まだまだ前へは進まない


グリーンさんがやってくるのは週に一回。
たまたまタイミングよく、私が表に出ていればいいけれど、いないときはしょうがない。いてくれたらラッキーなんだ、と自分自身に言い聞かせて、ポケモンたちの頭をよしよしとした。急いでお世話を終わらせるなんて、可哀想なことができる訳ない。
ピカチュウのアゴを、かりかりひっかくと、うふー、と言うように、ぴくぴく耳の先っちょを震わせてとっても可愛い。私もんふー、と笑って、もう一回、かりかりアゴをひっかいたのだ。



今日も私はラッキーだったらしい。丁度ポケモンセンターから去っていく背中に向かって、「グリーンさん!」と呼びかけた。あと一歩遅ければ、きっと後一週間会うことはなかったのだ。思わず顔がにこにこ緩んでしまって、はたはた手のひらを振ると、ゆったりと振り向いたグリーンさんが、気のせいかちょっと呆れた顔をしてこっちを見ていた。(いかん。いかんいかん)

ほっぺたが緩みすぎているに決まっている。私はきゅっと口元に力を入れて、ゆっくりとこっちに歩いてくるグリーンさんと、おんなじくらいにゆっくりゆっくり歩いていった。「グリーンさん、こんにちは。今おかえりですか?」「……うん? そうですよ」

グリーンさんがゆっくりと首をかしげる様を見て、私はハッと背筋が寒くなった。
そうだ、文字通り、グリーンさんは帰るところだったんだ。そんなときに、こんにちはー、と声を掛けるだなんて、私はバカじゃなかろうか。迷惑に決まっている。あわわわわ、と両手をパタパタと動かして、それじゃあグリーンさん、さようなら! と言おうとしたのだけれど、それはそれでまた失礼な気がする。

あわあわしていた所為か、ずるりと頭のナースキャップがずり落ちてしまった。ひゃっと手を伸ばそうとしたとき、ぴたりと温かい指先が、私の手に触れた。
びくり、とお互いの手のひらが自分でもびっくりするくらい震えた。ナースキャップはポトンと地面の上に落ちて、暫くそれを見つめた後、いったい何が起こったのか分からなかった。けれども一緒にぼんやりと帽子を見つめているグリーンさんを見て、ああなるほど、二人一緒に、帽子に手を伸ばしたんだ、と気づいたとき、カーッと顔が赤くなってきた。

それを隠すみたいに両手を頬に持って行って、けれどもまたハッと気づいて、ナースキャップに手を伸ばして、それを顔の前に隠すように持っていく。
どうにもいけない。「あ、お、おっことしちゃいましたねぇ」 本当にいけない。

何でこれくらいのことで、自分は赤面しているんだろう。前までなら、これくらいのことだって、うわ! うわー! と心の中で大騒ぎしていたけれども、表面上はもうちょっと静かになっていたはずなのに。
グリーンさんに、キスをされてしまってから、どうにも思考がそっち方面に行きそうになるのだ。やらしい。まったくやらしい。これじゃあグリーンさんに気があると堂々と言っているようなものじゃないか。そのとおりだけど!

お、おさまれぇー、おさまれぇー、私の顔よ、元にもどれぇー、と心の中で謎の呪文を唱えて、ぎゅっと瞳をつむり、ぱっと目を開けた。けれどもやっぱり、ほっぺたと耳下辺りに血がのぼっている気がする。言い訳のように、私は口を開いた。「あ、いえ、あの、私、男の人にはあまり慣れていないので……!」 言った後に後悔した。これはこれで恥ずかしい。

グリーンさんの方も、どう言っていいのか分からず、「あ、そうなんですか」と真顔で頷いていた。恥ずかしすぎる。
どうにも空気に耐え切れなくなって、私は頭を下げて逃亡した。
家に帰ってからも、何であんなことを言ってしまったのかと枕に頭を埋めて赤面しながら、足をばたばたさせた。泣ける。




***



「おー、じゃあポケモンセンターに行ってくらー」

ジムにてトレーナー達にそういうと、彼らはこぞってニマニマした顔をしながら、「あ、またポケモンセンターですかー。ですかー。じゃあ帰ってくるのは遅いですねー」と何やら訳知り顔をして、うんうんと頷いていた。正直、俺は心の中はぎくーん、と跳ね上がったのだけれど、「あほ。昼飯も一緒に取ってくるだけだ。後は仕事だ仕事。さぼんじゃねーぞー」と片手をひらひらさせながら、靴の紐を結んでジムを出た。

いやまあ、カッコつけて出たはいいものの。

……俺って、モロバレなんだろうか。

…………モロバレだよなぁ。


ポケモンセンターに行こうとなると、どうしても顔がニヤつくのだからしょうがない。多少の恥ずかしさと、後ろめたさを感じながら、俺はたったかポケモンセンターへの道を歩いた。

昼飯も一緒に取っているというのは嘘ではない。さんは表に出ているばかりじゃなくて、裏でポケモンたちの世話をしているのだ。だから、俺が行っているときに、いつもいるという訳ではない。だから俺は、ぼんやりポケモンセンターの前のベンチで握り飯を食べながら、なるべく時間を潰して、彼女に会う大義名分を作っていると言う訳だ。

こうして正直に理由を上げてみると、情けないばかりであるけれど、結局毎回同じような行動を取って、彼女に偶然会えたようなふりをしてしまう。「あー……」 もぐっと握り飯をかみしめ、口の中でほろりと崩れるおかかが、なんだか虚しくなってきた。



「グリーンさーん」

背中から聞こえてくる声で、誰なのかすぐにわかった。すぐさま振り返って、さん! と声を掛けることは、自分の中の情けないプライドが邪魔をした。だからわざと余裕ぶって、のったり歩いた。

いやあ、あっちがね、俺のことを好きってんならね、いくらでもアタックしてやるさ。けれども俺は一回砕け散った男であって、これ以上砕けたら、なんにも残らん。この人なんなの、とさんがささっと俺から距離を開けてしまったらと考えると、ギリギリ胃が痛くなる。今がギリギリの状態なんだ。だからこれ以上進んで行こうとか、一歩下がろうとか思ってはいない。いや、できることなら進みたい。けれどもそれはゆっくりだ。ゆっくりゆっくり。性急に物事を運んではいけない。なのに。

さんはにこにこーっと力の限り笑ってて、きゅーん、といろんなものが打ち抜かれるかと思った。ガクッと膝が崩れそうになった。グリーンさん、100のダメージ、いけません、HPはレッドです。ピコピコいってやがります。

精一杯いろんなものを我慢して、俺は出来る限りの鉄仮面を顔に貼りつけた。下手にしゃべると、ぼろぼろ口元から剥がれていく。だから言葉もおざなりになるようにと彼女と話していると、彼女の頭のナースキャップが、ぽろりとこぼれた。ああ、ずれたんだな、と特に何も考えることなく手のひらを伸ばすと、ぴたっと指と指が合わさった。うぐあ。

勘弁してくれ。
この人は俺を試してるのか。
多分微かに赤くなった頬を隠そうと、ぺしぺし片手で頬をひっぱたいた。これは照れて赤くなっているのではなく、叩いて赤くなったのだと自分自身よく分からない言い訳を念じながら彼女を見ると、彼女は彼女で、頬をピンクにさせていて、それをごまかそうと一生懸命小さな帽子で隠している。いや、誤魔化せてないし。

さんは、きゅーっと瞳をつむっていた。ふらふら顔を近寄らせ、あと一歩のところでパッと彼女が目を見開いたものだから、俺は慌てて後ずさった。危なかった。あと少しで同じ過ちを繰り返すところだった。自分自身信じられん。
はー、と胸を撫でているとき、またまた彼女はどかんと爆弾発言を転がしたのだ。

「あ、いえ、あの、私、男の人にはあまり慣れていないので……!」
「え、あ、そうなんですか?」


何がそうなんですかだよォー、俺はソーナンスかよォー! と頭を抱えて死にたくなるような気持ちになりながら、言い訳をしようと顔上げた瞬間、彼女はなぜか消えてた。逃亡していた。「そ、それではグリーンさん!」 遠くで捨て台詞のように言いたいことだけ言って、ぱたぱたポケモンセンターのドアの中へ消えていく。
(…………えええー…………)

慣れてないって、なんすかさん。文字通りに受け取っていいんでしょうか。もしかして俺は、さんの初キスでも奪ってしまったんでしょうか。でもちょっと待ってください。そういう割には普通に接してくださいますよね。なんですか、俺だけオッケーってことですか。いや待って、赤面してたし。「ああー…………」

俺は頭をぐしゃぐしゃかきながら、ふらふらベンチへ歩き、どすんと一気に腰をおろした。そして悟った。

彼女の言葉は深く考えたら負けだ。

結局、恋愛なんて惚れた方の負けに決まってるのだ。しょっぱなから負けが決まっている勝負なのだ。勝負はやってみなければわからない。ずっとそう思っていたのに、どうやら違ったらしい。こんな奇天烈な勝負は、初めて挑んでみたが、中々苦しい。「あー………」 俺の声、こんなにしょぼくれてたっけ? と自分自身首を傾げた。



「グリーンさん、やっぱり遅かったじゃないですか。楽しんできましたかー? うりうり」
「お前今すぐ絞め殺す」
「!?」



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