Aの手前、ったらa?

これはほんのちょっと、前のお話。
俺が彼女の名前も知らなかった頃。


人生で一番よく出向くところは、自分の家を除いたら多分ここになるんじゃないかな、と俺は頬をかいて考えた。しゅーっとガラスが左右に開く音がして、順番待ちの人の間にどっかと座る。白いナースキャップで、ピンク髪のおねーさんがたかたか早歩きで去っていく。
     ポケモンセンターだ。

別にバトルをしなくなって、定期的な健康診断も必要だし、ジムリーダーとして、彼らとの連携は必要不可欠だ。さて、ポケモンを無茶な扱いをさせるトレーナーはいないか。犯罪行為に使われることはないか。これもジムリーダーの仕事のうちである。

ポケットにつっこんでいた手を出し、大きく伸びをした。「あー……」 昨日から全然寝てない。だから注意力が散漫だったに違いない。「ひゃっ」「あ?」ぽこん、と俺の拳が何かにあたった。女の子の声だ、と気づいたときは、頭の回転が鈍くなっていた自分の背中にもささっと冷たい汗が流れて、「う、わ、すみません!」と言いながら思いっきり立ち上がり、背後を見た。

その先では、白いキャップを被った女の子がキョトン瞬きをしてこっちを見ていた。「ぶつかりましたよね、すみません痛かったですか!」「いえ、軽くですからお気になさず」 ね? と片手をはたはた振って笑う彼女を見て俺はゴクッと息を飲んだ。何度も瞬きをして、ぽかんと口を開けた。

どうしたんですか? と首をかしげる彼女を見て、思わず俺は言ってしまった。「ジョウイさんって、同じ顔以外にもいたのか!」

ぽかんとしたように、彼女はこっちを見ていて、俺は思わず口走った自分の台詞に焦りながらやべえとパタパタ手のひらを振った。「い、いや、そういう意味じゃ、いや、そういう意味なんだけど」

あわあわする俺が面白かったのか、彼女は我慢がしきれなかったとでも言うふうに、ぷーっと勢い良く吹き出して、手に持っていたファイルを顔の前に置き、ふるふると肩を揺らしたのだ。「そ、そりゃあいますよぉ!」

笑っている。ということは気を悪くした訳ではないのだろうか。ほんの少しほっとした。パッとファイルをどかして、俺の目を見てニコッと笑った彼女は、「とは言いましても、お手伝いなんですけどね。お邪魔しました」それでは、とペコンと頭を下げて行ってしまった彼女を見ながら、俺は妙に後悔して、名前くらい訊いときゃよかった、と思ったのだ。
けれどもそのときは、まあそれくらいいつでも訊けるさ。そう思ってた。



名前を訊くのが、こんなに難しいものだなんて知らなかった。

顔は合わせる。目が合えばぺこんと頭を下ろしてお辞儀する。だというのに会話に発展することはなく、そそくさと彼女は仕事に戻ってしまう。あっちはお仕事中なのだ。いちいち声をかけることはおかしいんじゃないか? いや、そんなことないか? 声をかけて、名前まで訊くだなんて、もっと変じゃないのか?

(まるで下心があるって思われそうだ)

そう思いながらんんん、と瞳を閉じて、家に帰ってワシャワシャイーブイの背中を撫でながら作戦を練ってみた。下心がないように。ひっそりと、あなたのお名前なんですか。俺は子どもか。というか、あっちは俺のことを覚えてるんだろうか。会釈をしてくれるということは、きっと覚えているに違いない。いや待て、もしかしたら俺が頭を下げるもんだから、あっちも合わせて頭を下げているのかも。いやいや。

「おし」 俺は一人で頷いた。それじゃあ今度は俺から頭を下げるのはやめよう。あっちが頭を下げたら、覚えてくれてる。そっからまずは、「こんにちはの挨拶だ」 気合は十分なのである。


俺はそそくさとポケモンセンターを訪れた。もうすっかり彼女の行動パターンが頭の中に入っていて、今頃はポケモンの餌をとりに入り口を横切るくらいで、と時計をちらちら見る自分がなんだか虚しい。そろそろだ、と心臓をばくばくさせて、俺はぼんやり待っていた。たったった。軽い足取りで一人の女の子が通りすぎようとした。やっぱりあの子だ、とわかっていたくせに、やっぱりなんだか照れてしまう。

わざと顔を背けて知らないフリをしていたところで、彼女が「あれ」と小さく声を上げた。俺はやっとのこと気づいたふりをして、彼女と目を合わせた。そのとき頭を下げようとした自分をじっと自制して、じっと彼女と見つめ合うと、なぜだか彼女も少しだけ気まずそうな顔をした後、ごまかしたようにニコッと笑って頭を下げた。俺も下げた。よおおおし! と心の中では力強く拳を握った。少なくとも、知り合いレベル!

「あ、こんにちは」
「こんにちは、いいお天気ですねー」

それだけ言って、彼女はたったか消えていった。うおおおし、と拳をもっかい握った後に、かたかた腰で揺れるモンスターボールに、ハッと気づいたのだ。中ではピジョットが、「ちょっとグリーンさん、今はお名前を訊くチャンスじゃありませんでした?」というように、赤いボールの向こう側でくいっと首を傾げている。隣のガーディが、「だよねえだよねえ」というふうにうんうん頷いていた。「よ、余計なお世話だー!」

モンスターボールに叫ぶ男、ここにあり。
とぼとぼその足でジムに向かった俺は、挑戦者たちに「よー、俺はここのジムリーダーのグリーンだ。さーて、倒せるもんなら倒してみな!」とビシッと人差し指を突き刺した。
そっから先のことはバトルで頭がいっぱいになったものの、家に帰って風呂に入って、わしゃわしゃタオルで頭をふいているときに、「なんで挑戦者にはふつうに名乗れんのに、あの子には無理なんかねー」と一人首を傾げてしまった。

普通に自分の名前を言えば、あっちの名前が返ってくるはずで、そんなの普通のコミュニケーションであって、日常的にしていることなはずであって。
だというのに、なんで俺はそんなコミュニケーションがわからなくなってるんだろう。わしゃわしゃわしゃ。タオルで拭く端から、水滴がぽたぽたこぼれ落ちて、絨毯に丸い円をつけた。ぽたぽた。

時々目があって、頭を下げるだけで、まともに話したことは、こんにちはの挨拶を含めてたった二回。だというのに、俺はその全部のことを、何度も頭の中で思い返していた。最初のくすくす肩を震わせていた彼女のことを、何度も大切なものみたいに思い返していたのだ。(下心がないように、名前を訊く……)

唐突に気づいた。そして一人で頭を抱えて「うああああ」とばたばた暴れた後、ベッドに顔をつっぷした。あるから訊けないのだ。簡単な話である。
「そりゃあ、きけねーわなー……」

はいはい納得しました、理解しましたと情けない気分になって、そっしゃそんなら、なおのこと名前を訊いてみせるぞ、とがばりと顔を上げた後、きらきら光るお星様に誓ったのである。絶対名前を訊いてみせる。
気のせいか、ハードルが低い。



「はい、お名前は……」
「グリーンです!」

ある日それはやってきた。俺は彼女に向かって主張した。6つの丸いボールをささっと出して、受付の紙になるべく丁寧な文字で「グリーン」とかいて目の前の彼女に提出する。よし、名乗れた。多分これは反則だ。しかし名乗れた。たとえポケモン回復の業務内容だとしても、名乗れた!

彼女はにこにこしながら、まあおそらくサービススマイル抜群なままに、「はいグリーンさんですね。ポケモンをお預かりしますので、少々お待ち下さい」 そう言って、彼女は俺が書いた紙の上の一番上の欄、担当者、と書かれた場所にかりかりと文字を書いたのだ。「」「はい?」「あ、いや、思わず」

俺が担当者名のところをちょんちょんと指でさすと、彼女は不思議顔からすぐに笑顔に戻って、「申し遅れました。私、ポケモンセンターお手伝いのといいます」「ああ、俺は、グリーンです」 どんだけちんたらした流れなんだよ、と自分自身を殴りたい気持ちになりつつ、目の前の6つのボールが、「グリーンさん、よかったっすねー」とでも言うようにカタカタ震えていることに、お前らよけーなお世話だ! と僅かに照れつつ、多少感謝の念を込めて、ボールごしによしよし、となでてやった。

そんな俺を見て、さんは「あのう、グリーンさんって、もしかしてご職業は」「ああ、ジムリーダーです」「あ、やっぱり」 すごいですねぇ、とにこにこ笑う彼女が、なんとなく直視できずに、「ああ、まあ、別に」と俺はそっけない言葉を出していた。
彼女は途端に不安げな顔になって、まずった、と俺はごくんと唾を飲み、「さんって、ここの手伝いなんですよね。やっぱりポケモン好きですか」「はい! すっごく!」 そう言った後、彼女はあっ、と声を漏らして、恥ずかしげにこちらに背を向けると、ポチポチ機械のボタンを押した。うぃん、聞きなれた起動音を耳にしたせいか、ぼんやり落ち着いた気分のまま、ぽそりとつぶやいていた。「俺、ポケモン好きな子って、好きだなぁ」


何を言っているんだ、と気づいたときにはもう遅い。後ろから見た彼女は、髪の毛をかけた耳を真っ赤にしていて、ポチポチとボタンを触っていた。その後姿を見ていると、なんだかこっちまで顔が赤くなってきたような気がして、俺たちは無言のままに、ぼんやりしていたのだ。(こりゃあまずい) まずった。

はっきり気づいた。
(俺、この子が好きだ)



***


「うちにイーブイがいるんですけど、来ますか?」

珍しいポケモンだ、と言ってしまえばそれで終わりだ。珍しいも、珍しくなんかもどっちでもいい俺の相棒のことを、ふと思い出しながら俺は彼女に言った。おそらく、イーブイを実際に見たことのあるトレーナーは少ない。図鑑だけではなく、実物を見れるなら、というふうに、それこそ彼女にイーブイの耳としっぽがあれば、ぴんと耳を立てて、はたはた大きな尻尾を振るくらいに喜んで、けれども僅かに迷った顔をした後、さんは、「それじゃあ、お邪魔じゃないのなら」

おっしゃあ! 
これをきっかけにお知り合いからお友達になってやる、と拳を握っていたはずなのに、気づけば俺は彼女にキスしてお知り合いどころか、彼女の中で誰にでもそんなことをする下半身の弱い男とランクダウンした訳ですが。



はー、とベンチに座りながら、ぼんやり空を見上げていた。
避けられると思ったはずなのに、「……なんとも思ってないですと」 それはそれで、胸に重っくるしいものがある。ひゅうひゅうと冷たい風を頬に当てながら、もしかしてさん、意外とプレイガールなんすかねぇ、と皮肉に笑って、そんな自分の想像が意外と面白かったので、ゲラゲラ笑って、悲しくなって泣けてきた。

あーあ、と伸びをして両手を握りしめて伸びをした。ぽこんっ
そのとき、手のひらが何かにぶつかったのだ。「ひゃっ」 女の子の声が聞こえた。
俺は慌てて体をひっくりかえして、声の主を探した。彼女はびっくりしたみたいにこっちを見ていて、まるで一番最初に会ったときみたいだなぁ、と一瞬トリップしたのだけれど、それどころではない。「いや、またなんか俺、すみません!」「ええっ、大丈夫ですよ。ちょこっと当たっただけですよ」

さんは困ったように片手をはたはた揺らして、そうした後に俺たちは無言のまま見つめ合った。ひゅーっと風が通り過ぎて、ぶるりと震えた。「グリーンさん、こんなところにいたら、風邪をひいちゃいますよ」 じゃああんたがあっためてくれよ、と冗談で言おうとして、ハハハ、と笑ってごまかした。

近いな、と思って、俺はベンチから立ち上がった。
ぬっと手が出てしまったらたまらない。「そんじゃあ、風邪ひかないうちに帰んます。さんも、それじゃあ」

それだけ言って、一、二歩、歩いた。けれども、と振り返って、「送りましょうか」
ぼんやり灯る街灯が、俺たちの間をともしている。さんはにこりと笑って、「大丈夫です!」と手のひらを振った。「そっすか」 俺はすぐさま反対を向いた。ポケットの中に手をつっこんで、てくてく歩いた。そして走った。力いっぱい走ってた。

ハッと自分自身哂うように息を吐き出した。バッカが。
(俺は、自分であの子の信頼投げ捨てたんだっつの……)
避けられるのも当たり前だ。「……あきらめたくねーなー……」 ちょっとくらい、可能性があるんなら。
「あきらめたくねーなー……」



***


私は力いっぱい走ってた。変じゃなかっただろうか。ちゃんといつもどおりお話できてただろうか。
走りすぎて苦しくなった息を自分自身落ち着かせて、「あー、びっくりした」と誰にきかせる訳でもなく呟いた。
いきなりはやっぱりダメだ。覚悟が足らない。送りましょうか、という彼の言葉に、もう少しで頷きそうになっていた。そんなのだめだ。
よくわからないけど、ずるい気がする。やっぱりずるい。
(でも)

「送ってもらったら、よかったな……」

やっぱりそう思ってしまう。
ぽこん、と自分の頭を拳で叩いて、「あーあ!」と息を吐き出した。グリーンさんは好きだ。とっても好きだ。でも、別に、何を望んでる訳じゃないんだ。そう思わないと、彼に迷惑をかけてしまいそうな気がする。それなのに。「……私、ずるいなぁ……」 じわっと涙が溢れてきた。「今日、お話できて、嬉しかったなぁ……」


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