ、と上官からの叱責が尻から飛んだ。ので、その一瞬だけ速歩きをして、やっぱりゆっくり進んでいく。

以前に確認した限りでは、もう少しばかり日が落ちれば、レパントが屋敷に戻るはず。そうなればこっちのものだ。さっさと殴って放り投げていただこう、と覚悟を決めながらレパント邸の扉を叩いた。「は、はい……?」 若い割にはちょっと腰が曲がった、自信がなさげな顔の男だ。アイリーンが言っていた、使用人というのは彼だろう。体調はすっかり回復したように見えるが、いかんせん表情が暗い。もともと気質だろうか。

彼は俺の服装を確認して、見るからにたらたらと冷や汗を流し始めた。今まで衝突を避け続けていた赤月軍が扉を叩いたのだ。しかもクレイズはこの街に来たばかり。軍政官が変わったことで、彼も注意を深めていたのだろう。「な、なにか、御用で……?」 彼はゆったりとした動きで、両手を広げるように動いた。中には通すまい、でも怖い。そんな葛藤がよく見える。

「レパント殿はご在宅でしょうか」

そう問いかけながら、嫌な予感がした。彼がいるのなら、とっくの昔に飛び出しているに決まっている。使用人の男は、口元をへの字にした。答えねばならない。けれども時間を伸ばしたい。何を話しているかまではわからないだろうが、ちらほらと周囲の視線も集まってくる。「ジョバンニ? どちら様かしら」

そして彼をかばうように、彼女はそっと通り抜けた。

「お、おくさま!」
「レパントは少し留守をしておりますの。何か御用がありましたら、申し伝えますわ」

力強い瞳だ。ははあ、と頭を引っ掻いて帽子を脱ぐ。あら、と彼女は瞬いた。

「あのときの」
、と言います」
「私はアイリーン。レパントの妻ですわ」
「存じております」

改めての自己紹介を終えると、ジョバンニと言われた使用人がおろおろとこちらとあちらに視線を移動させる。「それで、どういったご用件でして?」「申し訳ない」

「軍政官があなたをお呼びです。以前あなたに手を出そうとした男から、クレイズの耳に入った。俺の力不足です」

まあ、とアイリーンは相変わらず上品な様子で声を落として、「それならば仕方ありませんね。ジョバンニ、あなたはここへ残りなさい」と使用人に声をかける。そうした彼女に、待った待った、と片手を振った。「あなたには抵抗する権利がある。俺は赤月軍の人間ではありません。トラン軍、と言えばおわかりでしょうか。あちらから派遣されたスパイです」

クレイズ、と上官を名指しにしたあたりで彼女も理解していただろう。しっかりとした顔つきのまま、俺の言葉を待つ。代わりとばかりに、ジョバンニはタレ目がちな瞳を必死に大きくさせて、はわっ、と口をぽかんと広げていた。


「レパント殿がいらっしゃれば、殴られでもして逃げ帰るつもりでした。おそらく、これでコウアンと軍との衝突は避けられなくなる。ならばあなたが逃げたところで、何の問題もない。アイリーンさん、あなた一人くらい、どこへなりとて攫ってみせます」


脱いだ帽子をかぽんとかぶりなおして、彼女を見つめた。アイリーンは、細い指先を組ませながら「不要です」 ぴしりと背筋を伸ばした。「私はレパントの妻です。あなたの力を借りるまでもありません。攫われるのを待つのは、夫一人で十分です」 なるほどお強い。「失礼しました」 それでは失敬、と婦人の片手を頂いた。



***



「ジョバンニったら、新しい軍政官がきたと聞いて、どんな人間なのかと私達を心配して、それで体調を崩してしまったんですよ」

それで彼女が慣れない買い物をしていたといわけか、と彼らの経緯を聞きながら、俺達は官庁へとたどり着いた。「今頃気に病んでいないといいんですけど」と、ほう、とため息を一つついた婦人は、見事としか言いようがなかった。

クレイズの元へと向かう決心をした彼女は「ジョバンニ、すぐさまレパントにこのことを伝えなさい。たとえ家宝のキリンジが盗まれたとは言え、頭も冷えるでしょう」と優しげな顔をしながらもぴしりと言葉を落とした。それから怯えた女の顔を作りながらも、クレイズにこうべを垂れた。「これはこれは! 想像よりも美しい!」と嬉しげな声をあげたクレイズは、「さて、それでは奥方を“居心地のいい部屋”へと案内してやってくれ」と上機嫌な声を出してこちらにちょいちょい指を向ける。

「鍵つきのお部屋でよろしいですか?」
「ん? ああ、そうだな、お前がどうしてもと言うのならなあ」

あくまでも、自分が提案したのではない、というふうに声を大きくして、わざわざアイリーンにきかせている。まあしかし、こちらの方が好都合だ。この部屋は特注の鍵がなければ行き来ができない。内からはもちろん、外からも手出しができないということだ、ということをアイリーンに伝えると、先程までの顔はどこへやら、「そうでしたか。それなら安心ですね」とふふ、と笑っている。

「まあでも奥様ほどの紋章の使い手ならば、こんな扉くらいぺしゃんこですよ」

いざとなればそういう手もある、と椅子に腰掛けるアイリーンに伝えると、彼女はぴたりと動きを止めた。表情を固まらせながら、瞳ばかりがパチパチと瞬きを繰り返していている。「……なんのことでしょう?」「あ、いや、すみません、なんでもないです」 慌てて首を振った。隠していることを、わざわざ表に出したいわけではない。そう思って視線をそらしたが、アイリーンはあっさりと諦めた。

「なぜわかったのですか? 夫のレパントくらいしか知りませんのに」
「うーん……勘ですかねえ」

覇王の紋章さんがいたときならば、文字通り見ればわかったことだが、今は薄っすらとラインがつながっている程度だ。紋章を保有している程度での判別は難しいが、それが高位の使い手であるならば、なんとなくわかる。ような気がする。勘、という言葉の範疇は出ない程度だ。
アイリーンは、あらまあ、とひらひらと長い袖の両手をさすった。長い裾の服は、紋章を隠すためでもあるのだろうか。彼女を見たときから、そのことには気づいていた。だから、俺が手を出す必要もなかったのかもしれない、とも思った。

アイリーンも、恐らく同じ考えに行き着いたのだろう。「では、なぜあのとき助けてくださったんですか?」 助ける、だなんてとんでもない。彼女は一人でも、どうとでもできたのだから。知ってほしくもなかった自身の幼い思考に羞恥して、口元を押さえた。「……女性が、男性に絡まれていましたから。もしかすると、心細いかもしれないと」 恐らく、少々赤面した。

本当に、ただの自己満足だ。なのにアイリーンが、「ありがとうございます」と改めて礼を言うものだから、返答に困った。「そのお気持ちが嬉しく感じたんですよ。まあそんな弱い女ではないつもりですが」「……ですよねぇ」 ぴしゃりとこちらの提案を叩き落としたのはついさっきのことだ。


とは言っても、やはり部屋で一人きりで待たせるのも酷だ。部屋のドアを開けながら、「奥方、この部屋の鍵は俺が持っています。誰も開けることはできません。いいですね、あなたは必ずここにいてください」 また戻ってまいりますから、と特注の鍵をちゃりちゃりと揺らして扉を閉めた。

レパントと赤月軍との衝突は避けられない。この場の目的は、レパントが帝国兵に勝利することだ。それもなるべく健全に。クリーンな勝利は解放軍の必須の条件だ。じゃなければ、軍がレパントと手を結べない。まずは彼に接触せねばと扉に背を向けたとき、がちゃんと目の前でバケツが落ちた。掃除用具がごろごろと廊下に転がっていく。

「……奥方……? 女性を、鍵で閉じ込めただって……?」

呆然とつぶやいた言葉が、次第にわなわなと震えていく。眼前では、筋肉隆々な見覚えのある男が拳を握りながらこちらを睨んでいる。

「ちょっと待った、パーンさん」

確実に語弊がある。いや間違ってはいないのだが。恐らくクレイズから、また嫌がらせの下働きを命じられていたのだろう。彼の姿が見えなかったから、アイリーンの連行は俺へと回ってきたというわけか、と納得したところで、真っ赤に染まる彼の顔を見て、これはもう一発殴られといた方がいいな、と素直に頬を差し出した。つもりだったのだが、反射的に避けていた。「お前……! 逃げるな! 恥を知れ!!!」「すみません、ついうっかり……」

右に、左にと避け続けたものの、体術ではさすがにあちらには負ける。できれば逃げ出したいところだがそうもいかない。

「パーンさん、これはクレイズ様の命ですよ」
「それがどうした! 婦女子を閉じ込めることに、何の意味がある」

ごもっともだ。彼の拳が鋭く風を裂いていく。しょうがない、と今度こそ覚悟を決めて両手を軽く上げた。降参のポーズだ。眼前でピタリと止まった拳を片目で見て、ため息が漏れた。「……何のまねだ」 憎々しげな声に苦笑する。「・マクドール」 彼の表情を見たところ、間違いはなかったらしい。

     彼は赤月の貴族、それも五将軍の嫡男として生まれました。

そうだ、あのグリンヒルで教えてもらったじゃないか。・マクドールは恐らくテオ・マクドールの息子であり、パーンはその従者だ。クレイズに顎で使われ、それに反抗する様子もない。まるで弱みかなにかを握られているようだ、とすれば見えてくるものがある。くんは、帝国から離反し、解放軍に参入した。パーンはそれに関わっている。

「パーンさん、あなた、なんでここにいるんですか。クレイズなんかのところで嫌がらせを受けているより、さっさとテオ・マクドールの元へ向かえばいいのに」
「……テオ様は、北方に遠征に向かっていらっしゃる。俺ごときに気にかける暇などない」
「まあ、そのあたりの事情は知りませんけど、わざわざこんなところにいる意味はないでしょう」
「お前に何がわかる!!」

この間も同じように叫ばれたというのに、相変わらず俺は学習していなかったらしい。彼は厨房で野菜を粉々に切り刻んでいたときよりも、ずっと苦しげな顔をしていた。突き出していたはずの拳はとっくの昔にどこかへ行って、バケツからこぼれた水でびしゃびしゃの廊下を睨んでいる。「坊っちゃんが、様が帝国から離反するなんて、考えてもみなかった。グレミオも、クレオも。だったら俺はどうする。俺はテオ様の臣だというのに、伺い立てることもできないんだぞ!」

つまり許可なく勝手な行動をできない、ということだろう。それ以外にも、色々と葛藤する思いもあるようだが、うまく言葉にできずに彼は苦しんでいるように見えた。その姿を見て、ああ、なるほど、と理解した。

「パーンさん、さてはあんた、真面目な人だな?」

わかったわかった、と納得してうなずく俺を、パーンは怪訝に見つめた。「いや、おかしいと思ってたんですよ。クレイズからの明らかな嫌がらせだとわかっているのに、手を抜くこともせずにあくせく働いてるなあと。だいたい、あなたは帝国の人でしょう。伺い立てるも何も、そちらにいることに疑問を持つ必要もないでしょう。何を悩むっていうんですか」

俺の言葉を聞いて、パーンはじわじわとこぼれていく汗を拭った。自分でもわかっているんだろう。まあでも別に、何か偉そうなことをいいたいわけではないし、ただ妙な違和感が気になっていただけだ。「じゃあ、そういうことで」 見逃してくれるならそれでいい。「いや、待て、お前!」 パーンはハッとして顔を上げた。とりあえず逃げよう。と腰にさした剣を片手に一歩を踏み出す。「解放軍が、攻めてきたぞ!!!!」 同時に伝令を打ち倒した。

出会い頭に一発、剣の鞘を叩き込んだ。壁に叩きつけられてへたり込んでいる元同僚を見下ろしている間に、追ってきたらしいパーンが、「お前は何をやっているんだ!?」 目をしろくろさせていた。気がおかしくなったとでも思われたらしい。

一人を倒したところで意味はない。そこら中から警告の音が響く。来たるべきときが来るまで、というマッシュの言葉を思い出した。解放軍が攻めてきた。いいや、レパントだ、とぶつかり合う混乱の声を耳にしながら、カチャリと音を立てながら鞘から引き抜く。内と外から。いい作戦じゃないか。混乱の声は膨らんでいく。「パーンさん、そういえば、言ってなかったけど」 煩わしい帽子はさっさと脱ぎ捨てて、放り投げた。

「俺の名前は。今は解放軍に席を置かせてもらってる。あんたが気にする・マクドールはうちにいるよ。とりあえず俺は今からここらへんにいる帝国軍を蹴散らそうと思うけど、あなたはどうする?」
「は?」

ちょっといきなり過ぎたかな、と思って、少し言葉を噛み砕いた。


「クレイズをぶっ飛ばしに行く。手伝ってくれるならそれでよし。そうじゃないなら、あんたから倒して俺は行くよ」

さてどうする。
パーンは逡巡した。そうして、彼の瞳を見て、「まあ、そうするわな」 納得して肩をすくめた。



***



コウアンにはレパントという男がいる。必ず役に立つはずだ。そう告げられたマッシュの言葉を信じ、この街へやってきたわけだが、残念ながら自信がなさげな顔の男にさっさと追い出されてしまった。「何が私の紹介だと言えば手を貸してくれるはず、ですか! ねえ坊っちゃん」 じたばた地団駄を繰り返すグレミオに、くすりと笑ってしまった。「そうだね。でもまあ、マッシュは信用のおける男だろう」 なんて言ったって、オデッサの兄だ。彼女は彼に多くのものを託した。俺たちも信じるしかない。

グレミオは何やら言いたいことをぐっと我慢する様子で口元をへの字にさせながら拳を握った。それからクリンという、いかにも怪しげな男の提案に乗り、レパントの屋敷から家宝である刀を盗み、無理やりに彼と出会うことができた。少々無茶な方法だが、こちらもあまり時間がない。始めこそ、虎のようなその姿で、顔を真っ赤にしながら怒り狂ったレパントだったが、マッシュの名を出すと、はあ、と息を一つ吐き、なるほどと頷いた。本来は冷静な男なのだろう。

妻のためにもと平穏な暮らしを求めるレパントに、仕方がないと諦めようとしたとき、飛び込んできたのは俺たちを門前払いした使用人だ。「旦那様! 奥様が新任の軍政官につれていかれました! どうかお助けを!」 なに、と吠えた瞬間、彼はすぐさま軍政官庁へと飛び込んだ。

さきほどまでのしおらしさはどこへやら。吠えて吠えて、怒り狂ったはずの剣の太刀筋には迷いがない。力を貸せと告げられ入り込んだ官庁は、なぜだか入り口ばかりに立派な絨毯が敷き詰められ、見掛け倒しのハリボテだ。今もその床も無残にもレパントによって切り裂かれている。

彼が大切にするものは、妻のアイリーンと銘刀キリンジ。なるほどその通りだったのだろう。しかし数が多い。振るった武器で男たちをなぎ倒すも、終わりが見えない。額に汗をこぼしたとき、ふと、奇妙な音が聞こえた。

部屋の奥から、まるで誰かが暴れ狂っているような。出てきた帝国兵は、こちらを襲うと思いきや、血相を変えて逃げ出していく。まるで中に、もう一組、俺たちがいるかのようだ。

     あくまでも、念の為ですが。事前の準備をしております

そういえば、マッシュがそう言っていた。これが事前の準備だろうか。ビクトールも怪訝に周囲を探っている。ふと、少年が飛び出した。俺と同じ頃の年頃だろうか。

背はあまり高くはないが、低くもない。ひどく整った顔つきだ。服装を見たところ、帝国兵の人間だろう。だというのに、剣を振り回して周囲の兵を次々になぎ倒していく。「……なんだありゃ?」 ビクトールの疑問も仕方ない。部屋中の帝国兵を一掃し、息をついたそのときに、彼はちらりとこちらを見た。


「…………くん?」


口元だけ動かしたような少年の呟きは、確かにこの耳に届いた。敵か、味方か。武器を構えたグレミオ達に片手を伸ばして静止させる。少年は、自分の言葉に驚いたように口元を押さえた。それから誤魔化したように、照れて笑った。




  

2019/11/09

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