Aとaの間
敬語で話すと、さんはほんの少しだけ残念そうな顔をした。気のせいか、と思ったけれども、ぐっと唾を飲み込んで、「鍵、かけるまで待って。送るから」 断られるか、と思った。この間は断られた。けれどもさんは、ほんの少しの間の後、「うん」と頷いた。よし。
『グリーンさん、もっと押しちゃってもいいんじゃないですか』
ウソッキーの葉をもさもささせながら、口元をにやつかせていたトレーナのデコに、パシーンとデコピンを放ってやったのを思い出した。余計なお世話である。
「寒くなったねー」
「そうだなぁ」
ぽてぽてポケモンセンターへの道を歩きながら、なんとなく、慣れないな、と舌の上で言葉を転がした。なんだかくすぐったい。でも多分、そのうち慣れる。少しずつ、進んでいるような気になった。「グリーンさん、いつもこれくらいの時間に帰るの?」「うん? いや、今日はちょっと早いかな、ジムも休みだし」
大変だねぇ、と言う彼女に、「まー、ぼちぼち」と言葉を返して、ふと、隣のさんを盗み見た。はー、と彼女は口元から白い息をはいていた。本当に、寒くなったな、と思った。頭のナースキャップは、今は鞄の中に閉まっているらしい。
「さん、上着はねーの」「あ、こんなに遅くなるとは思わなかったんで、ポケモンセンターにあるんです」と、言った後、彼女はぺたりと口元に指を伸ばして「あるの」と、言い直した。あ、なんか可愛い。「ぶはっ」と笑ったら、さんは恥ずかしそうに目線をそらして、耳が赤くなっていた。
「上着、貸そうか」
言った後で、やばいかな、とは思ったけど、今更言った言葉が口の中に戻る訳がない。さんは、ぱっと俺を見上げた後で、困ったような顔をした。「だいじょうぶ、もうちょっとで着くから」 軽く振った指先はぼんやりとした電灯の下で、赤くなっていた。「おう」 そっか、と俺は頷いて、彼女から視線を逸した。その後で、にゅっと手を伸ばして、彼女の指をつかんだ。
さんが、ぎょっとした顔をして、自分を見上げたのが分かる。半分もう自棄だった。彼女の指をぎゅっと握ると、やっぱり冷たくて、かじかんでいた。「つめて」と一言だけつぶやくと、ぎくりとしたように彼女は肩を震わせて、俺の手のひらから逃げようとした。けれどもぎゅっと捕まえた。そのまま、自分の上着のポケットに入れた。「えっ」とさんが小さな声でつぶやく。俺はそのまま無視して、彼女の一歩前を進んだ。
「もうちょっとで着くんだろ」
それだけ言って、ポケットの中の彼女の指を、ぎゅっと握った。(ちっせ) 指の間に指を入れると、ほんの少しだけ彼女の手のひらが震えて、嫌がられたのだろうか、とドキリとしたが、冷たかった彼女の手のひらが、ゆっくりと暖かくなっていく。ぎゅ、ともう一度指をさすると、彼女はなんにも言わなかった。振り返らなかったから、顔も分からないけれど、多分、照れてるんだろうなと思った。
俺と同じく。
***
寒いから、手を握る。
そんなの当たり前のイコールなんだろうか。私はぐるぐる混乱して、ぶるりと冷たい風に震えていたはずなのに、今ではびっくりするくらいに体がほかほかしていて、どうすればいいかわからなかった。
グリーンさんの顔を見上げても、彼はぼんやり前を見ているだけで、意識している私一人が恥ずかしいみたいだった。(近い) 距離が近い。
ばばば、とどんどん体温が上がってくる気がする。何だか苦しい。グリーンさんの匂いがした気がした。前にちゅっとキスをされたときと、おんなじ匂いだ。
誰かにすれ違ったらどうしよう、と少しだけ慌てて顔を伏せた。一瞬、知らない誰かが通り過ぎたけれど、特に私たちを気にすることなく、隣を通って行く。やっぱり私が気にし過ぎているだけなんだろうか。それとも、(付き合ってる人って、見られたんだろうか)
きっと、私ならそう思う。
あの人達は付き合ってるんだなぁ、と思って、通りすぎる。グリーンさんと私が、そんな風に、と思ったら、なんだか申し訳なく感じる気がした。そうだったらいいのに、と心の中の大半で考えているからだ。でも、もしそうなら、そうなる前に、言う言葉ってある気がする。好きとか、付き合ってくださいとか、そういうことを言わないと、付き合うことにならないんじゃないだろうか。(わ、私が、変なのかな……)
意識しすぎている私が変なだけで、グリーンさんにとったら、こんなこと、当たり前みたいな。
みんなに、他の女の人にも、普通にこんなことをしてるんだろうか。
(グリーンさんに、彼女はいないって言ってた)
確認したらいい。グリーンさん、私のこと、ちょっとでも好きでいてくれますか。うん、と頷いてくれたら、私はすごくうれしくてたまらなくなると思う。でも否定されたら。何言ってんだ、こいつ、と思われたら。ぶるっと怖くなった。
(相手の気持ちが、わかったらいいのに)
あの人はこの人を好きとか、好きじゃないとか、目に見えて分かればいいのに。
そしたら色んなことを期待したり、不安に思ったりせずに済む。(けど、そんなこと、できる訳ないし) 私は、精一杯の勇気を振り絞ろうと、ぎゅっと彼の手のひらを握り返した。グリーンさんも、すぐに手のひらを握り返してくれた。うう、とドキドキしすぎて、思わず瞳を伏せた。
別に今だけ幸せでもいいから、絶対この感覚を忘れないようにと、肩に掛けた鞄をずり落ちないように反対の手で持ち上げて、そのままきゅうっと痛くなる耳元に指を伸ばして、グリーンさんの手のひらを、ゆっくりと握った。