皿洗いの男






くんがいるとか、聞いていない。

彼を見た瞬間、驚いて、きっと妙な顔をしてしまったと思う。始め、ちらりと視界の端で捉えたとき、一瞬誰だかわからなかった。彼と最後に出会ったのは9年ほど前のことだ。でも瞳を合わせたとき、すぐにわかった。まっすぐなその顔は驚くほどに変わっていない。ひどく懐かしくなって、「くん」と呟いた声は、聞こえていなければいい。そう思ったのに、彼はしっかりと聞いてしまっていたらしい。


「どこかで会ったことがあったかな?」 と首を傾げたくんに、「そうだね、一度。でも短い間だったから、きっと覚えていないよ」と適当に誤魔化したが彼は妙な顔をしていた。しくじった。

別経路から兵隊達を叩きのめしていたパーンと合流し、様々な気持ちが混じり合った見事な一発をクレイズに放ったところで拍手を行い、レパントと解放軍は手を結んだ。俺が奥方を攫ったと知ったときには、正直意識が飛ぶほどに胸元を捕まれ、地面と足がおさらばしたが、なんとかアイリーンが取り繕ってくれたことで助かった。

道中、パーンはくんにひどく気まずげに頭をたれていたが、くんは特には気にしていないように見えた。なんでも、パーンはくんがグレッグミンスターから逃亡した一因を担っているとかなんとか。詳しくは聞く気もないが、恐らく根は真面目なパーンのことだ。彼が帝国側についたことで、引き金となったのだろう。ただそのことに、彼も苦しみ続けていた。

くんは、いつの間にやらオデッサ・シルバーバーグが不在である解放軍の仮のリーダーとなっていたらしい。ただそれを大々的にするわけでもなく、あくまでも内輪での認識だ。その事実を聞いて、眉根を寄せた。

(もしかすると、オデッサ・シルバーバーグは、すでに……?)
そう考えると、しっくりくる。

目元を押さえて、考えてみた。でもきっと、考えても仕方のないことだった。



***



けらけらと楽しげな声があたりに響く。どんちゃん騒ぎでぐちゃぐちゃになって、手に持つ杯を何度も守る。「おーうう、ー!!!」「おわっと」 楽しんでるかー!!? と赤ら顔で叫びながら肩を組んできたのはシーナさんだ。いつもよりも大きな声でこちらに絡んできたが、周囲も同じようなものだ。

「新しく来たやつらの歓迎パーティだ! 言わば主役は俺たち! さー飲むぞ!」

そうなのだ。彼、シーナさんも、この戦いに参戦することになった。と、いうのも、コウアンから解放軍に戻る道すがら、補給のためにと通り過ぎようとしたセイカにて、彼は元気に女の子をナンパしていた。彼の父親であるレパントは、瞳を静かに燃え上がらせながら、「お前の馬鹿な根性を叩き直してやる」と首根っこどころか耳をひっぱり、ただただシーナさんの悲鳴が聞こえていた。でもシーナさんは多分こりていない。
(というか、シーナさんの父親って、たしか、初代トランの大統領だったような)

考えてみれば、大統領の名はレパントだとグリンヒルで知ったじゃないか。会ったこともないものだから、すっかり忘れていた。それは確かに必要な戦力に違いない、とマッシュの抜け目のなさに感心した。

「ほら、酒だ、酒を飲むぞ! ちゃんと飲んでるのか!?」
「俺は未成年だから……」
「はあーー??? お前年下だったのか?」
「いや、違うけど」
「じゃあ同い年か!」

今年で成人ってことだな! と背中を思いっきり引っ叩かれながら、いや多分それも違う、と突っ込む言葉を出す気だったのに、咳き込んでしまった。ここの世界と、日本とでは成人の年も違うはずだ。そういえば、シーナさんと初めて出会ったとき、『なあお前、お前と同じ名前で、俺と同い年くらいの親戚とかいる?』 ときいてきたのは、そういうことか。もともと幼く見られることが多いから、あまり興味はないけれど納得した。


ビクトールさんが、樽のような酒を飲んで、マリーに怒られている。そんな姿を見て、本当に懐かしいな、と顔が自然とくしゃくしゃと馬鹿みたいになってしまう。コウアンからの道すがら、この奇妙な興奮を抑えるのに必死だった。だって、本当に懐かしかったから。ポールくんがいて、フリックさんがいて、あの熊みたいな獅子の旗の下で、ぱたぱたとランドセルの蓋を揺らしていたときを思い出した。
フリックさんは、今はいないらしい。残念だな、と思う気持ちが正しいのかどうかは、よくわからない。


酒に酔う気持ちもまだわからない。ただ、楽しげな姿は見ていて楽しい。ふらふらと扉から出て、まるでバルコニーのように飛び出した岩から湖を見下ろした。「あーー……」と息を吐いて、持ちっぱなしだった杯は床に下ろす。笑い声と共に、静かな波の音が聞こえる。

? こんなところでどうしたの?」

慌てて振り返った。くんが、不思議げにこちらを見ている。どうしたもんか、と片手で顔を覆って、岩にもたれかかるようにして、少しだけ逃げた。「ああ、いや、アントニオさんに、申し訳ないなと」 料理の手伝いをと思ったのだが、今回の功労賞なのだから、とすっかりお役目は免除されてしまった。今頃厨房では、彼の白い帽子と共に忙しげに走り回っているんだろう。

「そうか。でもまあ、たまにはいいんじゃない。いつも厨房を手伝ってくれてるんだって?」
「いつもじゃ……ないですよ。たまにで。ほんとに」
「そうか、コウアンで潜入してくれてたんだもんね。ありがとう、君のおかげで、スムーズにことが進めた」
「はは。大したことはしてないんですけど、これでマッシュさんが、ちょっとは信用してくれるとありがたい……」

話しているうちに、どんどんと視線が下に落ちていく。うまく彼の顔を見ることができない。何を話しているんだろう、と自分でもよくわからなくなってくる。敬語で喋ればいいのか、それとも年下だから違うのか、と本当によくわからない。そうなってしまうのは、彼は“僕”にとってはヒーローだったからだ。

始めは同い年くらいの活発で、賢そうな男の子。そう思っていたのに、本当はバルバロッサ様を相手にして、怯むことなく真っ直ぐに立ち上がった少年だった。フリックさんに憧れていた気持ちと同じくらい、彼に憧れた。元の世界に戻っても、何度も彼のことを思い返した。あれから、彼はどうなったのだろう。そればかりが気になっていた。

その少年が目の前にいる。でもなんだろう。

「なんだか、イメージが違うな」

自分の考えが、読まれてしまったのかと思った。弾けるように顔を上げて、同じような背の彼を見つめた。「コウアンで、君と俺が会ったことがあると言ってたろう。やっぱりどうしても気になったんだ。どうしても、きみと初めて出会ったときが思い出せない」 そう眉根を寄せる少年と目を合わせて、ふと、さんを思い出していた。

さんも、さんと同じような年で、同盟軍のリーダーだ。シュウさんの手を借りながらも、彼の元には少しずつ人が集まって、希望が満ち溢れていた。それは彼の人望で、力だった。でも思い返してみれば、彼もただの少年だった。本当に、ただの少年だったんだ。

「……?」
「ああ、いや、ごめん。そのことだよね。出会ったときのことね」

んん、とこめかみをひっかいた。「会ったっていうのは嘘だよ。俺が遠くからきみを見かけて、名前を知っただけだ。だからきみは知りようがないことだ」 見栄をはってしまっただけだよ、とごめんと謝った。まあ、似たようなものだろう。

くんはなるほどと納得したそぶりで「それならよかった」と微笑んだ。「もし出会ったのに、忘れてしまっていたんなら、申し訳ないと思ってたんだ」 気にしなくてもいいのに、律儀なことだ。



これから彼は、オデッサ・シルバーバーグの名を継ぎ、様々な苦難を乗り越えるのだろう。長く付き従えた従者の一人を亡くして、様々な屍の上に立つ。従者とは、一体誰のことだろう。パーンか、それともクレオという女性か、あの優しげな顔をした青年か。それとも、もしかすると一人とは関係なく、全員なのかもしれないが、俺には知りようがないことだ。

けれども彼のこの先の道筋が、少しでも苦難が少ないことを祈った。彼はさんと同じ、ただの少年だ。きっと年も俺よりも下だろうに。なのに辛い重荷を抱えて進んでいる。そう考えると、ひどく胸が傷んだ。それをどう言葉にすればいいのかわからなくて、考えて、どうしても、伝えたいことができてしまった。

それで、彼をどう呼ぶべきか考えあぐねて、結局いつも通りに呼ぶことにした。すでにもう一回、言ってしまっている。

くん」

ん? と彼がパチリと瞬いた。

「俺は君にとって、大して力にもならないかもしれない。でも、できる限り、力になりたいと思う。誓うよ。気になにかあったときは、必ず……必ず、どこからでも駆けつける。約束する」

何を言っているんだ、と笑われてしまうかもしれない。
くんは少しだけ考えた顔をして、僅かに首を傾げた。いきなり何を言うんだ、と自分でも変なやつだ、と思うかもしれない。けれども彼はすぐに人好きのする顔をして、ひょいと左手をこちらに出した。俺の利き腕も左手だったから、あまり気にはならなかった。「よろしく頼むよ、」 ほっとして、彼の手を掴んだ。

わいわいとはずんだ声が軽やかに響いていく。酒がないぞと叫ぶ声に、そらそらと頭の上からぶっかけられる。「ああ、坊っちゃん、こんなところに!」 頬に十字の傷を持つ彼の名前はグレミオと言うらしい。彼もくんの付き人だ。「ビクトールさんがもう本当に大変なんですよ! 何を話しかけても笑うばかりで、まるで本物の熊のように!」

そりゃ大変だ、とくんは扉をくぐり抜ける。「それに坊っちゃん達は主役なんですから。あなた、くんでしたよね。その節はありがとうございました。ほらくんも早く!」

おいでおいで、と温かい場所に向かって彼は手を振っていた。
だから俺も、ぽん、と一歩を踏み出した。途端に明るい声がする。それから酒のかわりの果汁を飲んで、歌って笑った。腹を抱えて楽しんだ。

本当に、とても楽しかったんだ。





***






ここは空がよく見える。
彼はゆっくりと瞬きを繰り返して、城の真上から流れる雲を見つめていた。夜は暗い。けれども、とても空が近いから、月明かりの中でも、薄っすらと流れる雲がわかる。

ぴょこり、と花畑の中から、小さな顔が飛び出した。ように見えた。ただの彼の気のせいだ。けれどもまるで昨日のことのように、覚えている。

     ・マクドールと申します! バルバロッサ様!

城に忍び込んだ小さな侵入者は、悪びれもなく白い歯を見せ、幼い顔で笑っていた。立派な帝国軍人となる、そう嬉しげに告げた顔を思い出して、ふと僅かに、表情を緩めた。ときおり、左手の黄金の竜がうめいている。どこに向かえばいいのか、どこへ旅立てばいいのか。帰還を望む声が、自身を覇王たらしめる。

小指の先で僅かにひっかいたような、そんな奇妙な感覚があった。つながっている。何かに、俺はつながっている。ただそれが何なのかわからない。予感がする。


ちろちろと小さな花が揺れていた。彼の腰元程度の、幼い少年が揺らしているのかと思ったが、もちろんそれも気のせいだ。冷たい風が頬を叩きつけ、外套をはためかせる。息を吐き出した。

ここはとても、空が近すぎる。





  

2019/11/10

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