腹にひどく違和感があった。
腹が減っているような、満腹のような、そこに何かがあるような、何にもないような。


「ゲホッ……げほっ、げほっ……!」
「気づかれましたか」


遠く、男の声がする。低くもないが、高くもない。瞼を開けた。ぼんやりと黒ずんでいる視界を見て、夜なのだろうか、とふと考えた。けれども違う。血を流しすぎたのだ。
まずったな、と彼はため息をついた。すると喉に血が絡まった。げほげほ幾度も咳き込むと、「呼吸を落ち着けて、ゆっくりと」 なれた様子で、目の前の青年はの手を握りしめる。「私は医者です」 これは誰か、とが自身に誰何する間もなく、彼は名乗った。「ですから、安心して眠ってください」

(安心だと?)
ついしばらく前のことを、は記憶から呼び覚ました。ただ刀一本を構え、ハイランドの基地を逃げ出した。流れる血の跡を消そうと崖を降り、マヌケにも足を滑らせて濁流に飲み込まれた。刀は、腕を動かし、辺りをさぐる。あった。これだけはなくす訳にはいかなかった。は刀を抱きしめるようにたぐり寄せ、鈍く唸った。「動くと傷にさわりますよ。大丈夫、あなたはすぐに治ります。私の名はホウアン、大丈夫、安心してください」

男の声は、ひどくのんびりと、優しげだった。ふとそれに全てを任せてしまいそうになる自身に腹が立った。グッとは唇を噛み締める。けれども襲い来る睡魔に抵抗することができない。ゆっくりと再び瞼を閉じた。ふとそのとき、もう一人の気配を感じた。ホウアンと名乗る医師と、もうひとり。



   ***



「眠ったか」
「ええ」

ホウアンは青年の手をもう一度握りしめ、脈を確認する。問題はない。怪我もひどく、決して楽観することはできないが運のいいことに、全て急所をはずしていた。これが運であるのか、彼自身の力であるかはホウアンにはわからない。

「若いし、体力もありそうだ。なんとかなるでしょう」 そう言いながら眼鏡をかけ直し、手持ちの薬を煎じようと彼から目を離した時、ふと、見覚えのある青年であることに気づいた。そうだ、随分前に、弟子であるトウタが、山の中に入り込んでしまったときに出会った退治屋の青年だ。名前は確か、「…………?」 ふと言葉を漏らした。そうだ、間違いない。トウタが幾度も彼の名を口にしていた。

あのときは突然で、お礼もできないままであって申し訳がなかったと思っていたのだ。「まさか、こんなところでまた出会うだなんて」 人生とは不思議なものですね、とくすりとホウアンが笑ったとき、隣に座り込む剣士が、じっと彼を見つめていたことにふと気づいた。「…………どうかされましたか?」 いいや、と彼は首を振った。ミューズからここまで来るまで、彼がいなければ、今、ホウアンはこの場にいない。

旅の剣士であると聞いた。年は40を過ぎたかそこらであろう。太い眉を厳しく吊り上げ、じっと静かに口をつぐみ、濃い黄土のマントをはためかせる。若いころはさぞ精悍な顔立ちだっただろう。ふと、ホウアンは彼の分厚い手のひらへ目を向けた。剣には素人以下のホウアンにも、彼の腕がどれほどであるか、理解ができる。その腕には道中幾度も助けられた。

彼はじっとを見つめた。そしてまた視線を外し、どすりと剣を抱きながら土の上へと座り込む。「…………もしや、お知り合いで?」「いや」 彼は首を振った。けれどもどうにも口元に笑みを浮かべているように見えた。
それからすぐに、それどころではないとホウアンは素早く風呂敷を解き、取り出した薬草を煎じ始めた。



    ***



結局、が目を覚ましたのは、それから一週間と少しの時が経ってからだった。ぼんやり瞬きを繰り返すと、質素ではあるが、きちんとしたベッドの上に彼はいた。どこだここは、とギチギチと嫌な音を立てる体を起こし、部屋の中を見回す。誰かの家ではなく、宿だとすぐさま気がついたのは、妙に家具が少ないことと、宿などどこの部屋も似たりよったりなものが多いからだ。人の気配はするのに、生活臭はまるでない家など、そうそうないだろう。

「……なんで俺……あー、ホウアン……?」

夢うつつに聞こえた声が名乗った名だ。ホウアン、ホウアン、どこぞで聞いた名前だと口元で幾度も繰り返すと、丁度カチャリと扉が開き、長い髪の男が手元に桶を持ちながらひょいと体を覗かせた。「気づかれましたか」 よかった、と心底安心したように、彼は微笑んだ。「さん、あまり無理に体を動かしてはいけませんよ、傷に響きます」「…………すみません、俺、名前……」 言ったっけ? と首を傾げると、彼はにこにこと笑いながら、桶を床の上に置く。

「覚えていらっしゃいませんか。私はトウタの師匠のホウアンと申します」
「あ、ああ、どうりで」

見た覚えがある訳だ、と頷いた。すぐさま気づかなかった事実に少々気まずくなり、は肩をすくめた。「一応確認するとホウアンさん、ここはどこになりますか」「ラダトの街です」「そりゃまた……随分遠いところに」

ミューズからは随分南だ。驚いたな、とは苦笑を漏らした。川に落ちた際、ひどく流されてしまったのかもしれないが、それでも彼が最後に認識した場所とはまったくかけ離れてた場所だ。

「……申し訳ありません。私も向かうところがありましたので、こんなところまでお連れしてしまって」
「いや、こちらこそ言葉が足らず申し訳ない。ホウアンさんには感謝してもしきれません。もともと、目的はあるが場所を目指していた訳じゃない。どこに連れられようと、困ることのない身です」

あなたは命の恩人だ、とが頭を下げれば、ホウアンは慌てたように片手を振り、すぐさまの頭を起こすように彼に手を添えた。「何を言いますか、私は医者です。これが仕事です。その上あなたはトウタの恩人でもある。弟子の恩を師匠が忘れて何になりますか」「いや、しかし」「とにかく、今は体を休めてください」

意外にも押しの強い言葉に、は随分律儀な先生だな、とため息をつき、はは、と白い歯を見せた。わかりました、わかりましたよ、と頭をかくりと下げて、ごそごそと布団に潜り込む。まだ数日はこのままだろうか。つんと鼻にくる臭いは、ホウアンの薬だろう。あれからどれくらいの時間が経ったかはわからないが、傷を負った深さを思えば、随分体が楽になっていることに気がついた。彼は腕のいい医師なのかもしれない。


ふとは、彼が眠りに落ちる前にあった、もうひとつの気配を思い出した。「すみません、ホウアンさん、ホウアンさんの他に、誰か一人いませんでしたか」「ええ、彼があなたをおぶってここまで運んでくれたのですよ」「そりゃありがたいな」

いや、申し訳ない話なのかな、とは眉を顰めた。「それで、その人はどこに?」「もともと同じ場所を目指していた訳ではありませんから、この街の手前で別れてしまいました」 もう少し付き合うかと訊かれたのですが、あまり親切をあてにしてばかりではいけませんし、とホウアンは困ったように眼鏡を直す。

そうか、とただは頷いた。ふとまだ何か声をだそうとしたのだが、ホウアンはぽんとの肩を撫でた。「とにかく、眠ってください。どんな薬よりも、今のあなたには一番の薬になります」 医者と言うものは、声で患者を眠らすすべでも身につけているのだろうか。何か胸にひっかかることがあったはずなのに。

はうとうとと瞼を閉じた。ころりと落っこちる夢の中で、あれはどこか懐かしい気配であったと、ただそれだけを感じた。


 

2012/03/17
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